郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

山崎城(鹿沢城)その3

2020-02-04 10:14:04 | 城跡巡り
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山崎城(鹿沢城)のこと その3


▼ 紙屋門                

▼本多氏の家紋 立葵の瓦



 紙屋門をくぐると史蹟山崎城(鹿沢城)本丸跡と山崎歴史民俗資料館がある。この周辺が本丸跡(御屋舗地)である。




▲歴史民俗資料館は山崎町門前にあった明治21年治安庁(後の法務局庁舎)を移築・復元したもの



山崎城の御門および内掘・外堀跡の位置

    御門は、下図の赤字で記した外堀の北側、東から、清水口御門、※角鷹(くまたか)御門、中御門、土橋御門の4箇所、南側に新御門と鶴木御門の2箇所あり、各々番所が設けられていた。





御門・堀跡の石柱(山崎郷土研究会)の写真①~⑧



▼①清水口御門跡(郵便局本局の裏手) と明治後期の写真






▼②中御門(聖旨保育園北側)





▼③土橋御門(本家門前屋南駐車場付近)




▼④外堀跡(聖旨保育園門右)





▼⑤大手前(旧山崎市民局左)  
      




▼⑥表御門(山崎小学校校門)

                          
※諸門の中では一番大きな門で、大門と呼ばれた



▼⑦鹿沢城搦手(山崎小学校体育館駐車場付近) 


※鹿沢城搦手は築城から池田氏3代の頃は大手口(表門)であったとある。



▼⑧内堀跡(本多公園の入口付近)





鹿沢城(陣屋)のあった鹿沢(山崎郭内)の地の移り変わり

 東西の山崎・南光線、城下を通る山崎・新宮線は、明治以降にできたものである。山崎新宮線の元になった道は明治10年代に旧藩士遠藤亘氏の発案により、搦手より南の土堤と石垣を崩し、城下へ続く坂道が造られたことによる。この坂は当時は遠藤坂と呼ばれていた。(⑦の搦手から南、イオン前附近)


▼遠藤坂 (昭和中期)





山崎藩之図に現在の土地利用を示した図



図:「小藩陣屋町における武家地の現況1996 大阪教育大学地理学教室」より



PS:次回は、明治・大正・昭和の写真で山崎城(鹿沢城)・陣屋周辺の移り変わり見ていきます。


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