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おやじの独り言

ニュースな出来事、身近な出来事、季節の移ろい・・などなど。要するになんでもあり

教育再生会議

2006年10月19日 21時39分50秒 | 教育
17人も入れれば、船頭多くして、ということになりそうだ。

基本的にはすでに決めた方針に従った結論を出すために、どこからも文句を言わせないために沢山の人を入れてみた、というようなことだろうか。あちら立てれば、こちら立たずという状況では、事務局案が体よく会議の提言としてまとめやすくなるというものか。

その中で、野依座長の言葉をつい先日書いたが、その意見として、基礎学力だけではダメで人との対話力が重要とされている、とある。また、川勝平太氏は、主要5教科は、これ以上向上させる必要はない、というのが持論とある。この二人の発言には頷けるものがある。(当然のことだが、ばかでいいなんて意見ではなく、将来のための肥しが必要だということだろうし、それは百ますの計算力なんかじゃないということだ、と私は思う)

それ以外の人については、コメントしたくなくなるメンバーも散見されるが、特に気に食わないのが、百ます計算のおっさん。あんなことをやらされて育った不満や疑問を感じない子供に将来教師になって欲しくない。

子供のころから高校大学を通して、教師との豊かな会話を楽しめた子供が将来の教師として学校に戻ってくれることを期待したい。

冒頭の会議の後の記者会見の際の、野依座長の困惑した表情がこの会議の暗澹たる先行きを象徴しているようで、不安一杯である。

教師の質

2006年10月16日 22時11分55秒 | 教育
今日は(も、か)驚いた。中2の少年の自殺に果たした教師の罪の大きさにである。

教育再生会議の座長になった野依氏が先日NHKのインタビューに答えていた中に、「教育の質を高めるためには、教師が子供たちに愛されることが必要です。」と話されていた。先生が好きになれれば必然的に勉強するようになるとの意見である。もちろん、簡単そうな話ではあるが、それが難しいのも事実。そのためには、大変な努力が必要になる(例えば、こんな)。

よくあるのが、ある特定の集団に愛されることで満足してしまうタイプ。愛されたいという思いはあるので、思い込みが激しくて、扱いにくいこと甚だしい。子供たちがこんな教師とやりあうのは大変である。自分のやることに過剰な自信を持っており、それを妄信して’出来る子’を演じることが出来る子を愛してしまうタイプ。こういう教師が、子供たちの声に真摯に向き合うことなんかなくて、結論は何時でも、自分のいうとおりにしないさい(あんたたちは判っていないんだから)、である。悪く言えば子供を馬鹿にしている。

幸いなことに、こういう教師にはそんなに出会うことは無かったが、上の娘が小学校のときに一度ぶち当たった。子供の話を聞くと、まさに上のタイプの自信過剰教師だった。校長、教頭とその教師の3人を相手にして、徹底的に話し合った。教師の反論の一つ一つに丁寧に、あなたが間違っていることを徹底的に説明していった。それでも最後まで、わたしは子供のためを思って・・・と言っていたが、最後には校長にまで説得されて、最後は涙で終わってしまった。

帰り際に教頭に「よく勉強されていますね。いやー勉強になりました。」と言われたが、「普通に考えれば当然でしょう」と答えておいた。で、その後であるが、娘によると随分と改善されたようで安心したことを覚えている。もちろん、また同じだったら、何度でも行くぞ、の気持ちだった。

後にも先にも、学校に怒鳴り込んだのは、この1回だけである。

野依先生の言葉にもあるように、子供たちに愛されること、これに尽きると思う。自分を好きだと思っていない子供がいるとしたら、それは子供がだめなんだと、安易に考えないこと。絶対どこかに教師というか大人のおごりがあるに違いない、と考えるべきである。そのためには、謙虚に子供の声を聞く、謙虚さが必要だと思う。自戒も込めて。

教育バウチャー

2006年10月09日 09時46分23秒 | 教育
学校に競争原理を働かせることで、教師も学校も創意工夫に励み、教育の質の向上が図れる、そのための手段としている。

小泉政権のときもそうだけれど、現状が悪いと断罪して、いままでのやり方をすべて否定して、新しい改革が必要とする主張である。

例えば、教師は年功序列で給料があがる仕組みで、その能力を適切に評価してそれが待遇面に反映される仕組みでないとされている。しかし、能力の適切な評価やその能力に応じた待遇面での処遇が、今の仕組みで本当にできないのだろうか。それができていなかったとすれば、それを阻んでいた根源は何かをきちんと評価すべきだろう。なんか簡単に全部だめで、これさえ導入すればすべて解決するみたない議論は、郵政民営化で日本がすべてばら色に変わるというような議論だ。

評価する側に問題があるとうまくいくはずがない。上に気を配る奴が評価する側だと、そういう人間が評価されることになるし、そういう下らん輩は自分より劣ると評価する輩が好きだときている。そういう繰り返しで、どうしようもない教育界が作られている。それを改善するん方法が唯一、あの方法ということはないだろう。

安倍政権のスローガンに、頑張った人にはそれだけの見返りを得ることが出来る社会の実現があるが、それは格差社会を肯定しないと実現できないだろう。教育の場でも同じであって、その考えに基づけば格差を肯定せざるを得ない。そこに大いに矛盾をはらんでいると思うが、国会の与野党討論でそこに注目した議論は少ないように見えるのが残念。

いじめ自殺

2006年10月06日 23時09分04秒 | 教育
教育委員会の不誠実な対応が報道されている。ろくでもないのは間違いない。報道もそういう部分に焦点をあてて非難の姿勢を見せている。そういう人間を任命した任命権者の責任も追及すべきだろう。また、その程度の人間が候補者として残っていく日本のシステムの問題でもあるだろう。上の目に気配りをして事なかれ主義に徹した人間が教育長の職にまで上り詰めることができるのが日本の教育界。子供のことを真剣に考えて悩んだ教師が上り詰めるポストは無いのが実情だろう。今回の事件だけでなく日本の教育をだめにする構図は、教育だけにとどまらない根が深い問題。

いじめによる自殺が話題になったのはもう20年くらいになるのだろうか。葬式ごっこという言葉とともに、大きな社会問題になったけれど、教育界はその後なにも変わっていない。その変われない体質の原因は上記のような教師の側の問題も大きいが、子供の側の問題も大きいと思う。特にいじめた側が不特定多数におよぶ場合には、いじめの責任がうやむやにされがちではないだろうか。もちろん、自殺にまでいたったクラスの子供たちはそれなりの責任を感じて、それなりに事件の影響を将来にわたっても引きづっているだろうが、そこまで至らなかったであろう絶対多数の、その他大勢の問題も含めて議論しないと解決はありえない。

少し酷な気もするかもしれないが、いじめた側の責任をはっきりと取らせるべきだと思う。そうして、いじめに加担することで社会的な制裁を合法的に与えられるのだと、教え込む必要がある。個人が抱え込んだいじめの問題で自殺までには至らないケースはそれこそ数限りないだろう(それはないことにしているのが教育界だろうが)。そういう小さな(もちろんその当事者、特に被害者にとって事の大小はないだろうが)案件にも毅然とした態度で責任をとらせる取り組みを徹底しないと、いじめの根絶は程遠い。

20年前の事件を思い出すと、もうそんなに経ったのかとの想いがめぐるが、それとともに、その当事者世代の多くが教師になっているであろうことに背筋が寒くなる想いも同時に湧く。不安の方が大きい。

教育改革

2006年09月28日 21時46分38秒 | 教育
教育に力を入れる。大賛成です。

何をするかです。

教師の資格を10年ごとに更新する。 それでどれだけ変われるのでしょう。

本気で教育を変えようとするのなら、金をかけて教育意欲に燃えた優秀な教育者を沢山雇うべきだと思います。今の教育界にはもっと沢山の人がいると思います。

今の教員ではだめなんですか。 それを10年ごとの更新で改善できますか。 そんなもので変われるくらいなら、今問題だとされていないでしょう。

国際化だから英語を小学校から、なんて発想しかできない人間では教育改革は土台無理でしょう。

外国の技術者と交流する機会に恵まれていますが、いつも感じるのは、日本人の議論の場での弱さです。語学の問題では全く無くて、まったく議論の歯が立たないのです。情けないです。

(官房長官になった塩崎氏の政策提言「リーダーシップをもつオープンな日本へ」を読んだけれど、問題認識は間違いではないと思うけれど、解決策には納得できない点が多い。教育の場の大胆な改革は必要だと思うが、その方向の捕らえ方は異なる。)

現職教員にも教員免許の更新制

2006年07月11日 21時34分29秒 | 教育

なぜそんなことが必要なんでしょう。日々教育現場で生徒と接することは、それ以上ない自らの教員としての知識・能力を磨く機会になるものでしょう。例えば、教員としての能力に問題のあるケースも話題になることがあるけれども、それは教員免許の更新制を採用していなかったから起こった問題ではなくて、最初に免許を与えたこと自体に問題があったというケースがほとんどでしょう。


 


百歩譲って、年とともに教育に対する意欲を失うものがいるとしたら(上述の理由から教育の能力が失われることはないでしょう)、それも更新制を採用することで解決できる問題でもないと思います。


 


中央教育審議会のワーキンググループ(作業部会)というところで、この答申を作成したようだけれど、その中で、「子どもの学ぶ意欲の低下やニート現象への対応など教員に必要な知識・技能は免許取得後も変化している」としています。これもどう見ても教員免許の更新制が改善に寄与するとは全く思えません。教員の資質が重要であるとする意見は賛成だけれども、採用時というか免許を与える時に求める資質の問題で、道徳心に優れた見識ある人材で教育に情熱を持っていることをきちんと評価してもらえばよいと思います。


 


どうせ、教員免許の更新事務をつかさどる新しい文科省外郭団体ができて、役人の天下り先が増える、程度のことしか考えていないのではと思ってしまいます。


英語教育

2006年03月28日 08時46分13秒 | 教育
小学校の4年から英語を週に1時間教えることになるらしい。

こんなことで本当に英語が習得できると思っているのだろうか。英語教育にも力を入れてできることはやりました、という責任逃れの無責任な方策としか思えない。中途半端に金をかけるのでは、貧乏人の銭失いである。

国際社会で日本人が今後活躍していかないといけない、と真剣に思っているのなら、小学校から大学まで英語で授業をするくらいじゃないと無理だろう。授業時間を適当に増やしても、早くから英語教育を始めても、効果が無いのは今の状況と同じだと確信している。

日本語をどうするのかと心配する向きもあるかもしれないが、今だって十分に乱れている(古い人間からすると)し、学校で使うことばが日本語だろうが英語だろうが、大きな問題にはならないのは、英語で教育を受けてきた帰国子女が国内に戻っても致命的に不利になっていない現実を考えれば自明だろう。日本語だって失われることは無い、と思う。

ただし、英語を公用語としている国も、それぞれの訛りは無くすことができない。本当の意味でのジャパングリッシュができるかもしれない。

インドの貧困問題の解決のために

2005年02月20日 09時32分06秒 | 教育
今回のインドでの津波被害は、海際に生活拠点を持つ、いわゆる貧困層を直撃する災害となった。では、その貧困を解決することが津波を含めた自然災害の低減につながるかと言えば、それは少し問題が違うように思われる。

かれらの生活ぶりを見ていて不思議な感覚になったのだが、その生活を貧困と表現するのは、先進諸国の感覚でしかないようにも思えるのである。多くの人はそういう生活を受け入れ、その中で喜怒哀楽の日々を過ごしているのである。

だからといって貧困は問題ではない、とは思わない。私自身、日本の戦後の急成長の中で育った。子供時代と今の生活を比べるとそのあまりに大きな変化に驚くが、豊かさを求める事の大切さを知る事ができる。もちろん、豊かさのかわりに失ってしまったものも多いのだが。

貧困の解決のために最も重要なのは、教育だと思っている。人間は種々の自由を持つこと、豊かさを追求する権利を有すること、それを実現する為に負うべき義務を有すること、などを教えることだと思う。もっと豊かな生活があること、それを求めることが当然の権利であることは、人間が自然に知ることができるものではなく、それは教育する必要がある。

もちろん、教育の役割はそこだけにはとどまらない。豊かさを実現するためには自然科学に対する理解も必要になる。権利と義務の調整も必要になる。これらは直接的には教育の分野ではないが、教育の役割が大きいのは当然だ。

なんのための教育かの視点を失うと、教育のあり方を議論はできないのではないか。文部科学省はゆとり教育の失敗との認識からの改革には、なんのための教育かの視点を失っていないかとの疑問が、個人的にはある。

改革のために一番必要なのは投資だと思っている(何度も言っているのでしつこい)。なぜそう思うかの理由は、子供たちの多様性に応えるため、教育はそもそも難しいためそれに応えられる人材が必要であること、に尽きる。たくさんの人材が必要なのだ。そんなことはできないと思う向きもあるかもしれないが、教育に金をかけないことで、世の中ではいろいろなひずみがおきる。そのひずみを繕うために実はさらに多くの金をかけている。世の中そんな問題は沢山ある。原因に対してきちんと対応するとコストも掛からないが、その結果起こったことに対してそれぞれ個別に対処して解決しようとすると、おそろしくコストが掛かることが多い。

こどもの多様性に応えるのはむつかしい。なにがベストかが実はひとりひとり異なるからだ。だから、この子にとって良かったことが、あの子にとっても良いことには必ずしもならない。100マス計算にしても、くもんにしても、それが良い子もいるかもしれないし、一時期それが良いと感じる子がいるかもしれないし、そんなもの苦悶でしかない子もいるだろう。重要なのは、教育の目的を達成できることであり、100枚の教育用ペーパーをやり遂げることではないことである(いろんなやり方があるはず、どれがベストかは子供によって異なる)。

問題はインドである。ここでも教育が重要だと思っている。

大人の論理だな!

2005年02月17日 01時27分56秒 | 教育
けっして特定の人を誹謗中傷するつもりはありません。念のため。

大阪の事件で学校の担任だった先生のコメントが大変気になりました。「思い当たる節が無い」。犯罪者となった少年には、たぶん、これが一番いやなことだったのではないかと思うのです。一般論です。あくまで。

わかりやすい例で言うと、二人がけんかをしているところで、やめなさいと言われて、自分が正しいと思えば子供は、「でもね、先生・・・」となるところです。忙しい先生が、「なんと言い訳してもけんかはだめ。両方悪い。」みたいなことを言ってその場を収めるような場面です。

本来は、両方の言い分を聞いてやり、そのどちらの何が良いのか悪いのか、はたまた、両方悪いのか判断してやり、そのうえで、その問題の解決を図る(もちろん、絶対に解決する必要もない)努力をした上で、しかし、だからといってそれを力で解決しようとするのは、良くないことだと教えること。そこまで子供の世界に踏み込んでやるべきだと思うのです。そうしないと、子供の心の問題(先生の不要な反応が子供にどのような影響を与えたか)にまで踏み込むことはできないでしょう。だから、「思い当たることが無い」になっちゃうのだと思うのです。・・・あくまで一般論です。ただ、自分に自信のある人が陥りやすいと思います。そういう意味では、一般論としては、よい先生で通っているのではないでしょうか。

子供心に自分の意見に耳を傾けてくれないことが続いてくることで、信頼関係が崩れていく。そしてある段階まで進んでしまうと、これが心の傷として残るのではないでしょうか。少年の心の傷はそんなところにあるのではないか、と先生のコメントを読んで思った次第です。

怖いことは、大人のそういう論理になじむ子供の方が沢山いるとことです。そういう子供達がたくさんいるのは、やはり家庭の問題だと思いますし、いじめをなんとなく見逃して(見てみぬぬふり)しまうではないでしょうか。

ちなみに、聖樹は私が子供達の意見を全く聞こうとしないと、口を尖らせて文句をよく言っています。(コメントで指摘される前に書いておかないと・・)ただ、私は子供の精神にまで落ち込んで心のぶつかり合いをしていると思っているのですが・・(むつかしいので、わが子はコメントせんように!)