おはようございます。
昼は「カフェたまり」夜は「おもてなし家庭料理たまり」の女将をやっています、陶芸家のクメタマリです。
3月が終わって、卒業やら就職やら、今までの場所や人や事柄から巣立って、あたらしい一歩を踏み出した方も大勢いらっしゃると思います。
3月31日の東京新聞の「筆洗」には寺山修二のことが書いてありました。
ーだいせんじがけだらなよさー
寺山修二が「寂しくなるといってみるひとりぼっちのおまじない」なのだそうです。
右から読んでみてください。
親しく付き合って、あるいは一緒に住んだり、苦楽を共にしてきた人も沢山いて、その人たちと少なからずさよならしていくのが人生でもありましょうが、
人生で、たった一度きりしか会わない人も沢山いて、けれども強烈な印象を残して、いまだに思い出すような人物もいます。
そういう人とは、さよならの意識もなく、ただひと時話をするだけだったり、ほんの数時間一緒に仕事をするだけだったりしてわかれ、そのあとは二度と会うこともなかったりします。
それなのに、何年も、ある場合は何十年もたってから、ふと思い出し、その言葉の意味や、ほんのひと時の情景やらが忘れられなくなったりすることもあります。
私にも、かつて一度会っただけなのに、いまだに思い出す情景があります。
私は7歳でした。
寺に預けられていて、その寺は屋根の工事をしていました。
工事をしているのはたった一人で、そのころの私からは十分に「おじさん」でした。
指先が黒く染まっていて、その指で、靴の形をした器の中から黒い色のしみこんだ糸を引っ張り出して、木の上に線を引いていくのでした。
ある日、学校が早く終わった日だったか、気が向いて、早く帰ってきた日だったか、もしくは休みの日だったかもしれません、良くはそのシチュエーションを覚えていませんが、私は、大工のおじさんの仕事をなぜか興味深く、逐一眺めていました。
そのころ、私は大人がやっていることを、ぶしつけにじろじろいつまでも眺めているという癖のようなものがありました。
そうしたら、突然、その大工さんが私を振り返って「やってみるか?」といいました。
私は、なぜだかとても急いでうなずいて、恐る恐る近づいて、手を伸ばしました。
その手に、おじさんは先ほどの靴の形の入れ物から引っ張り出した糸を持たせて、木の端切れに合わせると、その糸の真ん中を持って、ピンッとはじきました。
端切れには、見事にまっすぐな一本線が描かれ、私はちょっと陶酔感に浸りました。
その木切れをどうしたのか、まったく覚えてはいませんが、そのおじさんとはそれっきり、会うこともありません。もう、とっくに亡くなってしまったのかもしれません。
でも、あのときの陶酔感と、突然振り返ったおじさんの顔とを、今でも、ふと、思い出すことがあるのです。
昼は「カフェたまり」夜は「おもてなし家庭料理たまり」の女将をやっています、陶芸家のクメタマリです。
3月が終わって、卒業やら就職やら、今までの場所や人や事柄から巣立って、あたらしい一歩を踏み出した方も大勢いらっしゃると思います。
3月31日の東京新聞の「筆洗」には寺山修二のことが書いてありました。
ーだいせんじがけだらなよさー
寺山修二が「寂しくなるといってみるひとりぼっちのおまじない」なのだそうです。
右から読んでみてください。
親しく付き合って、あるいは一緒に住んだり、苦楽を共にしてきた人も沢山いて、その人たちと少なからずさよならしていくのが人生でもありましょうが、
人生で、たった一度きりしか会わない人も沢山いて、けれども強烈な印象を残して、いまだに思い出すような人物もいます。
そういう人とは、さよならの意識もなく、ただひと時話をするだけだったり、ほんの数時間一緒に仕事をするだけだったりしてわかれ、そのあとは二度と会うこともなかったりします。
それなのに、何年も、ある場合は何十年もたってから、ふと思い出し、その言葉の意味や、ほんのひと時の情景やらが忘れられなくなったりすることもあります。
私にも、かつて一度会っただけなのに、いまだに思い出す情景があります。
私は7歳でした。
寺に預けられていて、その寺は屋根の工事をしていました。
工事をしているのはたった一人で、そのころの私からは十分に「おじさん」でした。
指先が黒く染まっていて、その指で、靴の形をした器の中から黒い色のしみこんだ糸を引っ張り出して、木の上に線を引いていくのでした。
ある日、学校が早く終わった日だったか、気が向いて、早く帰ってきた日だったか、もしくは休みの日だったかもしれません、良くはそのシチュエーションを覚えていませんが、私は、大工のおじさんの仕事をなぜか興味深く、逐一眺めていました。
そのころ、私は大人がやっていることを、ぶしつけにじろじろいつまでも眺めているという癖のようなものがありました。
そうしたら、突然、その大工さんが私を振り返って「やってみるか?」といいました。
私は、なぜだかとても急いでうなずいて、恐る恐る近づいて、手を伸ばしました。
その手に、おじさんは先ほどの靴の形の入れ物から引っ張り出した糸を持たせて、木の端切れに合わせると、その糸の真ん中を持って、ピンッとはじきました。
端切れには、見事にまっすぐな一本線が描かれ、私はちょっと陶酔感に浸りました。
その木切れをどうしたのか、まったく覚えてはいませんが、そのおじさんとはそれっきり、会うこともありません。もう、とっくに亡くなってしまったのかもしれません。
でも、あのときの陶酔感と、突然振り返ったおじさんの顔とを、今でも、ふと、思い出すことがあるのです。
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