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おやじの独り言

ニュースな出来事、身近な出来事、季節の移ろい・・などなど。要するになんでもあり

財政が苦しい中、国は教育に金をかけられるか?

2004年12月28日 00時10分19秒 | 教育
7月29日の記事に書いているように教育費の負担は大きい。このことが少子化の一因とも言われている。実際に子供を抱えた家庭では、子供が小さいときからせっせと貯蓄に励まないと大学までの教育費を負担することができなくなる。

仮に教育費の負担がほとんどかからないとすれば(デンマークのように)、そのための貯蓄の必要がなくなる。そうなれば国民の貯蓄行動は減り消費行動に走りやすくなる。財政支出規模を削減することばかり考えると、国民負担が増えることになるが、現状のやり方は受益者負担を徹底させている。国民負担を増やすことで財政支出は減ることになるので、仮に税収が毎年変化無ければそれはそれでよいことになる。しかし実際には、国民負担の増加は国民の消費行動の手控えにつながりやすく、そのことが景気減速の原因となり税収の落ち込みに繋がる可能性が高い。安易な増税と同じ結末である。

教育にもっと金をかけろといっても税収不足から元手となる金が無いのが現状だろう。しかし、一人当たりの生涯教育費が1000万円近い現状を考えると、増税はするけれど教育費は大学卒業まで無料になります、という提案は国民にとって魅力的ではないだろうか。

今の国の議論は、財政破綻を避けるためには増税しかない、としか言っていないように聞こえる。これは言い換えれば、「日本沈没を避けることはあなたにとってとても魅力的でしょう、だからあなたも痛みを伴う増税を受け入れなさい」と言っているに等しい。日本はもうだめなんです、としか政治家や役人が言わないで、どうやって安心な将来を描けるのだろう。

「教育費を無料にします。これは本当にいいことでしょう。だから国民全員で負担しましょう。」とか、「老後の心配はぜんぜんいりませんよ。だから・・」というような、国民にとってわかりやすい形で増税の恩恵を説明しなければならないと思う。

実際の財政・経済上の仕組みは、国民に安心感を植え付けて、安心して消費行動が取れるようにすることが重要と思う。絶対正しいとは思わないが、今のやり方はどうやってもうまくいかないように思う。

フィンランド教育相へのインタビュー記事(朝日新聞19日の記事)

2004年12月19日 21時13分53秒 | 教育
つい昨日、ブログに書いた教育問題に関する主張を裏付ける記事。

学習到達度調査(PISA)で高ランクのフィンランド教育相ハータイネン氏へのインタビューに対する答えがわが意を得たりの内容だったので、紹介しておきたい。

フィンランドの教育の強みは、教師の質の向上に努めていること。
課題は、将来も能力の高い人材を確保する必要があること。

こまかい仕組みや内容なんかが出てこないところが面白い。もちろん、教師がその能力を最大限に発揮できる仕組みも必要。朝日のフィンランド教育現場の紹介記事にもその一端が紹介されている。面白いのは教育の基本が平等にあるとのこと。この平等を日本のように同じ年齢の子を同じ部屋で一律に教育するのが平等なんて考えるのでは意味がない。誰でもわかる授業を受ける仕組みを平等と称しているし、そのことが教える側の要らぬ負担をなくすことは明らかだ。

これだよ、これ、と思って朝日の記事を見たが、よく考えたら外国では当たり前かも・・

指導者の資質

2004年12月18日 19時21分40秒 | 教育
スポーツで強くなるには良い指導者が必要だ。中学から大学、社会人にいたるまでこれは共通だ。ただ、良い指導者は少なく、しかも指導を受ける生徒の側に選択できる機会は少ない。運不運に近い。

体育館などの運動施設は整っているところは多いが、肝心の指導者の不足が原因で施設の利用が進まない。行政は箱物を作って満足してしまう。結局よくある光景は、だだっ広い施設をごく少数の愛好者が寂しげに利用しているものだ。

遅ればせながら地域スポーツの取り組みをJリーグなどは始めている。しかしその動きも全国的に進んでいるとはいいがたい。

学校教育の問題点が多く指摘されている。最近でも学力の国際比較を行った結果から、学力低下を憂慮する論調が多い。特に読解力低下が著しく、子供の活字離れが指摘されている。そのほかにも行過ぎたゆとり教育の弊害を説くもの、競争を過度に嫌う風潮を憂えるものなどなど。

どれもそれなりの原因であろうが、最も大きいのは、教師を目指す人たちの資質の低下(頑張っている人には申し訳ないが)だと思う。教育の結果としての生徒のレベル低下は、それは限りなく教える側の資質の低下に他ならない。

どのようなもっともらしい議論も、指導者側の資質に言及していない限り、本質的な解決には決してならない。

ちなみにわたしは中学、高校、大学と指導者に恵まれた幸せものだった。

学校の安全管理

2004年02月17日 18時04分47秒 | 教育
仕事上防災を考える機会が多い。そこで、学校が避難所として使う計画になっていることが多い。が、通常学校は安全上(生徒の)の理由から終業時には鍵を掛けて閉鎖されていることが多いそうである。最近では、就業時間中の不幸な出来事が相次ぎ、生徒が学校にいる間も校門には鍵をかけるところが多いともいう。
不審者が闖入すると不安だから、物理的に進入を阻止しようとする考え方に傾いているようだが、別の見方ができないかとずっと考えていた。例えば、近所の人が買いものに行くときには必ず学校の中を通ることや、学校の遊具を近所の未就学児童に開放するとかの方法で、地域社会が学校の安全を監視できる仕組みを作るほうが良いのでは、と思っていた。不安だから学校を完全にブロックして子供が守れる、という考え方は絶対いびつである。子供は学校が終われば、地域に戻ってくるのだから。
そう思っているところに、今朝(昨晩だったか)のNHK(?)のニュースで、小学校の校庭で高齢の方が集まってグランドゴルフをやることで、学校の安全を監視する取り組みが進められていると聞いて、これだよ!との思いを強く持ちました。