ニュースは踊る

ニュース、その他に関する個人的感想です。「正しいこと」、など書きません。私は名は「三太郎」。

ロシアの拿捕 日本人死亡

2006-08-16 | Weblog

まだ全く詳細はわからないので何とも書けない。

北海道にあんなに近いところでも「かに等」を獲ることは「日本とロシアの協定で禁止」されているそうだ。

日本船は、かに漁船ということである。

もし「かに等」を獲っていたなら「協定違反」ということになり、否は日本船にある。

北方領土問題に火がつくだろうが、仮に「かに」を獲っていたなら、「協定」がある以上、とりあえず北方領土とは関係がない。国内は騒ぐだろうが、協定がある以上、日本船の違法行為である。

停船命令があっただろうに。何故従わなかったのか。哀しい事件である。

しかし、協定違反なら、冷静に対処するほかはない。

小泉政権にとっては最後の大事件ということになる。どう収拾をつけるのか。日本外交が問われている。

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戦艦大和の最期に意味はない

2006-08-11 | Weblog

武蔵と大和はほぼ同じ船のはずである。しかし大和の方がずっと絵になるらしく、映画になるのは決まって大和の方である。「ピラミッド、万里の長城、武蔵」、は世界の三大愚行だとか、三大無用の長物だとか昔は言っていた。誰がいいだしたのだろう?ピラミッドは公共事業であったという説があるから無用ではなかろう。万里の長城は、民を酷使したことにより秦を内部から崩壊させた。だが、その後ずっと作られいるから秦時代はともかく、中国史全体においては無用ではなかったはずだ。

結局武蔵だけが本当の無用の長物ということになる。

そして大和も同じである。

大和の出撃は愚行以外の何物でもなく、それを命じた軍令部は愚人集団としか僕には思えない。反対はしたものの、結局出撃に応じた伊藤長官もどうであろうか。身を捨てて抗議をし、乗組員を守る責任があったはずである。伊藤長官が美しく散るのは勝手だが、あんなに多くの人間を巻き込む必要は全くない。伊藤長官も長く軍令部という愚人集団にいたわけだから、それは望んでも無駄なことではあるが。

天皇が「海軍にもう船はないのか」と言ったことがきっかけだという「伝説」がある。どこまでが伝説でどこからが史実かは知らないが、軍令部が大和を沈めるための口実として使った感じが強くする。天皇をかばう気はないが、この言葉と水上特攻が直接結びつくとは思えない。故意にむすびつけた人間集団がいるのだ。

「大和に生き恥をかかせない」。その為だけに2500人の人間が死んだ。愚かである。

彼らの死は本当に無駄な犬死であった。そう考えなくてはいけないと思う。

家族を守るとか祖国を守るとかそんな安っぽい感動ものにしてはいけない。祖国を守る攻撃力など飛行機を持たない大和には全くなかった。だから「祖国を守るため」というのは完全な嘘である。「家族のため」というなら、アメリカ兵も同じである。また海軍の愚かな南方作戦の巻き添えになって死んだアジアの多くの民間人にも家族はいる。

大東亜戦争に関して、家族がどうだ、とか、家族には最後まで優しかったとか、そういう安っぽいお涙ちょうだい的文章、映画、漫画が最近とみに多いようだ。家族を思ったからどうだというのだろう。馬鹿馬鹿しい。

虐殺されたアジア人の家族はどうなるんだろう。米軍の家族は。日本の家族だけが「家族」ではない。

たとえば東条英機が家族に優しかったら何だというのだ?普通のことである。しかし、彼の行った愚行とその結果起こった大量の死は普通のことではない。レベルの全く違う問題である。

さて。

大和ほど役にたたなかった船はない。犬死量産船と言ってよい。

戦闘は皆無と言ってよいほど行っていない。

レイテ戦ではおとり作戦で小沢艦隊を沈めながら、そしてその為に多数の人間を犠牲にしながら、大和はレイテに突入せずに途中で引き返した。小沢艦隊乗組員はただ死んだだけである。

最後はただ沈むためだけに出撃した。

「家族愛」とか「祖国の誇りを守る」とかいう言葉が安っぽく量産されている。

そういう愚かな思考は戦争から時がたつほど強まっていくようだ。

大和の最期には何の意味もない。乗組員の死は全くの犬死である。

そう考えることが大東亜戦争で死んだ、アジア人、日本人、アメリカ人、オーストラリア人、その他の死者、に対する最善の「供養」となる。

僕はそう「考えるべきだ」と思う。家族愛とか祖国愛とか空虚な言葉で現実の死、生身の人間の死を意味づける行為の愚かさに、僕らはもう気づいてもいいのではなかろうか。

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原爆の日

2006-08-10 | Weblog

原爆というとまず「東京裁判」の次のシーンが目に浮かぶ。

ブレークニーというアメリカの弁護士がこう言う。

概略である。

戦争に対し、開戦、終戦に関する法規、国際法があるということは「戦争の合法性」を示している。

戦争での殺人は殺人ではない。罪にならない。合法的な人殺しである。たとえ嫌悪すべき行為であっても犯罪として裁かれることはなかった。キット提督の死が真珠湾攻撃の結果として罪とされるなら、我々は原爆を落とした者の名を知っている。計画した参謀長の名も、そして投下を命じた元首(トルーマン)の名も知っている。

彼らは殺人罪を意識していたか。してはいまい。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵が不正義だからではない。戦争行為自体が犯罪ではないからだ。

原爆投下というあまりにも残虐な行為が犯罪でない以上、日本兵の残虐行為も犯罪ではない。とブレークニーは逆説的に証明しようとした。

この「くだり」は正規の速記録からは削除された。

僕個人の意見では「どちらも間違いなく有罪」である。

話変わって。

「トータル・フィアーズ」という映画がある。モーガンフリーマンが出ている。3年ぐらい前のものだ。

アメリカで核テロが発生する。本当に核が爆発する。その現場、被災地に、モーガンフリーマンは、のこのこと防御服もなしに、出かけていく。なんだこれは。と思った。被災直後である。放射能レベルを考えれば防御服があっても怖い。

3年前のハリウッド映画でもこの程度にしか原爆の本当の恐ろしさ、つまり後遺症、二次被災は理解されていないようだ。この映画はアメリカの原爆に対する一般知識を反映しているのだろうか。それともこの映画が特別にオマヌケなのだろうか。「核テロの恐ろしさを描く」とか言っていた。核の本当の怖ろしさなんて全然分かってない。「大きな爆弾」程度に描いていた。放射能汚染の怖ろしさなど微塵も描いていなかった。

さらに話変わって。

「はだしのゲン」。怖くて最近は見てないし、持ってもいないが、凄かった。ゲンがリヤカーに原爆で溶けた遺体をのせて引っ張っていく。どこに行くと人が聞く。

ゲンは言う。

「天皇にこの死体を見せたるんや。そんで天皇に謝らせるんや」

子供心に凄いセリフだと思った。あの漫画は強烈である。

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君が代なんて歌わない

2006-08-08 | Weblog

題名は懐かしい庄司薫の「白鳥の歌なんか聞こえない」のパクリである。

子供の頃は歌った。教科書にも載っていた。大人になっても私的に歌うことはある。結構音程がとりにくくて、歌としてはなかなか玄人好みの音の流れがある。とくに「むーうすーうまーああで」のところが、面白い。

先日、若い友人から君が代を訳してくれと言われた。留学先で国歌を英語にせよ、という課題がでたらしい。25歳まで君が代の訳を考えたことがなかったらしい。なるほど、そうだよなー。考えないよな、と思った。

天皇の世は千年も八千年も、小さい石が、大きい石になって、苔がむすまで(長く続くよ)。ぐらいかな。「いわおと」は「巖と」だよ、「岩音鳴りて」じゃないよ、と書いた。これ、英語にできそうもない。君が代、の「君」の解釈にまつわる諸説は教えなかった。どうせ長くなって嫌がられると思ったので。

僕は左翼なんて「ご立派なもの」ではない。そんな政治活動をしたことは一度だってない。政治ビラ配りだってしてない。広告ビラだって配ったことはない。

でも子供の頃は左翼はなやかなりし時代で君が代は「国歌」ではなかった。「日本を代表する歌」と言った。

それが7年前ぐらいに急に法律で国歌になったらしい。そんな急に変えられても、頭には「日本を代表する歌」とインプットされてるんだから、変えられない。

だから国歌として歌えと言われたら歌わない。まして強制されたら絶対歌わない。相撲でもボクシングでも「ご起立」などしない。もっとも両方とも行ったことはない。たまに公式の場なんかで君が代斉唱がある。一応立つけど、歌わない。

歌わないと捕まるとかいう法律ができたら歌うが、たぶんできないだろう。

でも家では歌うこともある。強制されなければ「日本を代表する歌」として歌う。

馬を川まで連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。僕に、暴力的手段または心理的圧力による威圧以外の手段で、君が代を歌うように強制できる存在はこの国にはいない。

だいたい国歌なんて絶対必要なものか。そこから、まず疑問である。といって僕は無政府主義者でも破壊主義者でもない。儒教の仁義礼智信孝と恕がかなり好きである。忠と悌は好きではない。道教の無為自然はもっと好きである。

君が代は僕にとってはずっと国歌ではなかった。いまさら、無理である。君が代好きな人にとってそれが自然な感情であるように、僕にとって「公式の場では君が代は歌わない」が最も自然な感情である。

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靖国神社へはいかない

2006-08-08 | Weblog

東京に住んでいるので時々靖国の前は車で通る。でも参拝したことはない。

別に理由はない。京都の古寺などは好きだ。近くの神社や寺にもいく。でも靖国には行かない。

別に理由はない、と書いた。その通りで、行くとか行かないとか考えたこともないのだ。

たとえば僕は延暦寺にも行ったことはない。東京タワーも子供の頃一回行っただけだ。行くとか行かないとか考えたこともない。つまり意識の中に入ってこない存在だったから行かなかった。靖国も同じである。

でもこれだけ「世間が騒いでいる」。で、行かない理由を「強いて」考えてみた。

①誰も身内が合祀などされていない。祖父は陸軍中佐だが、戦死していない。

②、あのでっかい建物の「威容」が嫌いである。人を威圧する感じで、古寺にある「わびやさび」といった風情が全くない。「静寂」といった日本の伝統を全く感じない。

③僕は大東亜戦争を完全な侵略戦争だと考えている。米英も侵略者だが、日本も侵略者だった。他国とくに東南アジアを侵略して死んだ兵を「拝む」気持ちはさらさらない。戊辰や日清、日露の戦没者には嫌な気持ちはない。が、拝む必要も感じない。

④死んだ元検事総長の本の題名「人は死ねばゴミになる」が僕は好きだ。僕も死ねばゴミになるだけだ。遺体(魂)をことさらに「英霊」などと呼ぶ必要は感じない。

⑤まあ死刑になった殺人鬼などという特別な例を除けば、死に、価値の高い低いがあるのだろうか。川べりで亡くなったホームレスの死と戦争で死んだ兵隊の死の価値に差をつける論理が僕のなかでは浮かばない。

⑥父の墓にだって年に二回ぐらいしか行かない。人は死ねばゴミになるのだ。そんな僕が何故靖国に行かなくてはいけないのか。全く理由が見当たらない。

 

などと、いろいろ書いたが、まあ最大の理由は②である。とにかくでかくて、人を威圧する「いやな感じ」があるのだ。あと理論的には③。大村の像はちょっと見てはみたいが、絶対に一生行かない。国立の慰霊施設ができても、③があるので、絶対行かない。人に行くなとは言わない。僕は行かないというだけのことだ。

投票してもらえるなら。


スウィングガールズ

2006-08-06 | Weblog

いつもような政治の話は今回はなし。

スウィングガールズという映画をTVでやっていた。田舎のおちこぼれ女子高生がジャズに魅入られて成長していく話である。

高校時代、僕も音楽をやっていた。吹奏楽とか真面目で健全な部活はどうも肌に合わなかった。「フォークソング同好会」というさえない部活で、機材もないから生ギター中心で、それでも僕なりに「スウィング」をしていた。

こういう青春もの、しばらく見たことがなかった。大林監督風の叙情性はない。「さびしんぼう」とも「時をかける少女」とも違う。でも明るい。明るさは滅びの姿と太宰治は「実朝」に書いたが、時代は変わったのだろう。素直に受け入れることのできる「明るさ」だった。

本仮屋ユイカさん、という女優がとてもよい。内気でドジだが秘めた情熱をもつ少女を演じていた。形としては主役ではないが、内容的には彼女が主役のように感じた。朝ドラ「ファイト」のヒロインである。派手ではないが、人をひきつける魅力をもっている。まだ大学1年らしい。必ず伸びる、と思った。こういう若い女優が頑張っている姿はとても美しい。近頃世間には美しいものが足りない。よい映画を観た。


日本軍国主義と中国と私の夢物語

2006-08-03 | Weblog

安倍氏が、シンポジウムで発言した。

「正面から中国と議論し、摩擦をおそれず、対話を重ねるパートナー関係を作っていく。」

あれ、なかなか「まとも」なことを言っている。

さらに言う。

「中国関係者がひんぱんに口にする軍国主義の復活などは、ほとんどすべての日本人の想像の域を超えるあり得ない話。中国の人々に正しい認識を持ってほしい。」

うーん。これも「まとも」だ。

と、思った。が、少し疑問も感じた。

なるほど中国は日本の軍国主義の復活をよく口にする。

そんなことはありえない。僕も含めて日本人のほとんどは銃の撃ち方も知らない。安全装置もはずせない。戦争が大嫌いである。威勢のいいことをいう人間もいるが、いざとなったら、何もできない。人生を通じて、軍事教練など一回も受けていないのだ。多くの日本人は軍事知識など少しもない。「兵士」や「軍隊」を作るのには時間がかかる。

僕は安倍氏と同じように、「中国人は日本に本当に軍国主義が復活するなどと思っているのか」、ずっと疑問であった。どう考えてもありえない。

韓国の空港には連発銃らしきものをもった兵士がいる。日本を歩いていて銃をもった「兵士」に出会ったら「奇跡」である。

留学生も多く来て帰国している。日本企業も多く進出している。インターネットもある。

たとえばいくら政府が洗脳的な教育を行ったとしても、これだけ日本の情報が入るような環境で、「日本人の戦争嫌い」がわからないはずはない。

「中国は戦略として言っているのだ」ぐらいは僕にも分かる。でも政府にとって戦略でも、ネットも見れないような環境にいる中国人は本当に知らないのかもしれない。ネットを見ても「中国をこらしめろ」的な威勢のいいことを言ってるブログも多いので、一般中国人はそういう虚言に幻惑されているのかも知れない。

僕は安倍氏を信用していないが、総理になるのは確実なのだから、公約通り、「日本の真の姿」を戦略的に宣伝してもらいたいものだ。

もっとも中国が真に脅威を感じているのは世界第二位の兵数を持つアメリカであろう。一位はいうまでもなく「中国」である。

日本に軍国主義は復活しない。でも日本は米国を中心とする巨大な軍事同盟の一員である。基地も多くある。

僕は安保反対などといおうとしているのではない。現実問題として、同盟国アメリカの存在を考えれば、日本は自分たちが思っているより巨大な軍事国家なのかもしれない。と思った。それを書くために長々と書いてきた。

爆笑問題の太田ではないが「私が総理なら」、そろそろあの戦争に決着をつけようとするだろう。どうすれば今後中国がいろいろ変な心配や懸念をもたないのか。中国政府にまず「中日戦争、日中戦争の真の和解案」を作成させる。「ようするにどーして欲しいのか」と聞いてみる。A級の分祀。それはできる。米基地の撤去。すぐにはできない。軍国主義復活の防止。そんなことしなくても大丈夫。南京虐殺、30万は多すぎるが、虐殺の事実は認めます。と一つ一つ、詰めていく。

考えてみると、60年前、世界の大国の「それぞれの思惑」によって中途半端にあの戦争に「形式上の決着」をつけてしまったことが不幸の始まりであった。だから「本当の和平の実現」を一からやりなおす。

むろんこれは半分冗談であるが、半分は本気でもある。一つ要求をのんだら中国は次々出してくる、とタカ派は言う。なら、国としての最終和解案を出してもらう。韓国にも出してもらう。「思ってること全部言え。でも後では言うなよ」と言う。日本も「世界一の数をほこる中国軍のほうがよほど怖いぞ」と本当のことを言う。

「これで決着。もう政府レベルではお互いこれ以上は言わない。民間レベルの言動にはお互い動かされない。」めでたし。めでたし。

まあ簡単に「すっきり」いくわけもないが、もう60年もやってきたのだから、どっかで「すっきり」手打ちといかないと、この先100年も不毛な戦いをすることになる。安倍氏は好かないが、「すっきり」させたら大宰相になれる。もっとも両国とも「不毛な戦い」が大好きな一部国民を有しているから、やっかいな作業ではあるが。

それにしても何故民間人の虐殺を認めると自虐史観になるのか、意味がわからない。60年も前の人間がやったことと僕の「人格」には何の関係もない。戦争指導者は愚劣で無能な虐殺者だが、僕の人格には何の関係もない。現在の女性監禁男とか幼児殺人犯と僕が何の関係もないように、彼らとも関係ない。彼らの愚行は認めるが、僕の愚行ではない。

中国、インド、韓国を巻き込んだアジア経済圏構想を日本が打ち出した。EUのアジア版である。これはとてもいいことだ。実現したら画期的な事業となる。その実現のためにも、いい加減「すっきり」としてほしいし、経済交流を考えれば「そうする以外に道はない」はずである。まず被害国である中国に「最終和解案」を作成させ、それを両国で協議する。ゆずれないことは「何故ゆずれないか」正直に説明する。

もっともそんな「おおげさでわざとらしい」ことなどせずに、アジア経済圏の実現によって、両国の懸案が「自然消滅」するなら、それが一番よい。

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英霊という言葉は使えない

2006-08-03 | Weblog

僕は「英霊」という言葉をこのブログで使ったことがない。戦没者と書いている。

英霊とは書けないのである。戦史を調べれば調べるほど「英霊」などとは呼べなくなる。これは僕の気持ちの問題で(心の自由とか言う気はない)、誰にも強制はしないし、逆にどう言われても変わらない。

①なるほど、日本人戦没者は愚劣な作戦指導によって殺された。餓死した。その点では犠牲者である。被害者でもある。

②しかし、アジアの多くの人間にとっては「加害者」である。命令とはいえ、虐殺したり、収奪によって餓死させたり、傷を負わせた責任がある。虐殺については数が問題とはなる。でも多くの日本人兵士の証言があり、また実際に虐殺した人間の証言もあり、虐殺自体が行われたことは間違いない。そのアジア人の多くは、形式上は「敵」ではない。兵士ですらない。民間人である。あまりに多くの生き証人(日本人)がおり、この事実は否定しようもない。

③これは平凡だが、英霊という言葉には戦争美化の嫌な響きがある。

④お国の為に戦ってなくった人より、お国の愚かな指導で、殺されたり、餓死した人のほうがずっと多い。僕個人としてはほとんどの戦没者は「殺された」と分析している。また「お国のため」に虐殺者となった者もいる。

僕は、戦争指導責任者によって殺された、多くのアジア、日本の戦没者に同情している。

また人並み以上には戦史は調べた。そのうえで信念をもって「英霊」とは言わない。戦没者または犠牲者である。

私の個人的感覚として、「英霊」という言葉には実にいやな響きがある。僕は使わない。人が使ってもいい。その人が信念をもって「英霊」としているなら、つまり「中国への反感」とかいう別の理由で使っていないのなら、特に文句をつける筋合いではない。でも僕の感覚では「英霊」という言葉は非常に政治的かつ意図的なラベル貼りであり、愚劣な作戦で無念に死んでいった兵たちを形容する言葉としては、きわめて「不純な動機に基づく命名」である。

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亀田戦とモラルハザード

2006-08-03 | Weblog

亀田戦の経過と結果をみて「溶けて流れてゆく日本」という西部氏の言葉を思い出した。

結果については僕がここで文句を言っても「正式なジャッジの判定だから」と言われればおしまいである。

つまり問題は「正式なジャッジ」が「正式で公平なジャッジ」か、ということになる。韓国の金、フランスのタロンという人物が「信用できるに足る」人物なのか、という問題である。TBSには抗議の電話が殺到。ヤフーの投票でも9割以上の人間がランダエタの勝ちとしている。あまりに露骨な判定というのが大方の見方だ。それでも「正式」というなら、もはや「正式」など信じるに値しないということで、これも小泉政治が作り出した「モラルハザード」のあらわれと見るべきであろう。

初回にダウンをし、終盤も立っているのがやっとであった。それが「チャンピオン」と言われても、9割の人間は納得しない。

「ボクシング世界戦」はTV局にとって「ドル箱」であった。しかし「K1」や「総合格闘技」の躍進によって、その立場は逆転している。

それでもボクシングは「正統で伝統ある競技」としての立場は保っていたはずだ。しかしこのような判定ではボクシングという競技の正統性にも疑問が生じることになる。

それにしても、韓国の金、フランスのタロンが「不公平なジャッジ」をしたとして、それはどのような「仕組み」で行われたのだろうか。亀田家にそんな力はないだろうから、TBS、その他関係者の「無言の圧力」としか考えることはできない。

ガッツ石松が「ボクシングをけがした」というようなコメントをしていた。亀田選手ではない。「関係者たち」が「けがした」ということである。私も同意見である。それなりの「伝統と正統性」をもったボクシングというスポーツ、善きにせよ悪しきにせよ「国威発揚の場」であったスポーツが「視聴率かせぎのためだけの道具」に堕したと言ってもよい。

一番の問題は「報道のTBS」という旗をかかげるTV局が自らの不公平さを露呈してしまったことである。筑紫さんの「ニュース23」では昨日どんな扱いをしたのか。見てはいないが自己批判、自己検証をしてほしい。「ニュースとバラエティは違う」と言われても、ボクシングはバラエティではなく「公平なスポーツ」と信じている視聴者は納得しないだろう。

曙選手はプロレスでは無敵だが、K1や総合格闘技では一回しか勝っていない。その一回の相手も一度引退した角田である。

よほど、K1や総合格闘技の方が公平な真剣勝負ということになる。

しかしながら、ヤフー投票では9割の人間が亀田の負けとしている。まだまだ正常な精神をもった人間が多いということであろう。

前回のオリンピックでの無理な盛り上げ。(日本人のメダル数予想のいいかげんさ)

昨日の試合の「正式」だが、間違った判定。

このようなモラルハザード、「なんでもあり」という傾向はネット世界で一部の国威発揚ブログ(全てとは言わない)と同じ傾向を持っている。そしてTBS、特に筑紫キャスターのリベラル的発言に異常な反感をもっている勢力は「ここぞとばかり」に勢いづくだろう。TBSはよほど反省したほうがよい。

じわじわとこの国を溶かしていくこの流れは、思っているより危険である、と僕は思う。もう二度と「亀田戦」は見ない。

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「客」ならなにをやってもいいのか 差別問題

2006-08-01 | Weblog

顧客を訴えるという社員を支持するという積水ハウスの決断には内部で論争があったのだろうか、それとも「すんなり」と「支持」に決まったのだろうか。

訴えたのは徐さん個人で、積水ハウスは会社として支持したに過ぎない。それでも反韓国感情をもつ人がいたり、「客を訴えるとは何事か」とかいう人もいる、ってことは十分「想定」しただろう。でも「差別は許さない」という声のほうが絶対に多いことは予想がついたと思う。それに社員の連帯という観点からも積水ハウスの行動は正しかった。

「客なら傲慢な態度をとっても許される」という風潮が強まったのはいつからだろうか。

どうもこのことと一部の若者の傲慢さは関係が深いように思う。僕は直接ものを売る商売はしていないが、それでも「客にあたる人」はいる。その相手が大人の場合は多少のことは我慢する。が、若い子であったり、子供であった場合は絶対に傲慢な態度は許さない。もっとも許さなくてもいい立場にいる一種の自由業なので、本当の客商売をしている人のつらさはわからない。

一般論である。マックなどで、子供相手に「お客様これでよろしいでしょうか」などと言っているのを見ると「教育上よくないな」と思う。非常に違和感を感じる。子供が「お客様」などであるものか。

僕が子供の頃、近くのパン屋などの「おっさん」は「おう、今日は何欲しいんだ」って感じで少しも丁重じゃなかった。みんなそうだった。

大人は何をするかわからなくて怖かった。

そのぐらいでよかったように思う。「客と売り手」という関係が世の中の全てになりつつある。つまり「人間と人間の関係」が崩れつつある。超高度資本主義社会。

今一番ものを買うのは若い人間だ。だが若いうちから「お客様」などにならないほうがいい。傲慢さはいつでも身につけられるが、謙虚さや反省心は若い頃に鍛えないと身につかない。アナクロと知りつつ「あえて」書いている。

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Xへの手紙  

2006-07-31 | Weblog

久々に小林秀雄などを読んでいる。少しは分かるようになったかと思ったが、相変わらず「何言ってるんだろう?」という感じである。「様々なる意匠」は昔に比べてやや理解できた気がするが、まあたぶん理解したように感じているだけなのだろう。

昔から僕は「詩」だと思って読んでいた。意味などあまり考えなかった。

この世の真実を陥穽を構へて捕へようとする習慣が身についてこの方、この世はいづれしみつたれた歌しか歌はなかつた筈だつたが、その歌はいつも俺には見知らぬ甘い欲情を持つたものの様に聞えた。

中略
 幾度見直しても影の薄れた自分の顔が、やつと見えだしたと思つた途喘、こいつが宿命的にあんまりいゝ出来ではない事を併せて見定めた。御蔭で(この御蔭でといふ言葉を忘れてくれるな)今の俺は所謂余計者の言葉を確実に所有した。君は解るか、余計者もこの世に断じて生きねばならぬ。「Xへの手紙」

「見知らぬ甘い欲情」「余計者の言葉」。今読んでもこういう表現は「詩」として好きである。

話かわって。

アメリカのテロ撲滅の支援と称して、中国でひどい人権侵害が行われているという。事実は調べようもないが、ありそうな話である。米、中、英、露、仏、これら常任理事国は本質的には帝国主義国家だからたぶん似たり寄ったりの非道行為をしているのだろう。

イラクの民間犠牲者はhttp://www.iraqbodycount.net/というHPに寄ると4万前後らしい。「前後」というは「正確にはもうわからない」ということで、現地の混乱がよく分かる。

昨日のNHKスペシャルは興味深かったが、「イラクの現状」は少しも分からなかった。ただ現地の人間とアメリカ亡命イラク人の会話を通して「テロだけではない。暗殺も多発している。誰が誰を(敵として)殺しているかもわからない。ここは地獄だ。帰ってきてはいけない」(概略)という情報だけは知った。

帝国主義にも「多少はまともな帝国主義」と「非道な帝国主義」がある。癌がさらに「悪性の癌」と「回復可能な癌」に分かれているように。

常任理事国。現実問題として帝国主義国家という「本質」を変えることができない以上、「少しはまともな帝国主義国家」になってもらわねば世界でますます人が死んでいく。当然日本も例外ではない。

前にも書いたが、常任理事国は巨大な武器生産輸出国でもある。「世界の貧困」にも大きな責任がある。ひどい話だが、「いい加減にしろ。」ときちんと「もの言える国」がない。国連にもその力はない。

これらの国々に「ものを言える」存在として日本は世界から期待されているのだろうか。それとも「アメリカの番犬」として諦められているのだろうか。あまり期待されているとも思えないが、巨大な経済力という武器をもつ以上、日本がその役割を果たさなくては「無責任」のそしりは免れないのかもしれない。

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在日差別について

2006-07-31 | Weblog

本日の記事である。

 大手住宅メーカーの積水ハウス(大阪市北区)に勤務する在日韓国人の徐文平さん(45)が31日、「差別発言で傷つけられた」として、大阪府内の顧客に300万円の慰謝料と謝罪広告の掲載を求め大阪地裁に提訴する。

 積水ハウスは「雇用管理や社会的責任の観点から支援していく」として、訴訟費用の負担や、裁判に出席する間を勤務時間と認めるなどの措置を取る方針。原告側代理人によると、社員が受けた差別発言をめぐり企業が訴訟を支援するのは異例という。

 訴状などによると、徐さんは昨年2月、顧客の50代男性が所有するマンションの修理などについて説明に行った。漢字やハングルで併記された名刺を差し出すと「北朝鮮にいくら金を送っているんだ。おまえのような人間がいるから拉致問題が起こるんだ」など、仕事と関係ない発言を約2時間繰り返された。

僕はこれを読んで二つの感想を持った。

①まだこんなことをやっている馬鹿がいるのか。

②またこんなことが始まったのか。

以上の二つである。

僕が少年時代をすごしたのは昭和40年代後半である。貧しくても心が心が温かだった時代という「昭和幻想」がある。「三丁目の夕焼け」などがそうだ。たしかに貧しかった。携帯どころか電話そのものがない家もあった。でも「温かく」などなかった。家族や仲間の連帯意識は強かったが、よそ者には排他的であった。東京でさえそうである。差別もひどかった。特に在日コリアン(韓国北朝鮮の区別はなどなく、おかまいなしに差別)に対する差別がひどかった。

在日コリアンが堂々と実名を名乗のるようになったのは、この十年のことである。昔は差別がひどすぎて名乗ることはできなかった。

今回事件を起こした男は50代だそうである。少年時代に植えついた差別意識が消えてはいなかったのだろう。それとも小泉とかニュースを見て差別心に火がついたのか。まさに「日本人のつら汚し」である。日本人かどうかも分からないが。

僕は幸か不幸か少年時代からどこか「醒めた」ところがあり、根拠のない差別に分別もなく染まったりしなかった。なんで在日というだけで大人が差別してるのか、「意味わからない。アホだな。」と醒めた目で思っていた。「醒めた少年」というのは不幸な人格であるが、差別に染まらなかったのは幸いであった。

在日差別の歴史を知らない若者が増えている。

①まだこんなことやっている、が正しいなら、こういう世代(40代以上だろうか)が消えて(死んで)いけば、少なくとも根拠のない差別はなくなるだろう。僕が接する若者は少なくとも根拠なく在日差別をしたりはしない。だから僕は上の世代が死んでしまえば、こういう差別はなくなると少し楽観をしていた。

しかし、②またこういうことが始まった、とすれば、楽観はできない。これからこういうことを始めようという若者がいたら、まず差別の歴史を知ってほしい。もっともそれを自分で調べて知るような理性を持っていたなら、きっと差別などしない。

まだやっている、のだろうか。それとも、また始まったのだろうか?

僕は「まだやっている」、と考えている。戦中世代の親からの差別意識の「すりこみ」をもろに受けて、いまだその呪縛から解き放たれていない40代以上の人間、たぶんそれほど多くないだろうが、彼らが消えていけば、自然と解消する。そう思いたい。多少希望的観測に基づく意見である。とにかく徐さんと積水ハウスを強く支持する。なるべく多く慰謝料をとって「こらしめて」やってほしい。日本人の一人として是非お願いする。

こういう愚劣な人間を勢いづかせたのも、小泉政治の大罪のひとつであろう。あ、僕は原則として反対コメント削除しないし、今まで一度もコメントを削除したことはないけど、「人種差別的コメント」だけは別格。削除します。書いても無駄だよ。

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金正日の「聖断」

2006-07-29 | Weblog

これは夢想である。真面目な批判には全く耐えられる文章ではない。

金正日総書記が次のような「聖断」を行ったとする。

 私は、世界の大勢と共和国の現状とを深く考慮した結果、非常措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに誠実なるあなた方同志に告げます。
 私は、六カ国協議に積極的に参加し、彼らのアドバイスと協力のもと、共和国の体制を根本的に改革しようと決めました。
共和国の無事平穏を図り、世界の国々との共栄を喜びとすることは、父金日成の残してきた遺訓で、私も行ってきたところであります。
私はわが国の思想にのっとり、理想の実現を目指し、人民の幸福を願って行動してきました。しかし最善を尽くしたにもかかわらず、経済は好転せず、世界の大勢もまた我々に有利となりませんでした。
更に、アメリカ、日本はわが国を敵視し、経済的圧力を加えています。
ここに至り、なおも世界への抵抗を継続するならば、しまいには我が民族の滅亡を招くのみならず、人類の文明を破壊することになりかねません。
思うに今より共和国人民の受ける苦難は もとより尋常ではないでしょうし、あなた方同志の心の奥底の心情も私にはよくわかります。
しかし 私は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、共和国と世界のため平和を切り開きたいと思います。
 私は、我が国を守り、誠実なあなた方同志の真心を信頼し、常にあなた方同志と共にありました。
 この決断を聞き、感情の激化させ、みだりに事を荒立て、同胞を仲違いさせ、互いに時局を乱し、このため大きな道を誤り、世界の信用を失うようなことは、私が最も戒めるところであります。
これらを国を挙げて子孫に伝えていき、わが共和国は不滅であると信じ、任務は重く道のりは遠いことを思い、総力を将来の建設へ傾け、道義をよく守り、固い信念を持ち、我が国の輝かしい真価を発揮し、世界の流れに遅れぬようにしていきましょう。
同志よ、私の決断の意味するところを理解し、それに沿って行動して下さい。

 

この「聖断」をしたら、共和国人民は武装解除をし、聖断に従うだろうか。(繰り返すが、夢想である)

天皇には武装を解除させ、聖断に従わせる力があった。ウエッブ裁判長は天皇を裁きたかった。彼はオーストラリアの出身だった。オーストラリアの世論は天皇に対し非常に厳しいものであった。彼は裁判長でありながら、実は「少数派」であったのだ。天皇有罪論を主張していたからである。

天皇が裁かれていたら、皇国ゲリラと左翼ゲリラ、また日本人民ゲリラが蜂起し、マッカーサーはその「掃討」に無限の時を費やすことになったろう。その中で日本人非戦闘員の犠牲も膨大な数になったに違いない。日本人同士の抗争も起きただろう。おそらく現在に至るまで「混乱」は収まらなかったのではないか。

論理的に言えば「立憲君主といえども責任は問われるべきだ」というウエッブ裁判長の主張は正しい。「正しい」けれども「賢くはない」。だからウエッブも天皇無罪論を容認した。正しい正しくないではなく「天皇を裁かなかったのは賢明であった」。

実際問題としても、僕がこのブログで一番問題にしている「餓死の責任」を天皇に負わせるのは多少無理がある。天皇は実態を詳細には知らなかった。(と思う)

夢想である。しかし中国がいっさい罪は問わないという約束のもと、金正日に「聖断」をうながしたなら、また、金正日にそれだけの権威があるのなら、東アジアにとってこれほどよい解決はない。

繰り返し繰り返すが夢想である。真面目に批判されても答えられない。

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東京裁判と戦争指導責任は関係ない

2006-07-29 | Weblog

東京裁判という映画がある。

ブレークニーというアメリカの弁護士がこう言っている。

概略である。

戦争に対し、開戦、終戦に関する法規、国際法があるということは「戦争の合法性」を示している。

戦争での殺人は殺人ではない。罪にならない。合法的な人殺しである。たとえ嫌悪すべき行為であっても犯罪として裁かれることはなかった。キット提督の死が真珠湾攻撃の結果として罪とされるなら、我々は原爆を落とした者の名を知っている。計画した参謀長の名も、そして投下を命じた元首(トルーマン)の名も知っている。

彼らは殺人罪を意識していたか。してはいまい。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵が不正義だからではない。戦争行為自体が犯罪ではないからだ。

概略引用終わり。

最初に観たのは20歳ぐらいだったろうか。アメリカ人は偉いなと思った。実際あの頃のアメリカ人は今より立派だったのではなかろうか。それから非常に論理的だなと思った。内容より論理展開とクールな語り口に感動した。

それは彼らの戦闘行為が正義で、敵が不正義だからではない。戦争行為自体が犯罪ではないからだ。

という部分が特に心に残った。

児島襄の「東京裁判」を読んだ時、この「くだり」に触れていないことが気になった。アメリカ人弁護人をあまり優秀でないという風に書いていた。児島の本は東京裁判の「理不尽なエピソード」を多くならべている。そういう方向(意図)で書いている本なのだ。

最近映画を見直して知ったのだが、このブレークニーの「くだり」は速記録から削除されているらしい。ただ児島は当然知っていただろうから、この「くだり」にほとんど触れなかった理由がわからない。

映画「東京裁判」では「席の数で被告人の数が決まった」とかいうエピソードもでてくる。

被告たちの中には一面識もない(互いに会ったこともない)人間もいた。それらが「共同謀議」をしたとして告訴された。

賀屋蔵相の「感慨」も紹介されている。

ナチと一緒に挙国一致。超党派的に侵略計画を立てたという。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ南だと国内はガタガタで、おかげでロクな計画もできず戦争になってしまった。それを「共同謀議」などとはお恥ずかしいかぎりである。

全くその通りで、当時の戦争指導者はまことに拙劣でお恥ずかしい計画しか持っていなかった。日中戦争に至っては宣戦布告すらなかった。共同謀議などという高級な作業を彼らはしていない。だいたい統帥権の独立を考えれば、共同謀議などできようはずもない。

しかし彼ら(A級のうち戦争指導の中枢にいた者)とA級以外でも戦争指導の中枢にいた者、たちのその無能さ、無策、無責任の為に310万以上が死んだ。アジア全体では2000万名以上が死んだ。

以上のエピソードでもすぐに分かる通り、東京裁判は不当である。アメリカに正義なんてものもない。その不当な裁判でA級戦犯となったものを国会が名誉回復したとしても、もともと不当なんだから意味はない。名誉なんか回復しない。(ちょっとややこしいことを書いてます)

東京裁判とはかかわりなく、戦争指導をおっていけば、彼らの「お恥ずかしい」(と賀屋被告自身が言った)行為によって、何千万という犠牲者が出たことがわかる。

東京裁判には意義はない。(真偽が明確な証言には資料的意味がある)どっちが正義かの議論も意味はない。何十年も前の国会決議による名誉回復とかも意味はない。

戦争の経過と死者たち(日本人、アジア人)の「死に方、餓死の実態」をちゃんと調べてみれば、東条ら戦争指導者の「罪=無能、無策=官僚主義的無責任=大量の死に対する責任」は一目瞭然、明白なのである。

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谷垣氏の公約

2006-07-28 | Weblog

谷垣総理を望む、と書いたのは直感である。信用できる人物であるという直感である。

直感では心もとないので、公約も調べてみた。

私は9月の自民党総裁選に立候補しようと考えている。したがって、本日より総裁選に立候補する者として、私自身の考えを国民の皆さんに正直に語り、訴えていきたいと思う。

 これからの日本を考えていく上で、政治に課せられた最も重大な使命は、一言で言えば「信なくば立たず」、国や政治への信頼を得るということだと思う。そのための基本は、国民の皆さんに正直に向き合い、真実を語り、国民をあざむかないことだと考えている。そのために私は逃げずに正直に訴えるべきことを訴えてきたつもりである。

 明日の東京ブロックを皮切りに、来るべき9月の総裁選に向けて各地で国民の皆さんと向き合い、語り合う機会を持つことになる。そうである以上、国民の皆さんに正直に私自身の思いを明らかにし、立場を鮮明にしなければいけないと思う。そうすることが、国民の皆さんと正直に向き合うことになると、私自身信ずるからである。

 その意味で、現在私が持っている大きな懸念について、今日はお話ししたい。
 それは、
(1)首脳同士が会えない隣国との異常な関係を正し、アジアホットラインを構築すること、
(2)シャッター通りに苦しむ地域の本音を受け止め、地域の活力を本当に取り戻すこと、
(3)子や孫へツケの先送りを許さず、財政の立直しに逃げずにぶつかること、
の3つである。

引用終わり。あとは氏のHPで確認いただきたい。多少詳しく述べている。

私は自民党員でもなく、今まで谷垣氏の政策に興味を持ったこともなかった。

氏の述べていることは全く普通のことである。普通がいい。逆に言えば今までの5年が異常でありすぎた。

氏は「普通の正常な総理」にしかなれないであろう。それがもっとも大切である。今必要とされているのは「正常な精神と感覚」「精神の平衡感覚」だからである。安倍後をねらってもらいたい。なるべく早く安倍後が来ることを望んでいる。

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