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山崎城(鹿沢城) ⑥  宍粟藩 藩政崩壊への道(その1)

2020-02-07 10:28:32 | 城跡巡り

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宍粟藩 藩政崩壊への道(その1)

 鳥取市鹿野町に訪れ、ここが池田輝澄(1604~1662)の配流の地であることを確認した。その紛れもない事実から、宍粟藩改易の原因はどうだったのだろうかと、もう一度山崎町史を読み返してみた。そこには・・・。



宍粟藩の家中騒動(池田騒動)とは   『山崎町史』より


◇ 元和元年(1615年)宍粟藩成立

 関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した。その戦いの功により池田輝政が、播磨52万石の姫路城主となった。この輝政の四男の輝澄が、若干12歳で宍粟郡3万8千石の領主となり、山崎に本拠を置いた。今から400年前の元和元年(1615年)のことである。





◇ 家中騒動の背景 ~所領拡大の藩政に新旧派閥の対立~

 池田輝澄が宍粟藩主となり、町は発展ぶりをみせるなか、寛永8年(1631)には佐用(平福)2万5千石の領地の加増があり、新規召抱えの家臣も増えてきたので、新参・古参の対立が目立ってきた。
 おりしも輝澄(30歳)、寛永10年(1633)江戸参勤交代の途中、病に倒れて以来、江戸に在任しており、山崎では家老たちの手によって藩政が執行されていて、上席家老伊木伊織(いぎいおり)が万事指図していたという。



◇ 家中騒動の拡大

  寛永15年(1638)の夏、新参家老小河四郎右衛門系の旗奉行、石丸六郎右衛門組の小頭と、鉄砲20挺を預かる古参、別所六左衛門組の足軽とが、金銭貸借の問題で紛争を起こし、口論がきっかけとなって、それが表面化し、両家老の反目となった。輝澄へ事実をありのままに伝えぬ※侫臣がいて、国許の騒ぎは拡大する一方であった。

※侫臣(ねいしん):主君に口先うまくこびへつらう臣下。悪がしこく、心の不正な臣下。



◇ 幕府の裁定

 隣藩の林田藩主建部政長が一時仲裁に入ったが、その裁きに不公平があるとして、嘉永17年(1640)に伊木家老と古参派11人の物頭奉行・横目たちが、家族もろとも集団脱藩した。
 このため、幕府は郡邑(ぐんゆう)不治の罪として領地没収の上、藩主輝澄は、兄忠雄の子、松平相模守光仲(鳥取藩主)に「お預け」となり、因幡鹿野に、捨扶持1万石を与えられ蟄居を命じられた。輝澄は入道して、石入(せきにゅう)と号し、寛文2年(1662)4月、59歳で没した(法名一圓徹心大雲院)。

 池田輝澄は、藩主たること26年、この時の領地受け取りの上使は小出大隅守・池田数馬・新庄右近、勘定方は下鴨市兵衛、京極刑部大輔高和(龍野藩主)は騎馬100騎にて、また、建部内匠政長(林田藩主)は、騎馬20騎にて来崎した。これは、寛永17年(1640)8月のことである。

 脱藩した11人は、それぞれ罪を問われて召し捕らえられ、幕府裁決は厳しく、伊木伊織はじめ菅友伯ら11人の物頭奉行・横目は親子ともども切腹、小河四郎右衛門は遠国大名にお預けとなった。

 宍粟藩の支配は、龍野・林田両藩から家臣一人づつを任命してその二人が臨時に行うことになった。この時から町年寄を大年寄とよぶことになった。池田輝澄が受けた改易は、幕府が大名支配体制を固めるのに必死のころで、大名政策は厳重であり、慶長12年(1607)から慶安2年(1648)までの間に64の大名が改易された。こうした時期に宍粟藩の家中騒動も起こったわけで、幕府にとっては格好の口実であり、池田氏にとっては不運といういべきであった。


⇒次回は、藩政崩壊への道(その2)家中騒動(池田騒動)の真相

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