・紅薔薇の机上に散りぬ散りしまま二日がほどを触れずにおきぬ
散った薔薇をどこか意図的に放置して愉しんでいる。日常の身近な自然を静かにうたう。とりわけ花への視線が優しい。
・バスタオルで顔を拭いてる少年は十薬の花踏みつけてゐる
・白木蓮咲きはじめたりこの春も一輪いちりん北に呼ばれて
踏まれるままの十薬への目、北に呼ばれたと感じる白木蓮…こうした眼差しは同様に動物たちへも向く。
・日の下の土竜(もぐら)の死骸大き手に詰めをそろへて寝顔をのせて
・野兎の轢かれてゐたり片耳は立ちたるままに青田の風を
・傷つきし紋黄揚羽はどうしてる黒き鱗粉手に残りたり
土竜、野兎の死骸、助けてあげた紋黄揚羽のその後…小さな生き物たちの命を見つめる優しさが伝わってくる。
歌たちの合間に四編の短いエッセイが組まれている。それらの文章量と配置の加減がとても心地よかった。中でも印象的なのは、長きにわたる自らの病についてのものだ。
・一か月分溢れるやうな薬なりわが生きる嵩をぶら提げてゆく
・二種類のインスリンも入るレジ袋柿の実色づく道を帰りぬ
こうした歌のすぐ後に置かれた「賜物」には「二十七年余をインスリン注射で生かされている」と始まり、その日々の詳細や告白めいた思いが正直に語られ、最後に「生かされている」という感謝の思いをしみじみと述べている。
もちろん単独でも味わえるのだが、私はこのエッセイは、歌に置かれた長い長い詞書のように作用していると感じた。そしてさらには先述の生き物たちの命の歌への詞書としても読めると思った。
他のエッセイも前後の歌に関連性をもたせた構成になってる。あとがきには「エッセイを入れることにより構成も変わり、歌数も三百余首となった」と述べている。読み手への気遣いであろう。この十年ほどの歌数をわずか三百首に絞ったというのもまた凄い事だ。
歌集を創り上げるには「編集」というプロセスが不可欠だ。ここにはもちろん「企画」や「構成」といった要素も含まれる。言い換えれば、作者が自身の世界をどうやってうまく読み手に伝えるかという難題との自問と闘いの日々でもある。「編集」が充分になされていない歌集は単なる短歌日誌で終わってしまう。
こうした面で本歌集は歌とエッセイが互いに干渉し合うことなく編集され、読み手は無理なく作者の歌世界へと誘われる。歌集を作る際の要素として、エッセイにはこんな活かし方があるのかと深く考えさせられた。
・残りゐし柿の実ひとつ今朝は無し「あつ」と小さく言ひて落ちしか
・立ち話にコゲラの来たり横縞の翼を見せてコツキツコツキツ
・放り投げる反故はづさずに受けくれるごみ箱の機嫌についてゆく日よ
・うつすらと林檎の匂いのただよへる廊下となりぬ霜月終はる
・つままむと伸びたる指は空(くう)を切る一月のひかり紐となりゐて
『はれひめ』
砂子屋書房
2021年12月10日発行
3300円(税込)
2022-01-23
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