アオの国から~徒然日記~

TRPG&ゲーム感想・日々の感想・映画&アニメ&漫画感想・歴史(主に長宗我部関係)等、私的趣味の気の向くままに。

一つ、山を越えました

2013-02-17 18:54:51 | 日々の呟き

 先週はイベント参加の為にてんてこ舞い、今週は今日あったとある試験の為にてんてこ舞いでした。…これからやっとまたブログ活動ができます!!とはいえ、今度は長宗我部関係で忙しくなるかも、です。

 最近は史跡関係や、長宗我部家の人物関係について全く触れていないので、そろそろ史実関係の文章を書きたくなってきました(笑)。しかし、親忠公の命日に合わせて~!!と書いていた小説が書きかけで止まっているし、ホビットの感想や、四百年の襷レポも途中で止まっています……ああああああ……なんか駄目だなぁ~。

 史跡レポとして、近々調べに行こうと思っているのが、薫的和尚のお墓です。これ、朝のウォーキングコースをいつもの高知城コースではなく、西側の山ノ端町方面に行った時に偶然見つけました。もちろん、ウォーキング中だったので、デジカメは持ってきてなくて、お墓まで上がらずにそのまま帰りましたが、近いうちに行ってみようかと思っています。薫的和尚についてはまだ私も不勉強ですが、確かこのような方だったと思います。

『薫的和尚』
 もとは一条氏と共に土佐に下向した池田家の出身。長じて長宗我部元親の父・国親の菩提寺であった瑞 応寺の住職となった。元親が岡豊城から大高坂城へと居城を移した際、岡豊城の近くにあった瑞 応寺も大高坂城下へと移し、大高坂城の北東に位置付け、鬼門封じの寺とした(ちなみに裏鬼門封じの寺として南西に石立八 幡宮がある)。その際薫的和尚も大高坂城下へと移った。
 元々瑞 応寺は国親の菩提寺であったが、元親の全盛時代に四国一の格式の寺となった。これは四国で第一の格式とされた阿波の丈 六寺(だったかな?)が戦火で荒廃し、地元の三好家は上方ばかりに目を向け地元を見ず、三好家以外の中小勢力が相争って阿波の地は戦火にまみえているので、何とかしてほしいと丈 六寺の僧たちは土佐をほぼ統一し、神仏を敬う元親に助けを求めた。元親もそれに返書を送りその時のやり取りで瑞 応寺を丈 六寺に代わる新しい四国第一の寺とした(この時の丈 六寺と元親のやり取りは史料が現存しています)。とはいえ、四国征伐で秀吉に敗れ瑞 応寺も四国一の寺から転がり落ちたが、それでも土佐第一の寺という地位は揺るがなかった。
 しかし、関ヶ原後に土佐に入国した山内家は新たに山内家の菩提寺・真 如寺を創建し、そこを土佐第一の寺とした。ここで寺同士の新旧勢力の争いが始まった…とはいえ、薫的和尚は三代忠豊の手習いの師範でもあったことから、数年は穏便に過ぎていったが、二代忠義が亡くなり、その葬儀の場で真 如寺が上座、瑞 応寺が下座と格式を分けられた。更に真 如寺の了谷和尚が作った戒名をみて、薫的和尚は「戒名のつけ方がなってない(要約)」と了谷和尚に抗議。こうして二つの寺の確執が明らかとなった。加えて薫的和尚には冤罪がかけられ、とうとう投獄されてしまった。…牢の中で指を噛み切って血で経文を書いたり、舌を噛み切って投げつけたり、七日七食絶って死を持って抗議したり(食を絶ったが生きておられたそうです)。だが薫的和尚の冤罪は晴らされる事無く、獄中で和尚は亡くなってしまいます。その間際、山内家を七代祟るという言葉を残し、その後山内家では一族の早死にが相次いだため、神として奉ることになり、現在も高知市洞ヶ島町に薫的 神社として奉られています。
 現在のお墓も7代藩主の母親(だったかな?)が今の場所に移したとの事。今では薫的和尚は勝負事の神様になっているそうです。……つくづく思うに自分の信念を曲げない、本当に土佐人らしい人です。

 あ、その薫的神社の隣に現在も瑞 応寺がありますが、「長宗我部とは関係ない」という感じだそうです。実際長宗我部のファンの方でお寺を訪ねた方がいるらしいですが、あまり歓迎されなかったとか……。私も前に行ってみましたが、お寺の前には「お寺と関係ない方の立ち入り禁止」みたいな看板あるし……(汗) まあ…薫的和尚と元親の繋がりが直接あるかどうかもはっきりしませんし、ね…うん。


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