郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「山田・中広瀬」

2019-11-01 09:49:48 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
「山田・中広瀬」 宍粟市山崎町

                閲覧数2,692件(2009.12.16~2019.10.31)


■山田(やまだ)
揖保川中流右岸(西)の平野部に位置する。

【近世】山田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。中世末に段丘面西部に山崎村、東部に当村があったが、寛永8年(1631年)、町場化に伴い城下町に居住していた農民を当地に移住させて成立。農人町・田町とも別称。郷帳類では江戸期を通じて山崎村の一部として扱われた。城下町の南東端の清水口を出た道は当村で姫路方面と龍野方面に分かれる。分岐点に寛政9年(1797年)に立てられた石の道標がある。(写真2)

【近代】山田 
明治22年~現在の山崎町の大字名。

■中広瀬(なかびろせ)

揖保川中流右岸(西)、篠の丸山の南東麓。古くは広瀬郷ともいったといい、南方には下広瀬の地名がある。地名は揖保川の氾濫原で沃野が広がることが郡内一であったことに由来するといい(宍粟郡誌)、また揖保川の流れが広くなる地点であることにちなむとも考えられる。
【近世】中広瀬村
江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。神社は稲垣神社。当村は揖保川筋にあり、高瀬舟による舟運にもかかわり、安政年間には川船が3艘あったという。また、洪水の被害が出ることも多かったという。

【近代】中広瀬
明治22年~現在の山崎町の大字名。揖保川の舟運はその後衰微しながら昭22和初期まで続いた。大正8年に郡是製糸宍粟分工場が安志(あなし)村安志から地内に移転し、山崎工場と改称。昭和6年には従業員712人、生産高3万7,526貫、工場周辺には下請け業者が集中し、周辺の農山村の養蚕業とともに活況を呈したが、戦後絹織物の需要減退により、次第に規模を縮小。同34年に工場は閉鎖された。昭和32年に始まる国道29号の改修・整備と山崎インターチェンジの開通により、交通の要地として工場や商店などが増加。

◇今回の発見 現在地名で中広瀬、下広瀬として残る広瀬郷は、揖保川の氾濫でできた大きな沃地であった。

※広瀬郷:秀吉軍が長水城を攻めたときに、出石の愛宕山に陣を張り、広瀬郷先の長水山にある長水城を望んで詠んだ句に「かがり火に、鵜(宇野)の首みゆる 広瀬かな」というのがあり、広瀬郷が出てきます。長水城は別名広瀬城ともいう。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿