たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

AIが短歌にもたらすもの

2019-11-16 13:19:08 | 評論

・甘やかで切ない風もあることを人工知能は知るのだろうか

         平成二十八年度NHK全国短歌大会大賞 おのめぐみ

・道ならぬ切なき恋もあることを人工知能は知るのだろうか
         第二十三回与謝野晶子短歌文学賞堺市長賞 古谷智子

・残酷で切ない気持ち持つことを人工知能は知ってるのだろうか
         第十九回若山牧水青春短歌大賞中学生の部佳作 井上京香

AIを詠んだ歌を調べていて出会った。類歌類想の話ではなく、現代人の心に共通するAIへの一般的な眼差しなのだと思いたい。いずれもここ数年内の入選作だ。「人の持つ切ない気持ちというものを人工知能よ、あなたはいずれわかるようになるだろうか」という素朴な問いかけのその裏には「どうせ無理だろうけど」の優位感と「ひょっとしてこの先には可能なのかな?」の思いが見え隠れする。

人には様々な心の動きがあるが、なかでも「切ない」は繊細かつ不確かに揺れる感情なので、その代表格として「切ない」が浮上したのかもしれない。詠んだ人はもちろん、選に関わった歌人たちにもまた同様な思いがあったに違いない。ポピュラーな見立ではあるがAIの本質をついた視点でもある。専門家たちが将来へのテーマとして挑んでいるのは正にここなのだ。

「弱いAI」「強いAI」という言い方を聞くようになった。前者は「自意識」を持たないAI、後者は「自意識」を持つAIだ。「自意識」は「自らの思考や気持ち、感情」と置き換えてもいいだろう。いまや囲碁や将棋の世界ではAIが大活躍し、その実力は人間の能力を遙かに凌駕し、この世界の最強はすべてAIになってしまった。しかし、これらはいずれも「弱いAI」である。解釈を広げればパソコン、スマートフォン、そしてインターネット、いずれも「弱いAI」だ。幸いなことに…というこの言い方そのものに既に不安を含んでしまっているが、自意識を持つ「強いAI」はまだこの世のどこにも存在しない。

短歌の千四百年の歴史の中で、人間ではないものが歌を創り出すなどということは想定外の局面であるから、そこに不安や疑問からくる心理的な抵抗があるのは自然だろう。飛行機、ブルドーザー、潜水艦…歴史上、人の力を凌ぐ機械は多々発明され、それらにはまるで抵抗感のなかった人間が、AIという機械の登場をどこかで容認し難いのは、相手が「力」ではなく「智」でもって我々の脳にダイレクトに迫って来るからだ。

「短歌研究」二〇一八年六月号の特集第二部「短歌システムの崩壊と再生」で、斉藤斎藤は坂井修一との対談のなかで「星野しずる」という短歌創作ソフトが作った歌を学生短歌の歌会に出してほとんど評が入らなかったことに触れ「ただ、今の最先端のレベルでいえば、評が入る歌は作れるんじゃないかと。しかし、いい歌とか巧い歌ではなくて、人間が背後にいるとしか思えない歌が、人工知能に作られてしまうのかどうか。やはり短歌は人間でしょという思い込みか信念かが、崩されるかどうかということに、怖いけれど、興味があるんです。」と述べる。

坂井はこれを受けて「ディープラーニングというのは、人間のくせみたいなものをシミュレーションして学んでいるだけなんです。認知科学的にいえば、そんな学習では、人間を理解したことにはならない。だけど、歌が作れる。そこが面白い所なんです。」と返し、今の「弱いAI」であってもいい歌(正確にはいい歌だと人間が感じてしまう歌)が登場してくる可能性を示唆している。

AIとはつまり「天城越え」を歌う十二歳の天才少女歌手なのだと思う。少女の抜群の歌唱力や表情、仕草は聴く人を魅了し感動を与える。だがしかし、少女はこの歌詞の意味は理解できていない。大人の男女の逃避行の旅、愛情からくる憎悪や性愛などを人生経験少ない十二歳の少女が分かるわけがない。だが私はその歌詞や歌いっぷりに感動し、素直に拍手をするだろう。少女自らは意味の分からぬ語を発しても、受け手には意味がしっかり理解されて伝わるのだ。この少女こそが我々の前にいる「AI」の本質なのだ。

AIと二物衝撃

坂井の「…だけど、歌が作れる」という言は、読む側の人間がそこに「図らずも」詩情をくみ取ってしまうということであり、決してAI自身の主張ではない。人が「いい歌」と感じる要因は、歌意はもちろんとしてその裏にある普遍性や愛唱性、調べなど実に様々な要素が絡むが、そのひとつに「異質な言葉同士がぶつかる効果」がある。

・ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ
・めん鶏ら砂あび居たれひっそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり(斎藤茂吉)

ゴーギャンの自画像と山蚕を殺した記憶は本来なんの関連もない。めん鶏と剃刀研人もそもそも無縁なもの同士だ。しかし、私たちはこうした歌に触れるとなぜか驚き、戸惑い、心にさざ波が立ち、ときに強い感動を覚える。ふたつの言葉それぞれが背負っているイメージが脳のどこかで絶妙にせめぎ合う感覚こそが、詩というものの本質的な部分なのだろう。主に俳句界で「二物衝撃」と呼ばれているものだ。

・そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています(東 直子)

上の句と下の句の一見無関係なフレーズの繋がり具合に何かぼんやりした物語を想像させる。穂村弘との共著「しびれる短歌」で、東は「そうですかきれいでしたか」は松田聖子が結婚したときのかつての恋人だった郷ひろみのコメントだったと明かし、下の句は長い間できなかったが、何となく小鳥を売っている人のイメージに結びつき、遠くの元恋人を思いつつ目の前にいる小鳥をめでるという物語を想起したのだという。

茂吉も東も、歌人ならではの言葉の掛け合わせ力でもってこの力技をなし得たわけだが、そんな言葉のぶつかりを自動的にしてくれる「Phrase+」というスマートフォンアプリがある。二万八千余りの名詞や形容詞が内蔵されていて、それらを機械的に「二物衝撃」させてくれるのだ。中には意味を成さないのも混じるが、心に響いてきたフレーズをランダムに挙げてみる。

券売機観察日記、エレガントな児童公園、手綱がついた遊牧民、一塁側スマートフォン、おむすび型のガン保険、抗生物質入りの茶柱、アラビアン源氏物語、心が軽くなるイクラ、土木内科医、ふりかけの生き残り、ジグザグ型の言葉、サンドイッチ構造の芋けんぴ、間違いだらけの糸電話、牛乳を宅配するおはぎ…。

我々の通常の思考からはまず繋がることのない言葉たちが次々と強制的に繋げられてゆく。「二つの語」の組み合わせなのがわかりやすい。意味不明かつ奇妙な感覚が次々に迫ってくる。思わず吹き出してしまうのもある。前後に希望する言葉を付けることもできるので試しに「歌人」を「後入れ」で設定してみる。

黒酢仕立ての歌人、金太郎飴みたいな歌人、自給自足歌人、バネ入りの歌人、1シーズン使える歌人、レモン風味の歌人、バックアップ機能付きの歌人、ボタン1つで歌人、二度づけ歌人、出がらし歌人、両面を軽く焼いた歌人、富士山山頂でも使える歌人、ゾウが踏んでも壊れない歌人…。

これらが更新をタッチするたびに五十個ずつ延々と表示される。歌人に限らず文章を書く世界の人ならいつまでも遊べそうだ。本稿のために様々な語を入れ続けてみたのだが、おもしろい小説を一冊読み終えたような気分になった。コピーライトやネーミング、新商品の企画会議等の活用を想定したアプリだが、たとえば題詠の題を前後に付けさせたりすれば短歌作りの補助ツールとして充分に使えそうだ。

こうした強制的な二物衝撃を二つの語から定型に進化させたものが先述の、初句から結句までの言葉たちをランダムに組み合わせて一首に仕立ててくれる「星野しずる」だという見方もできる。

・ちぐはぐなデフォルメされた過去となる自分自身は死んでしまった
・ありふれた恋人たちを調べれば朝の秘密がかなしくて街
・水色の風のあいだに鉄塔はつめたい猫を見つめ続ける(星野しずる)

全体に意味が散ってしまってフラット感があるのは否めないが、歌会に出されたらAIの作だとは思わないだろう。若い世代の一部の歌にもこうした傾向があるように思えてならないのだが、ひょっとして彼らはもう既にAIと組んで活用しているのかもしれない。

他に、ウィキペディア日本語版の文章から「五七五七七」の定型部分を引っ張り出してくれる「偶然短歌」というプログラムも話題になっている。

・愛される親しみやすい雰囲気の若い女性が笑顔で天気
             ウィキペディア日本語版「お天気お姉さん」
・艦長が自分好みの制服を艦の資金で誂えていた
                    〃     「セーラー服」

AIが人間を遙かに凌ぐ能力のひとつは、膨大な数の中から目的のものをすばやく見つけ出す能力だ。(その意味では私が冒頭に上げた三首の「切ない歌」もこの能力無しには見つけ出して並べることは不可能だった。)
「偶然短歌」を読むと「短歌における定型」と「文章が偶然に定型になっている部分」は本来似て非なるものだという思いがぐずぐずと崩壊してしまいそうになる。さらにつきつめていけば、こうした作品を元にかつてない新たな定型論が生まれ出てくるかもしれない。

両者ともツイッター上で日々歌を生産し続けている。完成度を問わずにおけば、「Phrase+」「星野しずる」「偶然短歌」、いずれも言葉と言葉の思わぬ繋がりや重ね合わせが詩情的なものを生みだし、我々の脳に何らかの詩的な刺激を与えてくれている点では、人間が作るフレーズとの差はさほど感じない。

太古の昔、人の脳に詩情というものが生成された根源を思う。人の祖先は敵だらけの森のなかで、生き残るために必死で闘っていた。敵の攻撃を避けるためには「変化への予測」が必要だ。この予測は「気をつけろ!」の緊張として作用する。逆に「物音はただの風だった」と予測が外れると、緊張は緩和されそこに安堵の喜びが起きる。この安堵感が進化上のどこかで「楽しい」となり、やがて笑いへ、そして詩情へと変容したのではないか。
先の「Phrase+」にしても、普通「黒酢仕立ての」とくれば、次に予測される言葉は「サラダ」や「ドレッシング」等が自然だろう。ところがそこに「歌人」などという全く予測不能な語が繋がれば、ここで「緊張の緩和」が起き「おもしろい」が生まれる。この「おもしろい」が脳の根幹で詩情の生成に作用しているのだと思う。

相手が機械だからとか、思考ではなくただの膨大な組み合わせを作りだしているにすぎないとか、そもそも人間の脳と仕組みが違うとか、とうてい人の脳は越えられないとか、AIに対するそういう表層的な反応はもういい加減聞き飽きた気がする。

私はそんな話よりもこれらを短歌創作の新入りツールとして、おもしろおかしく接してみたい気がする。工夫しだいで電卓や電子辞書、ワードの文章校正機能のように、AIは歌作の新たな補助ツールになるはずだ。もちろん過度に依存してしまうのは問題だが、人が思いもしない言葉の繋がりを強制的に淡々と紡いでくれるこんな特殊な能力を歌作りの味方にしない手はない。

AIがもたらすもの

近い将来、AIは短歌に何をもたらすのだろう。AI研究の専門家たちは、考えを突き詰めていけばいくほどに「脳とは」「人生とは」「芸術とは」等の壮大な疑問に行き着くという。このあたりが見えないことにはAI研究は前へ進めないのだ。

我々はそこまで思い詰めなくても、AIの作った歌のどこがおもしろいか、そしておもしろくないかを考察してゆくなかで見えてくるものがあるだろう。そこから、従来の思考では及ばなかった歌作りの本質や新機軸が発見されるかもしれない。

二物衝撃の他にも、調べや構成、普遍性、文法等、AIには見えていて人がまだ気づいていない何かが必ずある。どういう表現を人は好むか、それはなぜか、どの語順が詩的と感じるのか、その理由は…嫌われる語順とは…等、新たな課題が次々に見つかってゆくだろう。その意味でAIは我々の歌づくりを次の地平へ引き上げてくれる力を秘めている。

また、短歌のビッグデータへの活用も考えられる。例えば、日本中のすべての車の屋根に水に反応するセンサーを付けIoTとしてデータを収集、分析すれば、非常に高い精度の天気図をリアルタイムに把握することができる。これと同スケールの仕組みを短歌で構築できないだろうか。短歌は老若男女を問わず、職業や歌われる世界等が実に幅広い大衆の文芸であるし、何より作品のサイズが小さくかつ大量にあるため、多角的に分析できれば様々な新しい側面が浮き出てくる。

例えば朝日歌壇は毎年八月になると戦争の歌が増えるとよく言われてきた(最近は一時期ほどでもないらしいが)、ビッグデータとして詳しく解析してゆけば、さらに詳細な部分が見えてくるはずだ。長期的な見地から特定の言葉の変遷を探ることもできる。例えば「携帯電話」がいつ頃から「携帯」となり、そして「ケータイ」となったか等はたちどころに分かるだろう。

また、歌に「白」が増えるとボールペンの売上げが落ちる…などの「風が吹けば桶屋が儲かる」的なとんでもない事象同士の複雑な法則性が見えてきたりもするだろう。こうした法則性を人が発見するのは不可能だ。短歌の組織とAI研究者の連携、著作権の問題、経費等の課題はあろうが、実現すればこれまで思いもつかなかった全く新たな短歌の活用の可能性が見えてくる。時代を如実に映し出す大衆文芸として、こうした面から短歌が注目されるかもしれない。

終わりに

斎藤茂吉は生涯に一万八千首近くの歌を創ったといわれるが、人口に膾炙した秀歌は何首あるだろう。歴代の多くの秀歌も、大胆に見方を変えて乱暴に言ってしまえば確率論でもあり、AIは人間の何百万倍も延々と歌作し続けるため、シンギュラリティを待つまでもなく「弱いAI」でもいずれびっくりするような秀歌が作られる(厳密には「見つけ出される」)可能性はある。高い評価を受けるAI作の歌の登場は意外と近い気がする。

その時、歌人はAIの作品を素直に「いい歌」と言うだろうか。私はそれを従来の秀歌同様に読んでみたい。作者が歌人であろうがビギナーであろうがAIであろうが全く気にかけずに鑑賞、評価してみたい。

ただ、分からないのはその歌の背後にあるはずの「我」はいったいどうなるのだろう。将来、強いAIが「我」を歌い出したとき、「我」という概念はどう位置づけられ、変容してゆくのだろうか。

AIの進化で私たちは言葉や詩情、脳というもの本質を新たな視点から考えられるようになってきた。それはまだほんの序章にすぎない。歌人にしか分からないことがあるなら、AIにしかわからないこともまた多くある。両者が互いに向き合うなかで見えて来る詩歌の新たな地平をともに見つめてゆきたい。

2019年度「短歌研究評論賞」候補作を加筆・修正

「たけじゅん」ウェブへ