チリリンと音がして,小さな画廊の扉が開いた。
「こんにちは,お婆さん。絵を見てもいいかしら。」
老婆がか細い声の主の方を見ると,そこには涙で瞳がうるんだ可愛い少女の姿があった。
「こんにちは,マーシア。ずいぶんと久しぶりだねえ。元気にしていたかい?まあ・・・ゆっくり気の済むまで見てお行き。」
白髪の店主エミリー婆さんは,特別少女の涙の理由を聞くでもなく,相変わらずの優しい笑顔で声を掛けた。
「ありがとう,お婆さん。そうさせていただくわ。」
マーシアは小さく言うと,奥へと向かった。久しぶりに絵を見たマーシアは,いつも見ていた不思議な絵が「虹かかる幻の島」アグアルダの風景であることに気づいた。だから,「虹かかる幻の島」に行った時,そこで見た風景が懐かしく感じられたのだ。しかし,その絵は前に見た時と印象が違うように思えた。また,今の絵もアグアルダそのものの風景ではないような気がした。彼女の胸に少年の「絵は見る者によって違う姿を見せる。そこに実在しながら全ては幻なのだ」という言葉を思い出した。確かに今掛かっている絵は「虹かかる幻の島」の風景である。題名を見ても妖精達が話していた場所そのものである。しかしながら,明らかに印象が違うのである。
マーシアはしばらく見入っていたが,やがてエミリー婆さんにそのことを話し,アグアルダでの不思議な出来事を教えた。その老婦人は彼女の話を深く頷きながら聞いていた。時折「そうかい。」と優しく言いながら目を閉じてずっと彼女の話す信じがたい出来事を聞いていた。マーシアは一通り話すと,
「エミリーお婆さんは信じてる?妖精のこと。」
と尋ねた。老婆はしばらく目を閉じたまま考えている風だったが,やがて口を開いた。
「妖精はいると思えばそこに本当に存在し,いないと思えばそこには存在しないものじゃ。」
「え?それじゃあ,答えにならないわ。」
「ほっほっほっ,そうかい?」
エミリー婆さんは相変わらずの笑顔である。
「まあ,いいわ。ありがとう。絵を見せてくれて。何だか元気が出てきたわ。」
マーシアは笑顔を取り戻して,いつものように丁寧に頭を下げると,またチリリンと戸口の鈴を鳴らして出て行った。
家に帰ったマーシアは,自分がジョアンヌのアクセサリーなど神に誓ってとっていないことをはっきりと伝えた。いつになくきっぱりと言うマーシアに二人は驚いたようだが,彼女に対する冷たい態度は急には変わらなかった。マーシアはそれでも,世話をしてくれる二人のことを悪く言うでもなく,理解し,歩み寄ろうと努力した。しかし,それは容易なことではなかった。「輝く川」で見たやつれたバーバラ夫人の姿は,実はマーシアがいなくなったことで自分が責められはしないかと思い,自分がこんなに世話をしているのに彼女が勝手に出て行ったと悲劇の義母を演じていた姿だということも分かった。それは,近所の人のひそひそ話からおおよその察しがついた。
「お義母さんをあんなに心配させるなんて,なんて悪い子なんだい。」
「バーバラ夫人はあの子のおかげで,心配のあまり5キロも体重が減ったそうじゃないか。」
マーシアがいない間に,彼女はすっかり一生懸命子どもに尽くしている義母を苦しめる悪い子に仕立て上げられてしまっていた。彼女がどんなに勇気を持って違うと否定しても,いなかったのは事実だし,みんなはバーバラ夫人の味方になってしまっていた。マーシアには妖精だけが味方になって慰めてくれた。
妖精の話をしても,欲望によって目を濁してしまった人々は信じず,ますますマーシアを気がおかしくなってしまった少女ととらえてしまった。どんなにマーシアが言っても,もはや誰も彼女の話に耳を貸そうとはしなかった。
ある日,前よりますます自分の思い通りにならなくなり,ひどくなったマーシアを見かねたバーバラ夫人は,町の人がたくさん集まる中,マーシアを眼下に荒波が押し寄せる崖の上に立たせた。その日は本当に抜けるような青い空で,風が強い日だった。
「もし,お前が本当に妖精と友達なら,ここから飛び降りてごらん。もし,それでお前が無事なら信じてやるよ。ま,できないだろうがね。」
バーバラ夫人は,みんなが見ている前でこれみよがしにマーシアに言った。しかし,マーシアは本当に崖の上に立ち,先端へと足を進めた。下は岩の突き出た青い海が広がっている。少女は,ふと海からの風がとても懐かしく感じられた。海に,風に,雲に・・・全てに妖精達の姿が見える。妖精達はマーシアが危ない崖の上に立っているというのに笑顔で見ている。
「どうせ,できやしないさ。このうそつき娘には・・。」
人々の中にはそのようなことを言う者もいた。
マーシアは目を閉じると,静かにふうっと息をし,崖から飛び降りた。見守っていた人々は「あっ」と声を上げ,顔が真っ青になった。
「あなたを見付けたわ。あなたはすべての自然を司る妖精王。幸福と平和をもたらし,運命の輪を廻す者。」
マーシアがそう叫んだ時,少女の体は空中でフワッと誰かに抱きとめられた。顔を上げると,そこには「虹かかる幻の島」で会った少年がいた。彼こそ,すべての自然を支配する妖精王オヴェロンであった。彼は初めてみんなの前にその姿を現したのである。みんなは驚いて何も言えない。目をぱちくりとさせ,口は開いたままである。
「私を見付けてくれましたね,人の娘よ。もう,あなたはこの世界のしがらみに縛られることはありません。さあ,私と一緒に行きましょう。あの『虹かかる幻の島』の絵はアグアルダ一の画家である小人(ドワーフ)が描いたもの。10枚目の絵は私の宮殿,水晶の城に飾ってあるのですよ。」
少年はマーシアをしっかり抱きとめたまま,少し町の人々を悲しそうな瞳で見ていたが,フッと消えてしまった。彼らが消えた後には,金粉を振りまいたように明るい輝きがキラキラと残っていたが,やがてその輝きもかき消えてしまった。
「ほ・・・本当にいたんだ。妖精王オヴェロンが・・・・。」
「信じられない。」
「マーシアが消えた。」
バーバラ夫人はまるで魂を抜かれたように,ただマーシアが少年と消えた方を見ていた。
「そんなバカな・・・・。」
そして,その時にはもうあのエミリー婆さんも,店もまるで夢か幻のようにフッと消え失せていた。
ある町に,一人の老婆が小さな店を営んでいた。
「ああ,この9枚の絵かい?これはねえ・・・・・。」
(完)
「こんにちは,お婆さん。絵を見てもいいかしら。」
老婆がか細い声の主の方を見ると,そこには涙で瞳がうるんだ可愛い少女の姿があった。
「こんにちは,マーシア。ずいぶんと久しぶりだねえ。元気にしていたかい?まあ・・・ゆっくり気の済むまで見てお行き。」
白髪の店主エミリー婆さんは,特別少女の涙の理由を聞くでもなく,相変わらずの優しい笑顔で声を掛けた。
「ありがとう,お婆さん。そうさせていただくわ。」
マーシアは小さく言うと,奥へと向かった。久しぶりに絵を見たマーシアは,いつも見ていた不思議な絵が「虹かかる幻の島」アグアルダの風景であることに気づいた。だから,「虹かかる幻の島」に行った時,そこで見た風景が懐かしく感じられたのだ。しかし,その絵は前に見た時と印象が違うように思えた。また,今の絵もアグアルダそのものの風景ではないような気がした。彼女の胸に少年の「絵は見る者によって違う姿を見せる。そこに実在しながら全ては幻なのだ」という言葉を思い出した。確かに今掛かっている絵は「虹かかる幻の島」の風景である。題名を見ても妖精達が話していた場所そのものである。しかしながら,明らかに印象が違うのである。
マーシアはしばらく見入っていたが,やがてエミリー婆さんにそのことを話し,アグアルダでの不思議な出来事を教えた。その老婦人は彼女の話を深く頷きながら聞いていた。時折「そうかい。」と優しく言いながら目を閉じてずっと彼女の話す信じがたい出来事を聞いていた。マーシアは一通り話すと,
「エミリーお婆さんは信じてる?妖精のこと。」
と尋ねた。老婆はしばらく目を閉じたまま考えている風だったが,やがて口を開いた。
「妖精はいると思えばそこに本当に存在し,いないと思えばそこには存在しないものじゃ。」
「え?それじゃあ,答えにならないわ。」
「ほっほっほっ,そうかい?」
エミリー婆さんは相変わらずの笑顔である。
「まあ,いいわ。ありがとう。絵を見せてくれて。何だか元気が出てきたわ。」
マーシアは笑顔を取り戻して,いつものように丁寧に頭を下げると,またチリリンと戸口の鈴を鳴らして出て行った。
家に帰ったマーシアは,自分がジョアンヌのアクセサリーなど神に誓ってとっていないことをはっきりと伝えた。いつになくきっぱりと言うマーシアに二人は驚いたようだが,彼女に対する冷たい態度は急には変わらなかった。マーシアはそれでも,世話をしてくれる二人のことを悪く言うでもなく,理解し,歩み寄ろうと努力した。しかし,それは容易なことではなかった。「輝く川」で見たやつれたバーバラ夫人の姿は,実はマーシアがいなくなったことで自分が責められはしないかと思い,自分がこんなに世話をしているのに彼女が勝手に出て行ったと悲劇の義母を演じていた姿だということも分かった。それは,近所の人のひそひそ話からおおよその察しがついた。
「お義母さんをあんなに心配させるなんて,なんて悪い子なんだい。」
「バーバラ夫人はあの子のおかげで,心配のあまり5キロも体重が減ったそうじゃないか。」
マーシアがいない間に,彼女はすっかり一生懸命子どもに尽くしている義母を苦しめる悪い子に仕立て上げられてしまっていた。彼女がどんなに勇気を持って違うと否定しても,いなかったのは事実だし,みんなはバーバラ夫人の味方になってしまっていた。マーシアには妖精だけが味方になって慰めてくれた。
妖精の話をしても,欲望によって目を濁してしまった人々は信じず,ますますマーシアを気がおかしくなってしまった少女ととらえてしまった。どんなにマーシアが言っても,もはや誰も彼女の話に耳を貸そうとはしなかった。
ある日,前よりますます自分の思い通りにならなくなり,ひどくなったマーシアを見かねたバーバラ夫人は,町の人がたくさん集まる中,マーシアを眼下に荒波が押し寄せる崖の上に立たせた。その日は本当に抜けるような青い空で,風が強い日だった。
「もし,お前が本当に妖精と友達なら,ここから飛び降りてごらん。もし,それでお前が無事なら信じてやるよ。ま,できないだろうがね。」
バーバラ夫人は,みんなが見ている前でこれみよがしにマーシアに言った。しかし,マーシアは本当に崖の上に立ち,先端へと足を進めた。下は岩の突き出た青い海が広がっている。少女は,ふと海からの風がとても懐かしく感じられた。海に,風に,雲に・・・全てに妖精達の姿が見える。妖精達はマーシアが危ない崖の上に立っているというのに笑顔で見ている。
「どうせ,できやしないさ。このうそつき娘には・・。」
人々の中にはそのようなことを言う者もいた。
マーシアは目を閉じると,静かにふうっと息をし,崖から飛び降りた。見守っていた人々は「あっ」と声を上げ,顔が真っ青になった。
「あなたを見付けたわ。あなたはすべての自然を司る妖精王。幸福と平和をもたらし,運命の輪を廻す者。」
マーシアがそう叫んだ時,少女の体は空中でフワッと誰かに抱きとめられた。顔を上げると,そこには「虹かかる幻の島」で会った少年がいた。彼こそ,すべての自然を支配する妖精王オヴェロンであった。彼は初めてみんなの前にその姿を現したのである。みんなは驚いて何も言えない。目をぱちくりとさせ,口は開いたままである。
「私を見付けてくれましたね,人の娘よ。もう,あなたはこの世界のしがらみに縛られることはありません。さあ,私と一緒に行きましょう。あの『虹かかる幻の島』の絵はアグアルダ一の画家である小人(ドワーフ)が描いたもの。10枚目の絵は私の宮殿,水晶の城に飾ってあるのですよ。」
少年はマーシアをしっかり抱きとめたまま,少し町の人々を悲しそうな瞳で見ていたが,フッと消えてしまった。彼らが消えた後には,金粉を振りまいたように明るい輝きがキラキラと残っていたが,やがてその輝きもかき消えてしまった。
「ほ・・・本当にいたんだ。妖精王オヴェロンが・・・・。」
「信じられない。」
「マーシアが消えた。」
バーバラ夫人はまるで魂を抜かれたように,ただマーシアが少年と消えた方を見ていた。
「そんなバカな・・・・。」
そして,その時にはもうあのエミリー婆さんも,店もまるで夢か幻のようにフッと消え失せていた。
ある町に,一人の老婆が小さな店を営んでいた。
「ああ,この9枚の絵かい?これはねえ・・・・・。」
(完)