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おやじの独り言

ニュースな出来事、身近な出来事、季節の移ろい・・などなど。要するになんでもあり

教育再生会議

2007年01月30日 23時18分31秒 | 教育
教育再生会議の第一次報告書に関して先日感想を書いた。昨日(我が家の新聞では29日)の朝日新聞の時流自論で本田氏が意見を寄せていて、その中で、学力向上を意図した授業時間数の増加に対する疑問を投げかけている。

そのご意見によれば、授業時間と学力向上は必ずしも対応しないし、そもそも学力低下がすすんでいるという現状認識そのものにも疑問があるとしている。根本的な問題は、子供が教育内容に生活や将来との関連性や意義を見出しえていないことにあるとしている。

3日連続のインドの衝撃を見ていると、インドのエリートたちの学習意欲の高さに驚くが、小学校から大学までの教育課程が、そのまま卒業後の社会での活躍に結びついていることを意識していることが、ひしひしと伝わる。戦後の高度経済成長時代の日本でも同じように、いい成績をとって、よい学校に入って、よい会社に就職することが目指すべきもの、とはっきりと認識されていた。

本田氏のオピニオンの最後が、「愛」や「規律」「奉仕活動」を(子供たちに)押し付けても、子供たちはいっそう内面的な離反を強めるだけ、という指摘は頷ける。

教育再生会議第一次報告案

2007年01月19日 22時07分16秒 | 教育
7つの提言がなされているらしい。その中に、ゆとり教育の見直しで授業時間を1割増やすとある。

学力の低下が問題になっているということのようだが、本当に授業時間が少ないことが問題なのだろうか。仮にそうだとしても、1割増やしてどれだけ効果があると考えているのだろう。今までの教育の枠組みの中で、小手先の改革でしかない。

もっと大胆で大きな改革を目指せないのだろうかと思う。

授業時間なんて大した問題じゃないと思う。必要なのは、その教育に費やす時間をいかに大切にするかということだと思う。折角の1時間を本当に生かす教育をすることが求められていると思う。そして、そのために必要なのは、能力や興味に応じた教育を受ける権利を保障することである。

もう解っていることを時間をかけて教えられても興味は湧かないし、教育の目的を共通の知識の詰め込みと割り切ってしまうとありえない話だが、子供の持っている興味・能力を伸ばせる教育を受けられないと、こちらも興味は続かない。

教育時間を延ばしても、結局のところ、学力低下を防ぐ特効薬は競争でしか無いハズであり、それは昔の教育のスタイルに戻るだけである。

大胆な、それでいて合理的な発想で提言してもらいたい。

いじめ問題、教育改革

2006年11月26日 10時02分21秒 | 教育
少し前に石原慎太郎発言に対するブログに息子のコメントが入っていて、それにかみさんも賛成していた。学校だけが変われば解決できるような問題ではなく、家庭やもっと大きな目でみれば社会が抱える問題でもある、という視点である。おやじも家の中ではずっとそれを言ってきた。

家庭を含めた社会の問題の解決はそれこそ何年もかかる問題である。翻ってみれば、そういう親を作ってきたのは学校であり、社会であって、ことここに至るまでに長い年月をかけてしまっている。だから社会を変えるためには長い年月がかかり、そのための唯一の方法は教育しかないだろう、というのがおやじの考えである。そこから変えないと、社会は変わらないだろうと思う。

そして教育の場を変えるための視点のひとつは、石原発言のブログだし、一番大切なのは教師の質の向上だと思っている。ここから始めないと社会ばかりでなく、それを構成する家庭も変わらない。

大学の年間費用

2006年11月21日 06時31分01秒 | 教育
アメリカでは公立大学で70万弱、私立大学では260万だそうである。そのためにアメリカの大学では学費支払いのための借金の返済に滞り、卒業を諦める学生が増えているということだ。親に頼らず独力で大学卒業を目指すアメリカの仕組みならではの話だろう。

20年以上前のアメリカでも、アメリカ人の学生は親からの仕送りではなく、自分で稼いだ学費を支払うということだった。そのため、大学院の学生も社会人経験者が多いことに驚いたことを覚えている。そのかわり、大学で修士や博士の資格をとると求職の際のステータスがあがる。要するに年収が大幅にアップする仕組みになっていた(当然、それだけ仕事ができると社会に認識されているということ。また、当時も学生にはアルバイトのチャンスも多いし、修士や博士課程の学生にはさらに大学のアシスタントとしての働くチャンスもあった)

20年前も結構高かったと思うが、今のこの年間学費の高さも異常。日本の場合も私立大学はさすがにもう少し低いように思うが、公立大学はほぼ同じレベル。

新幹線通学

2006年11月15日 22時32分29秒 | 教育
毎日新幹線で東京に通っている受験生に出会う。電車の中でずっと勉強している。今日は、自分の苦手、というか全くやらなかった漢文を勉強していた。この前は化学をやっていたので、勉強している科目の範囲を見ると国立大学理系を志望しているのだろうか。

栃木からだと東京に進学してどっかにアパートを借りるころを考えると、新幹線通学が現実的かもしれない。普通の定期ほどではないようだが、学生には割引もある。なるほどな、である。

もっとも、アパートを借りて大学生の自由な時間を経験することはないが、そういうのんびりした大学生活が待っているのは世界でも日本だけ。世界の大学生は大学にはいってほっとする間はない。そのうち、日本もそういう方向になっていくだろう。

ピーターフランクルさんの教育再生

2006年11月08日 21時25分29秒 | 教育
朝日新聞のシリーズものの「わたしの教育再生」にハンガリー出身の数学者の同氏の談話の書き下ろしが掲載されている。朝日新聞読者でない人のために、要点を簡単に示すと、①日本の学校で問題なのは運動部の部活動で、早朝、夜おまけに土日も長期の休みにも練習漬けであって中毒状態。大切な時期に自分の視野を広げる有意義な活動は他にもある。②中学生レベルでも面白くよめる理系図書もたくさんある。授業以外の時間で大学のゼミ形式の時間があれば受験と一味違う高いレベルを学ぶチャンスになる。③「百ます計算」も一定の効果はあろうが、今の状態はやりすぎ。④日本人の英語ができない最大の理由は自分を表現することできないこと(もちろん日本語でである)。英語を話す以前に自己表現能力が欠けている。⑤愛国心は自分のお母さんが好きなのと同じ。美しくて、料理が旨くて、賢いから好きなわけではない。日本には優しい人、美しい場所、すばらしい文化がたくさんある。そういうものに触れる機会を増やすことが大切。

どれも尤もだと思う。その中でも特にうれしいのは、百ます計算の意見。表現は穏やかで大人だなと思うが、あんなものに感心して、その主唱者が教育再生会議に入っていることを暗に批判されている。一心不乱に百ますに取り組む姿を好感する意見が多い中、私自身は自分以外で始めて批判的なコメントを見た(ように思う)。

ピーターフランクル氏は10ヶ国語だかなんだかを自在に操るとはいうものの、母国語として話す人にとっては外国人の喋りであることは、操る日本語を聞けば解るが、すこしの拙さがコミュニケーションを阻害する訳ではもちろんない。短期間でも努力さえすれば不自由なくコミニュケーションできるようになるのは、外国生活経験者であれば容易に理解できる。5番目の最後のコメントは、美しいものに触れる機会を作る努力が必要だけれど、それは教育基本法の改正で実現できるとも思えない。

教育基本法改正議論の中で、どこが悪くて今の教育荒廃(があるというのなら)の原因となるものがあるのか、その議論がまず必要だろう。その議論をすっ飛ばして、改正論議だけがひたひたと進んできたのが実情だ。という意見は野党もさかんにしているが新聞ではあまり取り上げていない。昨日の新聞の同じシリーズもので、立花隆氏がこの意見を展開している。

JABEE

2006年11月02日 21時32分28秒 | 教育
JABEEという組織がある。日本名は、日本技術者教育認定機構。技術者というのは、国際的に活躍することができるものであるが、世界的に見た場合に、各国の大学を卒業した人がすべて同じ教育レベルを履修してきたとは言い難いのが世界の実情である。それを世界共通の尺度で表現するために、教育機関の格付けを行うのがこのJABEEである。あくまで技術者とあるように、工学系の大学限定である。

JABEE認定の教育機関であることが認定されていると、その大学卒業生は、世界共通の尺度での大学卒業技術者として、しかるべき教育プログラムを要求されるレベルで修了したことが証明されることになるわけである。結果としては、その出身国によらず、大学卒業レベルの技術者として世界に活動の場を得ることができることになる。

もちろん、技術者が国際的な障壁を感じることなく働くためには、それとは別の仕組み(例えば人材レベルのWTOみないなもの)が必要になるのだが、その別の仕組みづくりの中での技術者の共通資格要件として、JABEEは好都合に技術者指標を与える。

このJABEEの認定の仕組みで面白いのは、カリキュラムの縛りや教育インフラに対する要件に加えて、卒業認定レベルについて具体的にチェックすることである。要するに、教える内容がいかに優れていても、卒業生自身が確実にあるレベルの能力を持っていることを実証しないと、それは教育機関として認定されないのである。一旦認定されても5年ごとの更新審査も求められる、いかにも厄介なものなのである。


個人的にはこういう学外の認定組織に大学が審査されるというのは、直感的に気に食わない。どう考えてもすべての大学のレベルがこれで保証されるとは言えないと思えることも、その理由の一つだ。このJABEEという制度自体は、アングロサクソン系の国々が率先して進めているもの。まあ、そこからすでに怪しい。

わが国のほとんどの大学の工学系学部がすでに認定済みになっているのだが、面白いことに、名の知られている学校の中では、わが母校と東大の2校が未認定である。その理由は知らないが、個人的には永久に取らないでほしいと思うのだが・・

ただ、卒業生には確実に不利益が発生する仕組みが作られているので、いつまでの非認定と言うわけには行かないだろう。いずれ認定申請せざるを得ないだろうな、というのが実情。

高校教師の責任の取り方

2006年10月31日 21時30分21秒 | 教育
いじめが原因で自殺した中学生2年生は下の娘と同じ学年だ。いじめた側の両親がいじめがあったことを認めて謝罪に訪れたとのことで、自殺した少女の父親の、わずかでも心が救われたであろう思いが伝わるコメントがニュースで流れた。その潔さに比べて、何とも往生際の悪い校長の無様さが、際立っていた。

一方の高校の方では、校長が自殺する例まで出たようだ。まず、教師がきっちりと責任をとるべきだと、昨日のブログに書いたが、こんなのは責任を取ったことにならないだろう。心のケアが必要なのが、校長だなんて笑い話にもならない。きちんと、責任を受け止めて何をすべきかを考えて実行すべきだろう。日本の将来を背負う高校生が固唾を呑んで見守っている。

教育再生

2006年10月30日 22時40分06秒 | 教育
結局、高校の未履修事件は全国的に広がっていて、その全容は闇の中。高校の教育界も広くはないし、先生の移動もあるのだから、お互いがどのようなことをやっているかは知っていたのだろう。しかも、これがすべてとは誰も思っていない。

この問題では、誰も責任をとろうとしていないようで、生徒と保護者に罵声を浴びせられながらも、それに耐えて謝罪して、高校生に補修を強要することになりそうだ。これは絶対に拙い。

ちょっと頭を働かせれば、補修授業中にいわゆる内職をすればいいだけの話であることは容易に理解できる。最終的にどうやって単位認定するのか分からないが、そのときに頑張ればよいだけだし、もっと言えばいくらでも開き直ればよい。「誰のせいでこんな苦労していると思うんだ」。補習授業中に何をされても、教師は文句は言えないだろう。教師に対する信頼が失われてしまったあとの教室というのは、きっとさみしいものだろう。

そうならないためにも、まず責任をはっきりととるべきである。いじめ問題も同じだけれど、だれも責任を取らない、取らせられないのが最もまずい。災い転じて福となすためにも、まずはっきりと大人が責任をきちっととるべきである。そして、生徒には、最善とはいえないまでも、こういう補修という形で対応すると表明すべきだと思う。

まあ、これは補修をすることを前提とした場合に、やるべきことである。わたしの意見としては、補修授業なんて最悪だ。受験勉強の合間に、歴史の本でも何冊か読ませるぐらいで十分だろう。受験に必要なければ、教科書で学ぶ歴史なんてほとんど人にとって何の意味もない。良書との出会いの機会を増やすほうがよほど、本人のためになる。

高校の性能評価

2006年10月26日 08時45分42秒 | 教育
高校で世界史を履修していない理系進学を目指す高校生がものすごくいるということが富山の高校で発覚して、翌日になってみると、実はうちもそうです、という高校が雨後のたけのこのごとく現れて、あっという間にものすごい数になっている。発表を見ると県による偏りがあるので、これがもっと広がるのか、それともある県だけの地域的な問題なのかが判明するだろう。

いじめ問題では、これだけ迅速は反応・対応は見られなかったが、この問題に関する反応の速さには驚かされる。いじめ問題に比べると、罪としての捕らえ方(自分たちの責任の意味合いとその重さに関する認識)が相当違うということだろうか。

この件で一番問題があるとすれば、高校生自らがそれがルール違反だと知っていた場合で、自分たちが正当だと判断できるなら(自分で言い訳できるに足る理由がありさえすれば)、そのルールを無視しても問題はないんだと考えてしまっている場合である。この自分で納得できる理由というのがミソで、例えば今回問題となっている事由についてみればそんなに酷いものではなかったとしても、これから先の人生では往々にして身勝手な自分の判断になってしまう方向の選択を迫られる局面に立たされることが多いはずである。そして、そういう局面でいともあっさりルールを破る選択をして、自分自身には、これで仕方ないんだ、悪くはないんだと言い聞かせる、ことになる。そういう一人ひとりの安易な判断が社会的な大きな不正の温床になって、その結果どうなっているかは、今の新聞の社会面をみれば明らかである。これは最悪のケースである。

一方で、高校生自らがそれが不正であることも知らされず、必修科目であることも知らなかった場合であるが、この場合にはこれは学校側だけの問題で、小さい問題とは言わないが、問題はかなり限定的である。例えば、教師と教育機関に関わる人間の大幅な入れ替えを行えば済んでしまう問題かもしれない。日本の場合には、変わるべき人材が容易に調達できない、と思ってしまう所(実際に、今の仕組みだと難しい面があるが)に、さらに別の大きな問題もある。

そもそも、何を必修科目とするのか、選択とするのかを決める場合の根拠として、高校卒業時に何を備えておくべきか(高校卒業生に求められる資質)の議論があって決められているはずである。今回の場合も、先に書いたように、ルール違反を簡単に容認することを是としない、という社会通念上の問題を無視すべきではないが、一方では、根本的な問題として、その履修を受けないことでどのような不都合が実際に生じるのか(生徒の立場からすると、どのような不利益を被っているのか)の検証も同時にすべきだと思う。

実際、高校のレベルなんてピンからキリまである。今回問題となっている高校は進学という目的をあまりにこだわりすぎたことが事の発端であるとすると、いわゆるピンに近い学校だろう。卒業生の資質という点では逆にキリに近い高校に大きな問題を抱えているところが多いと思っている。高校卒業生にはこういう資質を持つべきだと、いう観点からすれば、必修科目の履修はしたけれど何も得ることも無く卒業していくだろう高校生がどれだけ多いことかという問題である。そんなこと、大した問題じゃないじゃないか、と言う人がいるとすれば、それならば、今回の問題だって、それこそほとんど問題にすべきものでもないというべきだろう。現在の実態は、絶対的多数の高校卒業生がほとんど何も履修成果も残さないまま高校卒業生として毎年大量に社会に排出されているのである。(実態は、形だけ履修したことにするのとなんら変わりはないのである)

おおよそ高校卒業の能力ありと認められないのに高校卒業生として大量に送り出されている事実の方がもっと大きな問題だと思う。その解決方法には、次に述べるような方法があるのだけれど、正直、安易な方法だとは思う。しかし、今のような野放しの教育を放置するよりはまともになることは請け負える。

高校卒業資格共通試験を実施して、試験合格者のみを高校卒業生として認定するものである。もちろん、大学受験の際の共通一次試験と違って順位を争うものではない。もちろん、教育というのは知識の詰め込みではない。安直な方法と断ったのも、このことがあるからである。

個人的にはそんなことまでしないと、教育の質を確保できないのが日本の状態だと思っているし、情けない限りだと思う。しかし、日本の教育の質はそこまで落ち込んでいると思っている。

ちなみに自分は高校で世界史を学んで大学受験でも世界史を選らんでいる。