郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 三方山城跡

2019-12-13 15:16:58 | 城跡巡り
【閲覧数】4,661件(2014.7.18~2019.10.31)



        
三方山城 ~但馬・播磨の国境の城跡~


御形神社の西向かいにある

 宍粟市一宮町三方に御形神社が鎮座する。その西向かいの山系、尾根筋に「三方山城」(御形山城ともいう)が所在していた。戦国後期、但馬の山名軍が侵攻した際にこの地域の領主であった田路右馬允は一族と共にこれを防いだことが古文書に残されている。その拠点となったのが「三方城」で、「草置城」と「高取城」と連携していたと考えられている。




▲三方城のある城山全景 御形神社より




▲昭和22年(1947)の航空写真  国土交通省




▲三方城周辺マップ


但馬・播磨の国境の武家田路(とうじ)

 伝承によれば、田路氏は千葉氏の流れを有する関東御家人で、鎌倉時代に朝来郡田路谷に来住し、その地名をとって田路氏を名乗ったとされる。田路谷から笠杉山を越える千町への山道を使って草木、三方へと勢力を伸ばしたと考えられる。

  中世の後期、宇野氏とは被官の関係を結びながらも、但馬の山名氏の家臣竹田城主の太田垣氏とも関係を保ち、播磨・但馬の緊張の絶えない国境を熟知していた一族ならではの処世術は、秀吉軍の播磨侵攻時には安積氏と同様に秀吉方に加担し一族は生き残ることができた。



▼羽柴秀吉書状  秀吉が安積氏、田路(とうじ)氏に与えた軍事指令



△兵庫県史 資料編Ⅲより


三方盆地を把握した三方山城

 「三方山城」は尾根筋のピーク(標高382.5m)の北側を大堀切で区画して本郭(南北25.5 m、東西9.0 m)とし、南からの尾根には堀切、横堀、出郭で防備を固めている。本郭の東側には帯曲輪を設けて山麓の屋形へ続いている。この場所は三方盆地を把握するには最も適した所である。

また「草置城」は百千家満から千町への草木峠の山頂に所在して繁盛地区及び但馬からの侵入を監視する「見張り所」としての山城である。近年地域の方々により復元された「草置城」の建物が作られ往時の姿を偲ばせている。





▲本郭


アクセス

城山の南山麓にある三方町墓地が登城口になり、約30分要します。



 

▲三方町墓地が登山口      ▲尾根筋



▲主郭の北側の大きな堀切



コメント

播磨屋さんより   2014年07月22日 

ご無沙汰しています。
安積氏に続いて田路氏の城跡登った時を懐かしく思いだしました。
余計なことですが、地図のところ、朝来側の田路城跡も入れられてはいかがでしょう?朝来側の田路城跡、近々、登ろうと思っているのですが、夏の暑さとヤブコギ、ダニ・ヒルが気にかかります。
最近、小寺のバカ姫 クーミン さんが妙な人気ぶりを発揮されていますね。
大河の影響がネット社会にのると、実にいろいろなことが起こって面白いです。
今日で梅雨明け!暑い日が続きますが、お身体、ご自愛ください。


返信 タケネット  2014年07月22日 
暑くなりました。
ご指摘ありがとうございます。さっそく田路城を記入しました。
この城跡へは秋頃とは思っていますが、それまで待てませんか?
この時期山城攻めより、近世の城巡りに個人的に汗を流しています。淡路洲本城と雲州松江城を見てきました。

播磨屋さんより   2014年07月30日

おはようございます。
三日の日曜日、田路城跡に登ります。登り道はなさそうなうえに、おそらく灌木、夏草が生い茂っていることと想像されます。加えて真夏の暑さ!
そんなことで、無理をせず田路谷に残る田路氏の旧跡を辿りつつ気合が続けば城跡によじ登ろうかと。なんと言うか、酔狂なことではあります ( ´ ▽ ` )

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