今日は、早良区の紅葉幼稚園さんで園児向け寺子屋を行い、「野口英世」のお話をして来ました。
火傷の下りでは、それまで元気に聞いていた子供たちが、一瞬にして「えぇ~、かわいそう。これからどうなるの?」という表情に変わってしまいますが、その後のいじめも克服し、努力して立派な学者になるくだりでは、「すごい!」という明るい表情に変わってきます。
彼らも立派な人になってもらいたいです。
さて、昨日の続きです…。
宇佐八幡宮に向かう参道の途中に、左に真っ直ぐの参道があります。
そこを進むと、一度境内の外に出まして、向かいには「八尾山」なる小高い山があります。
この山の階段を上りますと、突き当たりに、「和氣公之碑」と彫ってある、大きな石碑があり、その石碑に向かって右に進むと、護王神社があるのです。
神護景雲3年(769)に、宇佐八幡宮神託事件という出来事が起こります。
都では道鏡が太政大臣禅師として権力をふるっていました。そのうえ、この年、「道鏡を皇位につけるべし」とのお告げがあったという九州からの知らせを受け、その真意を探るべく、都で一番正直者とうわさの和氣清麻呂公が、宇佐八幡宮に派遣されたのです。
そして、この場所で、次のような御神託を受けます。
「我が国開闢以来、君臣の分定まれり。天津日嗣は必ず皇緒をたてよ。無道の者は速やかにはらい除くべし」
これは六国史の中の、続日本紀にそのまま掲載されております。
つまり、日本の国は、国家が形成された当時から主君と臣下の別が別れているわけであるから、皇位は必ず皇族をもって充てなければならない、皇位を狙うような不届きな無道者は速やかに払い除くべし、と言う意味でしょう。
これによって、皇統は守られて現在に至るわけです。
近年、皇室典範の改定ということがささやかれますが、我が国の伝統と文化、また先人がどのような思いでこの国家を支えてきたのかを考えながら、良くも悪くもその遺産を受け継いで、次の世代に伝えていこうというのが私達今を生きる日本人の使命であると思います。
和気清麻呂公は、私の故郷岡山県の東部にある和気町のご出身です。
こちらには、和氣神社という神社がありますので、是非機会が有ればこちらにもご参拝ください。
(文責:横畑雄基)
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