長宗我部信親と津野親忠。吉良親実に続いて、信親の死により大きく運命が変わってしまった人の一人、元親の三男・津野親忠。
一度、梼原町の図書館で檮原町史について調べさせてもらったことがあります。…龍馬伝関連の施設・ゆすはら維新の道社中を訪れた際に調べたのですが…いきなり社中の受付のおじさんに龍馬や維新志士の事ではなく、「津野親忠公についての資料あります?」と聞いて相当面食らわせてしまいましたがね!
それでも丁寧に、受付で他の職員さんに「僕昼休みにいってくるから!」と社中の受付を抜け出し、町立図書館に案内してくれ、丁寧に資料を出してくれました…。おじさんに感謝!
資料によると、親忠は養子に来たものの、領民の事を考え大事にした良き当主だったようです。藤堂高虎の下で一年ほど人質生活を送ったときも積極的に上方の経済を学び、それを領地経営に反映させ、ともすれば経済的不利益を被りそうな山間部を活性化させて経済の安定を図った。名君の器量を持っていたといわれる一端でしょうね。
だからか、その器量が継嗣である盛親を上回るのを恐れてか、領地内で解決できない事件がおきて元親に助けを親忠が求めた時、元親が親忠は領主の器なし、としてそれを理由に幽閉した。…その後、関が原後に盛親の命によって自刃している…。
もし、信親が死なずにすみ、元親が変貌せずに穏やかに家督相続がなされていたら、信親と親忠の関係はどんなものだったのだろうかと想像したりします。父・元親とその弟達・親貞&親泰の様な関係になっていたのではないかな、と思っています。
武勇に優れ教養もある人望厚い信親と、内政面に優れやはり人望のある親忠。経済にも明るい事や、藤堂高虎とのやり取りも頻繁に会った事から親忠は外交面にも優れていたのかもしれません。
信親の人物評から見るに、才能ある弟に嫉妬することなく、その才能を認めて仲良く共にあろうとしたのではないかと。父と叔父達の関係そのままに。
仮に…もし信親が関ヶ原の戦いで西軍に付いたとしても、薩摩の島津家と同じやり方で長宗我部家の存続はなされていたようにもおもいます。藤堂を介して徳川と結びつきのある親忠が長宗我部家に還り家督を継ぎ、信親は当主を退いて蟄居する、といった感じに…。
前の兄弟話①でも書きましたが、これは私の中のif。でも、やはりこの信親と親忠についても…戦国時代が終わり、太平の世に移り行く過渡期にこの兄弟はどんな形で時代を過ごしていったのだろうか、そう考えてしまいます。
…この二人の兄が生きていて良好な関係にあるのなら、きっと盛親ももっと違う人生が歩めた様な気がします。彼は最後の戦国武将として、最期まで諦めず、戦って死ねたという武将の本懐に尽きると思いますが、やはり最期はもの悲しく感じるので…。
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