勃ちあがった象の白い涙の物語

ロックンロールにゃ老だけど死ぬにはチョイと若すぎる

梅原猛の『歎異抄』入門

2016-10-02 08:07:50 | 書籍
TVなどでは無責任男のキャラクターを演じていた植木等であるが、彼は元々は寺の住職の息子で、そういう生活環境で育ったせいか、本当は非常に真面目な性格の人間であったらしい。
それだけに、彼の代表曲ともいえる「スーダラ節」の、そのあまりにふざけた内容に、当初は、歌うことをためらったそうである。
ただ、「スーダラ節」を聞いた彼の父親である住職が、「わかっちゃいるけどやめられない」という歌詞の部分に、親鸞聖人の教えに通じるものがあると諭され、歌うようになったという有名な話がある。
振り返ってみれば、私も日々の生活の折々に、この「わかっちゃいるけどやめられない」行為を、多々、犯してしまっている。
電車に乗れば我先に空席目指して進み何とかして座ろうとするし、買い物に行けばきれいに陳列されている商品の3列目4列目のものを手に取ってしまったりするし、ごく稀に、タバコの吸殻をポイ捨てしてしまったりもする。
それぞれ、本当はいけない行為だとは知りつつ、さほど大したことではないし、ましてや犯罪になるようなことではないと思いながら、ある意味、確信犯的な心境でやってしまう。
不勉強なので、詳しくは分からないし、本当のところはどうなのかも知らないし、間違っている可能性は高いのだが、浄土教の教えの真髄は、「南無阿弥陀仏」と唱えることで、「極楽浄土」に往生できる、ということだと思っている。
特に、親鸞を開祖とする浄土真宗においては悪人正機説をとなえ、悪人こそ救われると説かれている。
もし本当にそうならば、何の反省もなく「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで「極楽浄土」に行けるならば、どんな悪人も悪人のまま「極楽浄土」に行けることになり、「極楽浄土」には、そんな悪人がそのままの心持で存在していることになる。
極端な話、あの麻原彰晃もヒトラーもその生前の考えのまま、「極楽浄土」に往生できるわけであり、そこまで極端でなくても、世の中に数多存在する性格の悪い奴や嫌な奴がそのまま存在するような世界は、それを地獄だとまでは思わないが、今の世とまったく変わることのない世界で、とてもじゃないが、「極楽浄土」と聞いて想像するような、心穏やかに過ごせる楽園の様な場所とは思えない。
ただ、ある意味、そういう罪深い人々も含め、諭し許される、そういうおおきな愛の様なものは感じることができる。

思えば、キリスト教においては「懺悔」という、反省することで罪を許す、というようなものがあるが、日本の宗教である神道や仏教においては、そういう概念は希薄なんじゃないか、と思っている。
絶対に許されたり救われたりできないような、とんでもなく大きな罪というのは存在するとは思うが、我々が常日頃に犯してしまう小さな罪までもが許されないとしたならば、それはあんまりなことではあるし、そういうものを救うことが、ある意味、宗教の役割のひとつなんじゃかいか、とも思う。

だから私は、そんな日々の生活と罪を折に触れ反省することもあるのだが、そんな時に「南無阿弥陀仏」とつぶやくようにしている。
こんな念仏を唱えただけで罪が消えるとは思えないが、これらの行為を許してもらえるならば、と思い、思わず「南無阿弥陀仏」と唱えてしまうわけである。



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