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フロリダ半島日記―スペイン船の金塊

2012-09-01 14:12:25 | 日記
ハリケーン“アイザック”がフロリダ沖を通過していきました。ハリケーンの後、ビーチに出てみると不思議な人影を目撃します。電気掃除機のようなもので浜辺を掃除しているような風景です。実はこの掃除機のような機具は金属探知機なのです。フロリダ沖には何百年に渡って多くの難破船が沈んでいます。主にハリケーンによる沈没です。沈没船の多くはスペインのガレオン船で金銀財宝を積んでいたものです。ハリケーンがやってくると海底に眠っている財宝の一部が陸地近くに流されてきたり、ビーチに埋もれていたコインが砂面近くに浮かび上がってくるのです。それで、人々は金属探知機をまるで掃除機を操作させるようにして、砂浜をくまなく歩き回るのです。こういう趣味のようなものはフロリダのビーチの一つの風情となっています。しかし、本格的に難破船をサルベージする人もいるのです。                                 このスペイン船の背景を少し説明します。16世紀のスペインは、ちょうど19世紀の大英帝国が“太陽の没しない大帝国”といわれたような繁栄を誇っていました。1550年から1680年ころまでは“スペインの黄金の世紀”でした。コロンブスの“新大陸発見”の後、我も我もとスペインの探検家たちが中南米やカリブ海の島々を開拓していきます。彼らは“コンキスタドール”(Conquistador) と呼ばれます。スペイン語で征服者の意味です。中でもコルテスは500人ほどの兵でアステカ帝国を占領。滅ぼされたアステカ人の証言によるとコルテスは“餓えた豚のように黄金を欲した”というのです。またピサロは80人ほどの兵でインカ帝国を征服。コンキスタドールは両帝国の黄金を大量に取得したのです。更にインディアンを酷使して金銀の採掘を行います。アンデス山中の広大なポトシ銀山は4億ドルの銀を産出。またメキシコのサカテカス銀山、グアナフアト銀山からも採掘されました。これらの金銀財宝はまさしく<宝船>となって本国スペインに輸送されたのです。その通路がフロリダとキューバの“海”です。しかし当時はハリケーンの気象予想などないわけですから、多くの<宝船>が沈没したのです。有名なスペインのガリオン船が“アトカ号”(Atocha)です。1622年、28隻の船団がキューバのハバナ港を出航し、フロリダのキーウエストの近くでハリケーンにあったのです。そのうちの8隻が沈没。これらの難破船は長い期間海底に眠っていました。1968年、小さいころから小説“宝島”にあこがれていたメル。フィシャーが、そのうちの一隻“アトカ号”のサルベージを開始。それから17年の歳月、気の遠くなるようなサルベージの日々をおくります。途中で息子夫婦と一人のダイバーを舟の転覆で亡くしたりの壮絶な戦いでした。またフロリダ州から財宝の権利はフロリダ州にあるとの訴訟闘争もありました。ところが、1985年、絶望的状況のなかでその財宝約4億ドル相当(270kgの金魂、1200個の銀の延べ棒(1個=31.5kg)、25万枚の銀貨、47tの貴金属・宝石類)が引き上げられました。フロリダ半島の最南端にあるキーウエストは今や観光客で一杯です。そこの定番はヘミングウェーの邸宅とメル。フィシャーの博物館です。このメル。フィシャーの博物館には日本円で約1000億円の財宝が一般公開されています。メル。フィシャーの成功の後、24もの宝探しのサルベージ社が設立されました。また全米では350万人といわれるアマチュアのダイバーががいるといわれます。これらの会社や一部のダイバーたちは第二のメル。フィシャーをめざしているのです。このような状況を憂う人々がいます。水中考古学者、研究者たちです。水中の環境汚染や水中遺跡の破壊を憂いているのです。確かに沈没船などの水中の遺跡は法律や文化財保護規制の及ばないものが多いのです。ちょうど経済、ビジネスと環境保護の対立が現代文明の焦点であるように、いま海中の宝探しと環境保護の対立が起こっているのです。

フロリダ半島日記ーさまようアメリカ人

2012-08-31 09:34:07 | 日記
昨日は友人がテキサス州へ引っ越していきました。この家族の夫君に関しては以前一度書いたことがありました。夫君はMr.Nといって、ブラジル系アメリカ人で夫人は日系ブラジル人です。
三人の子供がいます。Mr.Nは大手航空会社で働いています。海外に行くことが多くて、フロリダの家には最近帰れないような忙しさでした。夫人や子供は実にさびしい思いをしていました。そこでついに会社の本社があるテキサスに移住していったのです。彼は柔道の黒帯を持っています。3段だと思っていたら、“5段になったのを知らなかったのですか”と言う。非常に日本びいきで、以前、日本から数人の柔道家たちをオーランドの道場に招待したことがありました。私もその親善試合のようなものに招かれました。試合後、Mr.Mが我が家へ3人の日本人柔道家たちを連れてきたのです。
すき焼をご馳走しました。またMr.Mの夫人の両親がブラジルからやってきたこともありました。その時も確かすき焼鍋をを囲んだことを覚えています。夫人の母親は日系2世のブラジル人で日本語も覚えていて、親達から作り方を学んだという巻き寿司を持参してくれました。
このMr.Mの家庭とは様々な懐かしい思い出があり別れはつらいものでした。大きなレンタルのトラックに家財を積み込んだ傍で、Mr.Mは、“I miss you!”と言いました。Missとは“別れを惜しむ、さびしく思う”という英語です。夫人も、“又、何度でも行き来しますから。。”という。といってもテキサスまで3日ほどドライブしなければなりません。おりしもハリケーン“アイザック”が途中のルイジアナ州を襲撃するというニュースです。そこでMr.Mがトラックを運転していき、夫人と子供たちは空路ということになりました。それにしても少なくないブラジル人やメキシコ人などの中南米の友達が、フロリダを離れてテキサス州に移住していきました。中南米などからフロリダに移民してくる若い人々は、フロリダはいわば“成功”への中継地のような感じです。
ニューヨークなどから退職後に移住してくる老境の人々とは違った目的があるようです。つまり彼らの望みはアメリカに渡って“アメリカン。ドリーム”を実現することのようです。その目的のためにはアメリカの如何なるところにも移住していくのです。これは実はアメリカ人たち自身が持つ伝統的体質なのです。多くのアメリカ人の数代先の先祖もまた移民たちだからです。彼らも“アメリカン。ドリーム”を実現するためにアイルランドやスコットランドや東欧から大西洋を長い船旅で移民してきたのです。そしてカリフォルニアに“金が出た”。“石油が出た”と聞けばなりふりかまわず移住していったのです。“アメリカン。ドリーム”を実現するためです。世界一の引越し屋たちです。このような伝統はすでに初期のアメリカにも見られたようです。1831年に2人のフランス人貴族がアメリカに視察に来ました。その一人が有名なトクヴィルです。トクヴィルの親族の多くはフランス革命のギロチンの犠牲になっていました。その後のナポレオンの時代などを経ていくのですが暗雲立ち込めるフランスでした。そこで民主主義のお手本のような快進撃を続けている若い国アメリカに学ぼうとやってきたのです。その時見たアメリカとは、“アメリカ人は老後を過ごす家を建て、屋根を葺く(ふく)前に売ってしまう。。。新しい仕事に就いたと思ったら辞め、一所に落ち着いたと思ったら又引越しと、すぐ気が変わる。。。もし忙しく働いた一年が終わり、休みが取れようものなら、好奇心にかられ広大な合衆国の旅行に出かける。そして休暇と称しながら、数日のうちに500マイル(約800キロ)も制覇する”と驚きながら感想を書いているのです。この180年も前にトクヴィルが見たアメリカ人は現在も同じなのです。

フロリダ半島日記―フロリダとキューバの“海”

2012-08-29 17:46:13 | 日記

昨日、キューバから泳いで逃げてきたという青年に会いました。キューバからフロリダ半島までの距離は、約150キロです。この青年は数年前のある日、一人でキューバの海岸から泳ぎだして、3日間泳ぎ続けたそうです。3日目に疲れ果てて溺れ始めたところ、誰かに髪の毛を引っ張られて助け出されたそうです。アメリカの沿岸警備員です。そして病院に入り、その後、アメリカ入国を許されたのだそうです。キューバはアメリカにとっては“喉に刺さったトゲ”とか“カリブ海に浮かぶ赤い島”とも言われて長く敵対関係にあったのです。1959年にカストロやチェ。ゲバラの主導するキューバ革命が成功し、1961年にアメリカは国交を断絶。その後キューバはソ連や東欧諸国との結束を固めます。そしてソ連製の核ミサイルの基地が建設されて第三次世界大戦の危機が訪れます。ケネディー大統領はキューバ周辺を航行するミサイルを積んだソ連船への海上封鎖を英断。フルシチョフ首相はミサイル基地を撤去。このように危機を逃れることができました。それにつれて反カストロのキューバ人は1973年までに26万人がフロリダなどに亡命。その後も、舟やイカダで亡命する人々が多くでました。1991年にソ連が崩壊するとソ連経済に頼ってきたキューバは大きな打撃を受けます。またもや多くのキューバ人がフロリダを目指して脱出。その亡命者たちはイカダ(バルサ)に乗って逃れたのでバルセーロスと呼ばれるようになります。イカダばかりではなく泳いでフロリダに向かう人々も多くいたのです。2008年になり、カストロは引退し、弟のラウル氏が引き継いでから規制緩和や少し自由が戻ってきたようです。国連もアメリカに経済制裁の緩和を求め、キューバも一部、市場経済を導入してきたようです。キューバとフロリダの海にも少し自由と平和がやってきたようです。先日、オーストラリアの62歳の女性がキューバとフロリダ間の遊泳にチャレンジしました。この海峡にはサメも多くいるのです。彼女は約60時間泳いで断念。サメではなくクラゲによって顔中が膨れ上がり、また雷の危険性があったのです。この海は作家ヘミングェイが愛したところでもあります。ヘミングェイが自身の最高作品と言う“老人と海”もこのフロリダとキューバの海を舞台にしたものでした。キューバとアメリカの緊張した政治の合間にもヘミングウェイは22年間に渡ってキューバのハバナから14キロのフィンカ・ビヒアに住んだのです。この家は2008年にアメリカの修復グループによって改造されています。いまひとつのヘミングェイの家はフロリダのキーウェストにあります。この屋敷にはヘミングェイが飼っていたネコの子孫が沢山いるのです。近親結婚のネコによって指が6本あるものもいます。このキーウエストの家はいわば観光のメッカです。しかしキューバの家はあまり知られていないのです。多くの謎があるようです。実はそれはキューバとアメリカの間の緊迫した政治情勢にヘミングェイも翻弄されたからでもあるようです。2002年、ヘミングェイ文学研究家たちに思わぬ衝撃が襲いました。キューバとアメリカの政治的雪解けに伴って、訪れた世界の研究者たちがここを訪れました。そのキューバのヘミングウェイの屋敷の地下室で大量の未公開の原稿、下書き、写真、手紙、ノートなど数千ページに及ぶものを発見したのです。これらによってヘミングェイの空白のキューバ時代そしてヘミングェイの政治的立場が明らかになると言うのです。

フロリダ半島日記―フロリダとキューバの“海”

2012-08-29 17:46:08 | 日記

昨日、キューバから泳いで逃げてきたという青年に会いました。キューバからフロリダ半島までの距離は、約150キロです。この青年は数年前のある日、一人でキューバの海岸から泳ぎだして、3日間泳ぎ続けたそうです。3日目に疲れ果てて溺れ始めたところ、誰かに髪の毛を引っ張られて助け出されたそうです。アメリカの沿岸警備員です。そして病院に入り、その後、アメリカ入国を許されたのだそうです。キューバはアメリカにとっては“喉に刺さったトゲ”とか“カリブ海に浮かぶ赤い島”とも言われて長く敵対関係にあったのです。1959年にカストロやチェ。ゲバラの主導するキューバ革命が成功し、1961年にアメリカは国交を断絶。その後キューバはソ連や東欧諸国との結束を固めます。そしてソ連製の核ミサイルの基地が建設されて第三次世界大戦の危機が訪れます。ケネディー大統領はキューバ周辺を航行するミサイルを積んだソ連船への海上封鎖を英断。フルシチョフ首相はミサイル基地を撤去。このように危機を逃れることができました。それにつれて反カストロのキューバ人は1973年までに26万人がフロリダなどに亡命。その後も、舟やイカダで亡命する人々が多くでました。1991年にソ連が崩壊するとソ連経済に頼ってきたキューバは大きな打撃を受けます。またもや多くのキューバ人がフロリダを目指して脱出。その亡命者たちはイカダ(バルサ)に乗って逃れたのでバルセーロスと呼ばれるようになります。イカダばかりではなく泳いでフロリダに向かう人々も多くいたのです。2008年になり、カストロは引退し、弟のラウル氏が引き継いでから規制緩和や少し自由が戻ってきたようです。国連もアメリカに経済制裁の緩和を求め、キューバも一部、市場経済を導入してきたようです。キューバとフロリダの海にも少し自由と平和がやってきたようです。先日、オーストラリアの62歳の女性がキューバとフロリダ間の遊泳にチャレンジしました。この海峡にはサメも多くいるのです。彼女は約60時間泳いで断念。サメではなくクラゲによって顔中が膨れ上がり、また雷の危険性があったのです。この海は作家ヘミングェイが愛したところでもあります。ヘミングェイが自身の最高作品と言う“老人と海”もこのフロリダとキューバの海を舞台にしたものでした。キューバとアメリカの緊張した政治の合間にもヘミングウェイは22年間に渡ってキューバのハバナから14キロのフィンカ・ビヒアに住んだのです。この家は2008年にアメリカの修復グループによって改造されています。いまひとつのヘミングェイの家はフロリダのキーウェストにあります。この屋敷にはヘミングェイが飼っていたネコの子孫が沢山いるのです。近親結婚のネコによって指が6本あるものもいます。このキーウエストの家はいわば観光のメッカです。しかしキューバの家はあまり知られていないのです。多くの謎があるようです。実はそれはキューバとアメリカの間の緊迫した政治情勢にヘミングェイも翻弄されたからでもあるようです。2002年、ヘミングェイ文学研究家たちに思わぬ衝撃が襲いました。キューバとアメリカの政治的雪解けに伴って、訪れた世界の研究者たちがここを訪れました。そのキューバのヘミングウェイの屋敷の地下室で大量の未公開の原稿、下書き、写真、手紙、ノートなど数千ページに及ぶものを発見したのです。これらによってヘミングェイの空白のキューバ時代そしてヘミングェイの政治的立場が明らかになると言うのです。

フロリダ半島日記ーハリケーンと共和党大会

2012-08-27 16:14:51 | 日記
 熱帯性低気圧“アイザック”がカリブ海で発生し、フロリダ半島の近くに接近しています。キューバを通過して、暖かいメキシコ湾に入れば、すぐハリケーンになるでしょう。日本でも過去にない大型台風“15号”が沖縄や九州を暴雨風に巻き込むというニュースが入っています。いつも不思議に思うことは、何故、台風は番号でハリケーンは人の名前で呼ぶのか?ということです。実は、戦後、日本でも一時、台風を女性の名前で呼んでいたのです。昭和22年に有名なカスリーン台風というのがありました。当然、当時の日本人にはなじめない名称でした。そのころの中部日本新聞にはこのような記事があります。“台風になぜ女の名をつけるかについて極東海軍司令部一関係者は「台風はとても予測しがたいから」だと語っている。問題のカサリン台風は最も神経質なもので マリアナ群島で発生してから曲がったり速くなったり遅くなったり移動するにつれて無線電信係を追いかけごっこで夢中にしてしまった” 女性名を使う理由として、“予測しがたい”、“追いかけごっこで夢中”など、女性の性質を重ね合わせたためらしいのです。 その後、台風は番号になったのですが、アメリカでは、1978年ごろから、フェミニズムの運動などの影響でハリケーンは女性だけではなく男性の名前も使われるようになりました。今回の熱帯性低気圧の“アイザック”はIsaacのことで旧約聖書のアブラハムの息子イサクの英語読みです。それにしても、ハリケーンは台風より強烈であるという印象があるようです。それは、発生した熱帯性低気圧が64ノット(約33メートル毎秒)以上になった時にハリケーンになります。この場合は、ハリケーンの中の一番弱いカテゴリー<1>に値するのですが、これは台風ではすでに強いカテゴリーなのです。だから台風で一番強いのは風速105ノットですが、これはハリケーンでは5段階の<3>番目の強さなのです。ただ問題は、一般的にハリケーンは勢力を保ったまま速い速度でアメリカ本土に上陸するようです。更に、その範囲も広いようです。さて今回の熱帯性低気圧“アイザック”の到来と共に問題になっているのが共和党全国大会です。この大会は27日の月曜日から4日間、フロリダ半島のメキシコ湾に面したタンパで行われるからです。一応、この“アイザック”は西のほうに方向を向けてタンパに直撃はしないようです。ところが、この方角に進むと確実にハリケーンとなってメキシコ湾を北上して、ルイジアナ州そしてアラバマ州を襲うことになります。ここでアメリカ人は7年前のことを思い出すのです。ちょうど現在と同じ時期にハリケーン“カトリーナ”が、“アイザック”と同じ進路をとってルイジアナ州やミシシッピー州に悪夢のような被害をもたらしたのです。死者は2000人以上。このハリケーンは強さのランクが<5>段階めという強烈さでした。このことを思い出した南部の共和党の政治家たちの中には共和党大会の演説をする予定の人たちも急遽、現地に戻る人も出始めました。このタンパの共和党大会は党関係者が5万から6万人集まるといわれています。この大会で共和党のロムニー前マサチューセッツ州知事が正式に大統領候補に指名される予定です。ところで9月3日から9日にはノースカロライナ州のシャーロットで民主党の全国大会が開催されます。再選をねらう民主党のオバマ大統領を現在ロムニー氏は激しく追い越そうとしています。昨夜のCNNでもロムニー氏は自伝のような放送をして、いかに自分が家庭を大事にしてきたかを強調していました。アン夫人は難病の多発性硬化症ですが、この大会でスピーチをするようです。更に勝敗を握るのがスパニック票です。ここフロリダは近年、驚くほど中南米のヒスパニック人口が激増しているのです。それにしても、最近のアメリカ大統領の選挙を見ているとアメリカの主流が変わってきたと感じます。昔は、ワスプ。WASP(White Anglo-Saxon Protestant)つまり、アングロ。サクソン系の白人のプロテスタント(新教徒)が米国社会を占めていたのですが、まずカトリックのケネディーが大統領になりました。そしてオバマ大統領、更にモルモン教徒のロムニー氏は大統領になるかどうかはわかりませんが、このこともまさしく政界のハリケーンです。共和党ではティー。パーティーやキリスト教右派が保守勢力を作っています。この勢力をモルモン教徒のロムニー氏がどのようにして説得して共和党の大統領候補になるかが注目されました。そこで苦肉の策が副大統領にポール。ライアンという人物を担ぎ上げたのです。彼はティーパーティーやキリスト教右派から絶大な支持を得ているといわれます。それにしても、タンパという都市は古い昔の港町が徐々に大都市になったところです。普通、ここを訪れると町並みが込み入って堂々巡りをすることが多いのです。ハリケーンの襲来とともに更に道路の浸水や交通渋滞や道路封鎖やと共和党の大会参加者たちは無事、会場に入れるかが懸念されるのです。