郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 飯盛山城跡

2020-04-20 09:45:30 | 城跡巡り
【閲覧数】3,948(2014.10.7~2019.10.31)                                   




▲市川橋西詰から見た飯盛山城

 
 
▲市川町内の諸城位置図
  
 

播磨 飯盛山城跡のこと   兵庫県神崎郡市川町屋形


 市川橋の東に見えるこんもりとした山が飯盛山(標高200m)である。市川の東岸に但馬と播磨を南北に結ぶ生野道が通っている。飯盛山の裾野は但馬口の見張りの要衝の地に位置していた。山城自体は頂上曲輪跡とその下の段のみでそんなに加工はされてはいない。戦いの城ではなく見張りに重点を置いた砦のようだ。

 この地の屋形という地名は中世からのもので、中世武士団の居館があったことによるとある。その居館があったという城山の北麓に続く緩やかな段丘地は今は車道で寸断され、竹林に覆われたところに土塁が残りその上部一帯は工場等の敷地になっている。南麓を播但有料道路が走っている。
 


 ▽航空写真で見る城山周辺の移り変わり
 
  
・昭和22年(1947)の航空写真 (国土交通省)         


・現在 by google earth
        




 この城については『赤松家播備作城記』(江戸期)に、赤松晴政が築き置塩城に移ったあと、高橋備後守が在城し天正6年(1578)に落城とある。
 
  天正6年頃、宍粟郡篠ノ丸・長水城の宇野政頼・祐清(すけきよ)父子の軍が市川上流の大河内表(おおかわちおもて)(神崎郡大河内町、現在神河町)に侵入している。それを受けて赤松則房は家臣の高橋氏・栗生田氏に来撃させた。その戦いは双方がダメージを負う激しいもので赤松側では高橋四郎大夫は手負い、弟が討たれている。四郎大夫は、則房から奮戦を見舞う感状を受けている。『上月文書』『安積文書』

 
 
 戦国後期の宇野氏の大河内表の推定行軍図
 



 攻撃をしかけた宇野氏は西播磨の奥地宍粟郡にあって織田につくか毛利につくか態度を明らかにしていなかったが、天正5年(1577)の毛利による上月城奪取をもって、反織田の旗色を示したと思われる。大河内表攻撃はその意思表示であったのか、置塩城主赤松則房の北部領地を撹乱し、三木城を取り巻く織田軍を背後から脅かそうとしたとも考えられる。
 
 注目すべきは、この則房が来撃を指示した高橋と栗生田氏の子孫の記録から則房との関係と守備領域が見えてきたことである。

   高橋四郎大夫のことについて、岡山藩主池田家の奉公書に播磨国神東郡屋形を本拠とし、『飯盛と申小城』(飯盛山城)を居城とし多くの軍功を立て、「赤松殿代々証文」を数多く所持していたとある。四郎大夫は赤松則房の家臣で跡継ぎの男子がなく、大獄城(柏尾城)の栗生田佐吉に嫁いでいた娘の子の茂兵衛を養子とした。姫路藩主池田輝政は息子利隆の備前入国の際に茂兵衛を従わせている。『岡山藩家中諸士家譜五音寄』

 さらに柏尾猪兵衛については、同藩池田家の奉公書に、祖父にあたる栗生田佐渡守(おおたさどのかみ)が赤松義祐・則房の家臣で「赤松代々上総守(則房)迄」仕えたという。佐渡守は赤松氏より大獄城を預かり、播磨の最北部、但馬の国境の抑えの城を守っていたのだという。
 
 以上のことからも、少なくても市川の左岸の飯盛山城、大獄城は赤松則房に従っていた配下の城であったため、両城とも『赤松家播備作城記』にある天正6年(1578)落城ではなく、廃城ということになる。
 


アクセス
 

 


 
▲登城口 稲荷の赤い鳥居が目印                ▲案内板
 


飯盛山の北側の車道の右に稲荷の赤い鳥居が登山口がある。ここから約10分。
 
 

 
▲登山道                        ▲頂上付近
 


少しばかり歩くと、頂上に近づくと、大きな岩がそそりたっている。
 
 

 
▲岩の門                                 ▲頂上の主郭
 


 岩の間が通路になって、そこを抜けるとぱっと見晴らしがよくなる。頂上は岩以外の部分が平たく削平されており、眼下には市川の流域の田畑、町並みがずっと奥まで一望できる
 


北から西のパノラマ



西から南のパノラマ

 
 
 
雑 感
 
 神崎郡内の中世の武将の動きがよくわからない。頼みの日本城郭大系には神崎郡内の城跡には、恒屋城(香寺町)しか取り上げていなく、この辺りは当時城郭の調査が及んでいなかったのと、伝承のみで、確かな史料による手掛かりがなかったためと思われる。

 中世末期の宇野氏や赤松則房の動きを探るなかで、断片的ではあるが神崎郡内の動きがわかった。それは「上月文書」による赤松則房のこと、さらに高橋・柏尾氏の解説(web 落穂ひろい・ふーむ氏)から裏づけが得られたことが今回の山城の紹介のメインとなった。

 
参考「web 落穂ひろい(ふーむ氏)」、『上月文書に見る戦乱の世』徳島県立文書館、『角川地名大辞典』、他


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