郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

安志藩(その4) 陣屋の建設と藩主邸

2020-02-15 18:02:37 | 城跡巡り
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陣屋の建設と藩主邸(御殿)


中津出立(しゅったつ)の思い

 小笠原家は、一たんはお家取り潰しとなり、数ヵ月後に特別にお家再興の許しが出た。しかし元の4万石から1万石と大きな減封かつ西播磨北部宍粟郡への国替えとなった。元家臣たちは遠方の地の赴任をあきらめた者、再度奉公を願い召抱えられたものとそうでない者、いずれにせよ多くの家臣達は失業し、被官を求めて路頭に迷ったにちがいありません。中津藩から小笠原氏が去った後、享保2年(1717)奥平昌成(おくだいらまさしげ)が丹後宮津藩より10万石で入封したので、小笠原藩士の中には奥平中津藩に召し抱えられた者もいたと思われます。

 願いかなって引き続いて奉公が決った家臣達は、路頭に迷うことは免れたが住み慣れた中津の国許を離れ遠国の播磨の国への旅立ちは悲喜こもごもの思いがあったと感じ取れます。

 そしてやってきた所が播磨国宍粟郡。陣屋の場所を決定するまでに一通りの領地を検分した上で、この安志が適所であると判断したと考えられます。

 西には揖保川西に陣を張った本多山崎藩がありました。延宝7年(1679年)本多忠英が1万石譜代大名として入封しているので、安志藩立藩の37年前にあたります。山崎藩は最も近くの同じ1万石の譜代であり、陣屋づくりの参考とし、藩運営についても様々な指南を受けたことが考えられます。

  小笠原がこの地にやってきたのが享保元年(1716)、国替えの嘆願を幾度か幕府に願い立てたが、終に願いかなわず、本格的に陣屋・藩邸作りを着手したのは少し期間があったかと思われます。

 そして陣屋・藩邸・臣下の屋敷がほぼ完成したのは享保20年(1735)で、二代藩主長逵(ながみち)のときで、同年6月に安志に御国入りしています。入国20年目にして、陣容がやっと出来上がったことになります。

 立藩当時とされる絵図には、藩主以下家臣の名を数えたところ約50家余りあります。多くが中津からの家臣で、中には宍粟郡内からの召し抱えもあったと考えられます。他に江戸小石川に上屋敷があり、江戸詰めの者もいました。 



藩邸(御殿)について



▲立藩当時とされる絵図に描かれた藩主御殿の平面図


 安志藩の遺構の多くは消滅しています。しかし、幸い幕末期の大手の表門と御殿の表門とされる遺構が寺社門に利用されていました。大手表門は、安富町長野の真光寺の山門に、御殿の表門は、姫路市実法寺(じほうじ)の斎(いつき)神社の門として伝わっています。これは明治になって残っていた陣屋門が売却され、寺社門として再利用され今に残っています。 

   豊前国大分の中津藩で代々小笠原家の家老職とつとめた犬甘(いぬかい)氏は、安志藩の筆頭家老として、幕府にお国替えと城主格の願いを出したが、それがかなわぬとなった時点で、きびしい石高(財政)の枠の中で、陣屋づくり特に藩主の屋敷(御殿)だけは威厳を保つべく、立派なものにしたいと苦慮したのではないかと推測します。


▼姫路市実法寺の斎(いつき)神社門



 立藩当時の絵図(平面図)と残された門とわずかな遺跡資料から、藩邸を想像たくましくしてイメージを描いてみました。屋根葺きの素材がわかりませんが、絵図の藩邸や周辺の門や塀の色使いから、藁葺きもしくは茅葺ではないか推定して描いてみました。


▼御殿イメージ



参考 『安富町史及び付図』


【関連】
安志藩(その3)
安志藩(その2)
安志藩(その1)

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