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山崎城(鹿沢城) ⑧  宍粟藩 藩政崩壊への道(その2)

2020-02-08 09:42:16 | 城跡巡り
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▼池田家の家紋「揚羽蝶」の軒瓦
 (山崎城跡二の丸から発掘)

宍粟立藩4百年歴史解説パンフレットより



宍粟藩の家中騒動(池田騒動)の真相をさぐる

騒動の三つの疑問

1、侫臣とは誰なのか 2、上席伊木家老がなぜ脱藩 3、輝澄は不運であったのか

 山崎町史の家中騒動の説明文に「藩主にありのままに伝えぬ侫臣がいた」とあるが、侫臣とは一体誰なのか。「藩主江戸在任中、藩政は家老が執行し、古参上席に伊木家老が万事指図していた」とあるが、なぜ上席伊木家老が脱藩までしなくてはならなかったのか、その辺のところがさらに知りたくて探ってみることにした。

 幸いこの事件についてのいきさつが 「池田騒動」柴田光彦、「おさわがせ日本史」童門冬二 に詳しいことが判った。



騒動の起こり

 それによると、別所六郎左衛門は600石の旗奉行でその小頭が上司の別所様の奥様のお金という名目で金貸しをしていた。その金を借りていたのが鉄砲組みの石丸六郎右衛門という小川三郎兵衛の組の者である。別所の小頭は金の催促に石丸と小川組の足軽屋敷に押しかけて暴れ、これがきっかけで大喧嘩になった。

 結果、11人の物頭が駆けつけてその場を鎮め、物頭の合議による裁許の結果、喧嘩をした者の全員が召し放たれることになった。原因の究明というより、喧嘩両成敗の処置であった。


不服者の脱藩

 しかし、事はこれで終わらなかった。別所は、物頭の判決に承服できず、家老の小河四郎右衛門の相談をもちかけた。小河は元大阪浪人であったが、池田輝澄の側妾(そばめ)の甥の菅友伯(儒者)による推挙で被官した人物で、そのときすでに小河は、三千石の家老に昇進していた。その小河家老は、物頭に判決のやり直しを指示するが、拒否される。物頭は美濃時代からの池田に仕えてきた古参で、新参の家老の指示をはねつけたという。小河家老と物頭との対立に、古参の家老伊木伊織が仲裁に入り、その場はおさまった。

 輝澄(35歳)は江戸でそのことを聞く。輝澄のそばに寵臣の菅友伯がいた。その事件の見解が友伯によって「殿様は物頭と伊木家老について怒っておられる」という公的見解として山崎に伝えられた。それによって、城内は新旧2派が真っ向からの対立となってしまった。このとき、伊木家老は中立的な対応をとっていたという。

 池田の本家の岡山藩池田藩の池田光政が本家としての責任からを輝澄に調停案に示した。その調停案には、小河家老と菅友伯を遠ざけよとの意向があったというが、輝澄は友伯の意見に沿った見解をかえようとはしなかった。

 結果、物頭グループは脱藩の動きを示した。藩主輝澄はそれだけは食い止めようとしたが、手遅れとなった。寛永16年(1639)の年の暮れに物頭11人とその家族、同情者の100人以上が脱藩した。その折、伊木伊織は一人留まっていた。脱藩する理由も無く、脱藩者の帰還を待つのが職責であり勤めだった。伊木はそうするつもりだったが、そうもいかなくなった。「伊木家老は脱藩されない、さては小河家老と同じ腹ではなかろうか」そうではない証(あかし)をたてるために、追われるように寛永17年(1640)の新春大阪にたった。伊木伊織は大阪より、幕府に報告をする。

 そして、輝澄はあらためて本家の池田光政に取りなしを依頼し、幕府が動いた。その使者はこともあろうに菅友伯であったという。


幕府の裁定

 同年7月関係者一同が江戸に召集され幕府の評定所の吟味が始まった。判決は寛永17年(1640)7月16日に申し渡された。その内容は脱藩の罪が厳しく問われ伊木伊織と物頭11人は父子ともに切腹、新参家老小河四郎右衛門、金貸しグループの別所六左衛門、小川三郎兵衛、石丸六郎右衛門は預けの処置がなされた。

 ここで、寵臣の菅友伯はどうだったのか。伊木伊織家老が、評定で菅友伯の策略を提示した。それは発信人酒井忠正(旗本)、宛て先伊織家老の「池田輝澄殿は領内の仕置を菅友伯に一任しようと思っている。」という内容の偽書を友伯が作成したことが、評定で暴露されている。友伯は父子ともに斬罪された。切腹ではなく斬罪であり、武士として最も不名誉な処置がなされている。山崎町史にある侫臣とは、菅友伯のことなのだろう。

 同時期に池田騒動とよく似た事件が四国の讃岐松山藩で起きている。松山藩4代藩主生駒高俊が政務を怠り、家中の内紛を引き起こしている。その騒動に対する幕府の判決が播磨宍粟藩と讃岐高松藩に同じ日の寛永17年(1640)7月16日付けでいい渡されている。そして、何の因果か改易された生駒高俊と輝澄の正室天正院とは兄弟で、讃岐高松藩3代藩主生駒正俊の子(嫡男と娘)であった。「このたび播磨・讃岐両家の争論で死罪になった者の子が各所に潜んでいるはずである、捜索して切腹さすべし」と領主ならびに代官に布告されている。両藩とも死罪者の子までも全員切腹の厳しい処置がくだされている。『徳川実紀』


藩政崩壊の本質

 輝澄が最も信頼した側近菅友伯が殿に真実を伝えずどころか、偽書までつくり、真実をかく乱しようとした。信頼していた側近が悪かったと言えばそれまでだが、藩政崩壊の本質は藩主が組織の中にいなかったこと。徳川三代将軍家光の大名政策の厳しさは、トップ不在で乗り切れるほど藩政は甘いものではないということに藩主輝澄は江戸に居ながら気がつかなかったのか。藩主は病弱であった、側近が悪かった、生きた時代が悪かった、不運の藩主だったと片付けるには、宍粟藩6万3千石の崩壊はあまりにも重く厳しい現実だった。

 鳥取の鹿野にあって輝澄は入道している。そのことは自らの失策による藩の崩壊の責任と一身にその責を負った古参家老伊木伊織をはじめ多くの者を死に至らしめたせめてもの償いのためだったと思いたいのだが・・・。



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