たけじゅん短歌

― 武富純一の短歌、書評、評論、エッセイ.etc ―

近藤かすみ第一歌集『雲ケ畑まで』 /「遅れてきた私」が「もうひとりの我」を越えるとき

2012-07-24 11:40:22 | 書評

武富純一

歌集を一読した後、作者の生きている場や日々の暮らし等がかなり明確に解るときと、あまりよく見えてこない場合がある。その観点でいけば本歌集は明らかに前者である。

近藤は一九五三年生まれ。あとがきには四十七才で突然、降って湧いたように短歌を作ってみようと思い立った、とある。本歌集はそれから現在までの十年間の三五一首が編年体でまとめられている。

主婦の日常。海外勤務が多く不在がちな夫。亡き父母への思い。上の息子と下の娘を育てあげどちらも巣立って最近、孫ができた。ひとり暮らしの寂しさと不安。水泳に挑戦した・・・頁を繰るごとにそんな事がざっくりとつかめる。

 カレンダーを家族の予定で埋めし日々終りていまは詳しく知らず

 亡き父の勤続三十年祝ふ柱時計が正午を告げる

 ひとびとの群れゐるることの羨ましくて家居に過ごす日曜の午後

若き日の家族の思い出にひたりつつ、静かで平和な「ひとり」の時間を過ごしていることが想像される。一首一首の歌をひたむきに重ね続けている日々のようだ。

しかしながら、心はいつも平穏なのかと読み進んでゆけば、決してそんなことはなく、内面はなかなかに繊細で複雑かつ深刻だ。気になった歌をあげてみよう。

 テーブルに置いた眼鏡がわたくしの代りに夏の手紙読んでる

 白日傘さして私を捨てにゆく とつぴんぱらりと雲ケ畑まで

 対岸を眺むればあの木下闇にもうひとりのわれ入りゆくところ

 ああ、また、ほら、喋つて止まぬ人が居るあれはさう、もうひとりの私

 ポプリンの白きブラウスに手を通すこのひとときはわたくしのもの

お解りだろう、「もうひとりの我」がよく出てくるのだ。手紙を読む、対岸を見る、話を交わす・・・すると、別のところに別の自分を見てしまう。また、二首目などは京都市街の北の山奥へ、軽妙なオノマトペとともに自分を捨てに行こうというのである。

近藤は「本当の私」を探す旅を日常の暮らしのなかで続けているのだと思う。五首目などは、そうした「浮遊感」を補正すべく、自己が自己であることを再確認するための行為なのではないか。こうした不安定な思いの周辺に生まれたのが下記のような歌だ。

 シグナルのランプの中に描かれて帽子の紳士どこへも行けぬ

 風見鶏銅の板より作られてまなこの虚ろは風に添ふのみ

 何事も「わたしのせゐ」と言いし日を袋に詰めて出す月曜日

 薔薇色の挽き肉買ひてわがために捏ねる夕べのひとりの快楽

 小さくて気にするほどのこともない石がわたしの靴のなかにある

 ティーバッグすこしやぶれて紅茶の葉いたしかたなくミルクと混じる

青信号の中のシルエットの紳士、銅板製の風見鶏、そしてゴミ袋にはもちろん近藤自身が重なっている。閉じ込められた自分の位置を、視点を変えて何度も何度も歌に託そうとしている。そして四首目、自分のためだけにハンバーグを作り、自己の舌で自己たる味覚を確かめるのだ。

五首目、靴の中の気にするほどでもない小さな石をずっと「気にし続けている」痛々しい心の様が伝わってくる。六首目にも同様の痛みを「いたしかたなく」に感じる。いずれも写実描写の奥に自己の心をまとわせる配置具合がなかなかに巧みであるが、実際、近藤はかなり危うい精神状態を経てきたのではないかと思う。

しかしながら、ではこうした心の痛みに負けてしまっているのか?といえば、どうもそうではなさそうだ。「解決の試み」を見つけ出す力は、私なんぞがちまちまと心配せずとも彼女なりにしっかり備えているのである。

 泳げない理由(わけ)を探しているうちは泳げなかった私の身体

 相応に歳重ぬるを肯へぬわれは近ごろターン覚えつ

 はじめからこんなわたしぢやなかつたわラテンのリズムで激しく踊る

近藤は水泳を始め、そしてさらに、きっと無縁だったに違いないダンスの世界にも果敢にチャレンジしている。未知の世界へ挑戦することで新たな自分を見つけ出そうと積極的に行動している。トライ、失敗、そして「できた!」の喜び・・・こうして新たに発見、獲得した「自分」の感覚こそが、ひょっとして近藤が求めていた本来の自分かもしれない。

短歌は心の浄化作用を促す力を持っている。どうしようもない不安感や鬱屈感を歌に託して放出することで心が昇華されることがある。その意味で近藤が短歌という世界で自己表現を重ね続けてきたことは非常にラッキーだったと私は強く思う。

こうした、未知の世界へのチャレンジ、あるいは作歌スタイルのさらなる進化によって、やがて近藤は「もうひとりの我」を越えてゆくに違いない。いや、本歌集の上梓によって、もうすでに越えてしまったのかもしれない。

近藤は「気まぐれ徒然かすみ草」というブログを熱心に運営していて、そこで新聞歌壇の歌を挙げて評したり、仲間や知り合いの歌集を紹介したりしている。

このブログのサブタイトルには「遅れてきた私」との表記がある。四十七歳から短歌を始めたという遅い出発を意味するのだろう。だが、それ故にか、短歌への情熱と集中力は尋常ではない。一時期、「短歌研究」投稿欄の上位常連者として毎月載っていたのを私は知っているし、連作の新人賞の上位入選者としてもよく名前が出ていたのも記憶に新しい。このほど所属結社「短歌人」の「短歌人賞」を受賞し、結社誌の運営でもかなりの仕事を任されているようである。

私は、これからの歌壇は近藤のように壮年から短歌を始め、瞬く間に頭角を出してくる歌人が続出するのでは?、という予感めいたものを以前から強く持っている。

ここのところ新人賞は十代、二十代の若者の受賞が目立つが、新人賞は決して若い世代のためだけにあるものではない。五十~六十代、あるいはそれ以上の歳の「新人」が、これからどんどん出てくるのではないか。遠からずこれらが現実になったとき、近藤はそのパイオニア的歌人として位置づけされるに違いない。もっとも近藤はこんな評価をきっと嫌がるに違いないが。


『雲ケ畑まで』
2012年8月11日発行
六花書林(発行 開発社)
2300円(税別)

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足立晶子第四歌集『ひよんの実』/多彩な動植物たちとの静かな対話

2012-07-14 22:42:41 | 書評

武富純一

足立晶子の第四歌集である。あとがきには、二〇〇一年上梓の『雪耳』以後、二〇一〇年はじめまでの三九〇首余りをほぼ編年体にまとめた、とある。この間、母と兄を亡くすという悲しい別れがあったようだ。

さて、「ひょんの実」とは何だろう?。調べてみると、イスノキという木の葉にイスノキコムネアブラムシが寄生すると葉が丸く膨らんで虫こぶになる。成虫がそこから穴を空けて出たあとのものを「ひょんの実」と呼ぶ、とあった。表面が堅く内部が空洞なので、穴を吹くと笛になる。ひょうと鳴ることからこの名がついたようだ。

[参考写真ページ]

http://blog.goo.ne.jp/koizumi-masato/e/b4f17ea25d6c77e475a2d50aa84df36f

 ひよんの実の穴よりもれる音を聞くそろり何かがやつて来さうな

 青空にひよんの実吹いて遠い日の風の中へ中へ行くなり

 ひよんの実の穴は暗いよイスノキはだんだん重くなつてゆくらむ

本歌集には植物、そして虫たちがよく登場するのだが、「ひょんの実」はまさにこれらの複合的な産物なので、私にはこれから述べる足立の短歌世界を象徴するタイトルのような気がした。

一九八九年、足立は第一歌集『白い部分』を上梓している。その序文は前登志夫である。惜しくも二〇〇八年に亡くなられたが、吉野の山中に住み続け、その自然風土との交霊のような歌を紡ぎ続けた歌人である。足立の短歌の原点は前登志夫なのである。だから足立の歌の基盤に「自然」があるのはまさに自然な流れなのである。

第一歌集の序文で前は足立の歌を数首あげ「・・・宇宙と一体化する黙示録的な荘厳きわまる風景である。そうした他界への通路のような場所で、作者は恍惚と放心する。」と評した。この姿勢は歳月を経てさらなる円熟をまとい、今回の『ひよんの実』に確かに貫かれているように思える。

 傾きて西日まつすぐわれを射る冬至冬なか冬はじめとぞ

 芒(すすき)さはさは芒ざはざは山ひとつ波たちうねり夕暮れを呼ぶ

 くさめして鳴きやむ冬のカネタタキおまへとわたし夜の部屋には

射ぬくように差してくる西日に全身で感じる冬至の訪れ、一面の芒原と夕暮れとの雄大な一体感、カネタタキとの静かな対話・・・。大自然の中に居る自己、自己と自然が混然と一体化するなかでの「交感」こそが足立の持つ世界なのだろう。とりわけ三首めのような「虫類」はかなり頻繁に登場する。気になった歌をあげてみよう。

 灯の下の螳螂の腹見える席アイスクリームをゆつくりすくふ

 うす青き腹を見せゐるガラス戸の白蛾と指を合はせてみたり

 隣家より三メートルの糸を張る蜘蛛びよりかな あとはどうする

 潰さうとする時またも向き変へる蟻をおそれるこの一匹を

 おまへさん始終見るから死ねないと鈴虫が言ふ 胡瓜を買ひに

めざとく見つけたカマキリとともに食べるアイスクリーム、ガラス越しの蛾に試みる接触、変なところに糸を張った蜘蛛さんへの問いかけ、こちらの意図を読むようなアリの動きに怯える我、鈴虫の気持ちを受け取る心・・・。

もはやこれらは「観察」ではない。観察はまだ対象との明確な距離感があると思うのだ。虫たちに近づき、対等に、時には自らを矮小化させて彼らの世界に入り込むと、そこは足立と虫たちとの完全なる意思疎通の世界である。

この他にも登場するのは、百足、蜂、精霊バッタ、蝉の幼虫、ワカバグモ、ゴキブリ、蚕、熊蝉、とちょっとした昆虫図鑑のように種類が多い。そして、この交虫(?)関係は、虫たち以外の生き物にも及ぶ。

 三日ゐて白かたつむり居なくなる夢に帰つていつたのだらう

 青田ゆく風も光もわがものとゆつたりうねる蛇体とおもふ

 つくづくと守宮の指を見るための二十三時の透明な窓

 鼻先に雨蛙来るつまんでる少年の目ふんばつている

 仕返しに藁をばらまく愉快犯カラスが見下ろす五度目の掃除

 仕返しはこれで終わりかカラス殿われを忘るな手を替へて来よ

 あわてずにイタチが過る慌てたるわれは抜き足差し足となる

 遺伝子がひとつ足りないチンパンジー人の言葉はやはりあぶない

数日間だけ我が前に現れたかたつむり。二首め、蛇のうねりも足立には決して気味悪い存在ではない。三首めは窓越しの守宮との出会い。四首めは交感とはちょっと違うが、眼前に差し出された蛙に全くひるまず、その少年の踏ん張る目を見ている肝の据わった視点に驚かされる(普通、多くの女性はこういう時、「きゃっ!」と飛び退くのではないのか?)。

五首め、六首めは、なんとカラスと喧嘩までしている。七首め、悠々と過ぎるイタチに逆にこっちが慌ててしまうおかしさが伝わってくる。

足立は生き物たちとこうした会話ができる歌人なのだ。そして、そのやりとりを心から楽しんでいる。八首めの歌を見て下記を思い出した。

 狩りをするチンパンジーを発見し二十世紀はまた老いてゆく

これは小池光の『現代歌まくら』(一九九七年/五柳書院)に収録されている足立の歌である。解説には、

チンパンジーもまた、人間のように計りごとをめぐらせて狩りをする。人間が人間であるアイデンティティは何なのだろう。その「発見」が、二十世紀の終末であることが象徴するもの。前世紀の人々のようには、現代人は確信をもって「人間」の輪郭を描けない。

とある。遺伝子がひとつ・・・の歌はまさにこの続編のように私には思えた。

この他、牛蛙、アシカ、ジュゴン、たぬき、メダカ、亀、ライオン、豹、ゴリラ、オランウータン、バク、ヒグマ、アライグマ、白猫、鶴、雁、鷺、メジロ、燕、ホトトギス、四十雀、鵯、杜鵑、白鷺、川鵜と、虫たちを凌ぐ多彩な生物の歌が並ぶ。

もちろん、植物たちとも同様に自在にコミュニケーションする。

 木犀の香りだつたかすれちがひし少女のひとり笑ひだつたか

 樫、櫟、楢のどんぐりポケットにごろんごろんと私を揺らす

 葉の眠る夜のねむの花見に行かう 行けばよかつた 夕雲の紅(こう)

 さわがない葉騒ぎやすい葉日の暮れを秋楡の木にもたれてをりぬ

 水仙の一輪いちりん開く間を待ちきれなくてまた雪がふる

この他、盗人萩、大根、紅梅、椿、トマト、榛、えご、薔薇、朝顔、イタドリ、桜、春菊、芙蓉、青柿、青栗、藤袴、楠の木、金木犀、梅、唐グミ、キツネアザミ、栗の花、冬苺、山茶花と、こちらもまた多彩である。

さて、そんな動植物たちに混じってここで気になる登場生物(?)がいる。「川上弘美」という「ヒト」だ。

 うそつきの川上弘美をまた読んで晴ときどき雨の土曜日

 コスモスは川上弘美のやうに揺るどうでもいいけど揺れるほかなく

こんな歌が間をあけて二首だけ出てくるのだ。川上弘美は小説家。一九九四年、短編「神様」でパスカル短篇文学新人賞受賞。一九九六年「蛇を踏む」で芥川賞。人気作家である。「東京日記」という軽妙なエッセイシリーズもある。「東京日記」は下記でその一部を読むことができる。

http://webheibon.jp/blog/tokyo/

彼女を知らない人でもここを読めば見当がつくのだが、はきはきした物言いとちょっとズレたおかしみ、そして、出会った「変」をさらりと描いて笑わせる読者サービスが旺盛である。カナブンと遊んでいる話もあるから、この人もけっこう虫と仲良しである。だからたぶん足立の感覚世界と波長が合うのだろう。

私は、一読、「でも、こんな面白いことや変な話が作者の周りにいつも起きるわけないやんか!」と思った。かなり作り込んでいるのではないか?。短歌には「芸術的真実」という虚構受容の考え方があるが、川上はエッセイでこれを強行している節がある。足立が彼女を「うそつきの」と呼んだのはたぶんここらあたりではないだろうか。

ここで視点を転じて、下記のような本歌取りの歌にも感じ入った。

 塔の上の雲見に来しを秋空の青まばゆかりそらみつ大和

これはもちろん、佐佐木信綱の

 行く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

を踏まえたものである。

秋に薬師寺の塔を見るなら、その上にはやはりひとひらの雲がないといけないとの思いでやってきたのに、なんと快晴だったのだ。元歌をふまえた上での知的なユーモアに信綱先生も「いくらなんでもそりゃ無理だよ」と天国で笑っていることだろう。

 初めてのつぶら椎の実うまきかな不二子のやうに誰にもやらず

これは、石川不二子の

 一合の椎の実をひとり食べをへぬわが悦楽に子はあづからず  『鳥池』

を踏まえている。

お二人とも椎の実を一人でそっと食したご様子、さぞや美味だったに違いない。佐佐木信綱、石川不二子、ともに足立の所属する結社「心の花」の大先輩であるから、いずれもオマージュを込めて歌ったのであろう。

「気象」もまた、足立にとって虫と並ぶ大事な興味対象である。

 進まない行列にゐて雲の上に雲その上に雲の浮きをり

 草野驟雨、相野陽光、広野雪、ひと駅づつの天変を見る

 秋は今ここと示せり予報士は列島をあやつる人のごとくに

 今日からは秋の夜長です予報士は楽しげに言ひ連休をはる

 朝より狐日和の日の暮れを予報士は言ふ明日は菊びより

前回の「雪耳」の評でも述べたが、足立は日常じつによく雲を見ている。そしてその関連である気象の変化には敏感だ。天気予報もよく見ているのだろう。気象予報士の言を歌った後半の三首からは「天気と季節は私もよく見てるわよぉ」みたいな自信の気持ちが含まれているように私には思える。

何気ない日常の歌にも印象的な歌がある。

 疑問符がずつと立つてる昼過ぎて霜月の蚊の羽音寄りくる

 家を売れ家を売れとぞチラシ入る昨日は破り今日はしまひぬ

 肩の上(へ)に頭その上に頭乗せ女男(めを)がぎざぎざ眠つてゐるよ

 大木になればいいのか木が笑ふ 楠学問、梅の木学問

 捨てられた物の時間が残りゐる粗大ゴミ収集のあとに

一首め、ずっと腑に落ちない疑問とそこへやってくる蚊の羽音の煩わしい取り合わせがおもしろい。二首目、一夜のうちに考えが大きく変わった。この一晩に何があったのか想像が広がる。三首め、電車の中の風景だろうか、「ぎざぎざ」が効いている。

四首めは「楠学問」も「梅の木学問」もどっちもそう偉くもないのだと木自身に笑わせている。意外にこういう歌に作者の人生観が込められていたりする。五首め、物たちが家の中で過ごした時間が、収集されたあともまだそこに残されているという感覚が鋭い。

先に述べた第一歌集の序文で、前登志夫は足立の歌のことを「意気のよい少女の啖呵のような響き」と形容している。ここから長い歳月を経たいま、この啖呵は甲高い響きから、ゆっくりした落ち着きある低い声へと熟成され、確かな風格として今、本歌集に流れ続けているように思える。

『ひよんの実』
2012年7月2日発行
ながらみ書房
2400円(税別)

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