オウムの土谷被告に二審でも死刑の判決が下った。
地下鉄サリンは1995に起きている。11年前だ。
終末宗教というのは「終末が来る」ことを前提に成り立っている。逆に言えば「終末」がこないと成り立たない。麻原はノストラダムスに乗っかって、すぐにでも終末がくるようなことを言っていた。こういう教祖というのはだいたい自分が詐欺師であることを認識してるのだが、麻原は困ったことに自分が詐欺師だとは思っていなかった。自分の言葉と「現実」を強引に合わせようとした。それで自分で「終末」を演出してしまった。
キリスト教も終末宗教である。終末がきた時キリスト信者だけは神の手によって救われるとか、まあ救いの具体的形は様々だが、とにかく「終末がこないと困る宗教」の一つである。
もっとも「困る」のはキリスト教原理主義者で、一般の信者は別に困らない。終末がこない方がいいと普通のキリスト教信者は考えている。(だろう)
「キリスト教原理主義者」たちは、ずっと待っているんだがなかなか世界が滅ぶ様子はない。これは困った事態である。
なぜかというと「ヨハネの黙示録」では終末は「すぐにくる」ことになっている。この「すぐ」というのは日本語だから、原文のギリシャ語でどうなっているのかは知らないが、まさか2000年後が「すぐ」ではないだろう。これは困った事態である。
聖書というのは250年間ぐらいに書かれた様々な文章の「つぎはぎ」である。ヨハネの黙示録を正典にするかはずっと議論があったようだが、結局正典に加えられた。
「正典」である以上、終末が起こってくれないと、原理主義者にとっては非常に都合が悪いのである。
で、ブッシュは自分で「終末」を演出している。
つまり麻原とブッシュの間にはそれほど差はない。というが結論である。
柳田國男が示したように,日本人の死生観というのは基本的に性善説であり,生者と死者との境目が非常にあいまいなんですよ。だから,人を神に祀ることができる。神と人間は対立したものでなく,人間一人一人の中に神がいるということになります。
ということは,人に対して忠誠を尽くすことを強制され,人と人との契約という概念は成り立ちにくくなります。よくあるサラ金の取り立てをするヤクザが借金をした本人以外の家族や親族まで脅迫をし,裁判に持ち込まれる事を非常に怖がるというのは,こういう信用と人柄に裏打ちされた性善説=「神=人」の概念から出てきているのですね。
# 宮田登『神の民俗誌』(岩波新書黄版)も参考になります。
ナザレの木材加工業者イエスが死刑になって,弟子パウロがイエス言行録をまとめていった「ユダヤ教イエス派」(30~45頃)つまりエルサレム教会とは別個に,Quelle-Document 集団がガリラヤに現われます。この集団Qは「強烈な終末期待」「異邦人伝道を考えない」「イエスは「人の子」宣言」「迫害される預言者」「受難物語が存在しない」「復活物語が存在しない」という特徴を持っていて,60年頃にはパレスチナを離れたそうです。
そして 70年代にマルコ福音書が,80年代にQの影響でマタイ福音書が,90年代前半にQの影響でルカ福音書が成立し,90年代後半に独立してヨハネ福音書が成立します。そしてヨハネ福音書が成立した同じ頃の95年以降,Qによって終末思想の強いヨハネ黙示録が出てくるということになりますね。
この時期から近代までは,原罪意識に基づく「人間性悪説」が支配的になるのですけど,科学革命によって近代化が始まると,今度は反対に人間は強くあるべきだという「人間性強説」が支配的になります。これが Intelligent Design を生み出した米国の福音教会(キリスト教原理主義者)の思想的萌芽となるのです。
反対にイスラームは基本的に人間は弱い存在とされ,人間と人間との約束は神の意志があれば(イン・シャー・アッラー アラビア文字が書けなかった)履行されるという発想になります。
新約聖書の黙示録のギリシア語訳とラテン語訳を先ほどあたってみたけど,三太郎さんの言われる「すぐに」は22章6節のことを指しているのかなぁ。英語だと to show his servants what must happen very soon. だけど。
まぁ,どっちにしてもキチガイの言うことは,真に受けないのが賢明ということでしょうね(笑) それでは,今晩はおやすみなさい。