母になり、病気になり、おかげでわかったことは、自分はまだ何者にもなれるのだということでした。
私は、それまでの私という人間を失ったようでした。
元気な自分。
誰からみても健全で、社会にとけこめる自分。
運動が好きな自分も、精神的な側面もそれはそれははちゃめちゃに変化しました。
そして「◯◯ちゃんのお母さん」とか「奥さん」とか言われていると、自分の慣れ親しんだ名前ってどこにも出てこないんですね。全部他人の名前。
でも、それが思いの外、居心地悪いことはなかったのです。
そして、もう一つ多分わたしが嫌がったのが「病人」というカテゴリーにおさまることでした。
確かにできなくなったことはある。
山のようにある。
でも、できなくならなかったこともあるし、できるようになったこともある。
それらのうち、他の健康な人から比べても遜色ないこと、ということがあることに気づいたのです。というか気づかせてもらえました。
そういう意味では、私は健康な人にもなることができたのです。
私はお母さんであり、妻であり、病人であり、健康な人であり、要するにそういうカテゴリーをかなり横断した人間であります。
病人というカテゴリーのしめる割合が大きくなってしまったということはとても残念ですが、かといって、私を構成する一部でしかないと教えてもらいました。
ということはですよ!
病人然として、縮こまっていないでいいんだ、ということを意味するのです。
これ、病気の方あるあるだと思うんですけど、病気の人って何らかの支援を受けていたりするじゃないですか。例えば何らかの役割を免除されているだけでも(PTAを外してもらうとか)、
「配慮してもらっているんだから、意気揚々と散歩とか、買い物とかしていては申し訳ない。」
と思って、引きこもったり、病人として生きようとしすぎちゃうことってあると思うんです。
私は少なくとも、そういうふうに考えていました。
一番具合が悪かったときですね。主人の用事と共に旅行をしたことがありました。
家に一人にしておくほうが怖いということもあって、3人で外泊したのです。
娘は、ホテルという空間にすごく喜んで、楽しんでいました。お気に入りのお人形とベットの上でコロコロ戯れて、とにかく楽しそうでした。私はすごく嬉しくて幸せでした。
でも、いろいろお世話になっているのに外泊って、とても申し訳なく思いました。
ところが、ヘルパーさんたちが、娘からその話を聞いたとき、みなさん一様に喜んでくれたんです。
「旅行、楽しめたんですか?よかったですね!」
え?旅行に行けるなら、こんな家事くらいしなさいよと言われると思っていた私って一体。
良く考えたら、そんなこと言われるはずないんです。そんな心の狭い方々ではないんで。
それなのに、自分ができていないことに目が向いて、すごくビクビクしていました。
しばらくはやっぱりびくびくする自分と対峙する日々でしたが、今はそんなことないなってはっきりと思って、楽しむことも堂々とやることにしています。
そして、今度は病人であるというのは私の一部である、という認識に加えて、失うものも無くなったんですね。
ほんとに、病気になって、ほとんど全部失いました。
手放すつもりでもありました。
ただ、意外にも手元に残ったのは家族と私の心でした。
あれ?残ったものがあるのか。
こんな私にも、手からこぼれおちないものがあったのか。
握り返すまでにもしばらく時間がかかりましたが、私はそれらを頼りに、生きようと決めました。
今はその残ったものだけを頼りに、可能性だけは無限大で、生きています。
だから、私は何も諦めていません。何者にもなれる、そう、本気で思っています。
ということで!やりたいこと満載、やれる能力はこれっぽっちで、家族からは「とっ散らかってるなあ」と笑われていますけれど、家族が笑うならそれもよし!という塩梅で、歩いています。