「たけちゃん、あんた、新聞載ってんで!」。
もう何年も前のある朝、知り合いの社長の電話で目が覚めた。
咄嗟に出てきた言葉は、「えッ?、わたし新聞に出るような悪いこと何もしてませんけど!?」だった。
よく聞けば、私の短歌が読売新聞の編集手帳に載っているというのだ。編集手帳と言えば朝日新聞の天声人語にあたるところではないか。そんなアホな・・・とコンビニへ走って確かめたら、確かに下記の私の歌があった。
たそがれの電車の響きは繰り返す「なに言うてんねん、なに言うてんねん」
JR西日本のあの脱線事故に関しての内容で、私の歌が最後に引用されていた。
当時、私は短歌修行と自称して朝日、毎日、読売の各歌壇への毎週の投稿を欠かさず続けていた。運良く選を受けることもあったが、毎週のボツの連続にかなり凹んだ時期もあった。
この歌ができた時、「こんな変なのが果たして短歌と言えるのだろうか?」という不安にかられ、どこに出そうかと思い悩んだ末、この先生ならひょっとしてご理解いただけるかもと感じた読売歌壇の小池光先生に投稿したのである。
この歌は特選をいただいた。その縁で論説の担当者が編集手帳に使ってくださったのだろう。
さらに話は続く。
その後、何年か経ったある日、私の属する短歌結社「心の花」の友人からメールが届いた。この歌が田中章夫著「日本語雑記帳」(岩波新書)という本に引用されているというのだ。
さっそく取り寄せて読んでみたら確かに載っていて、またビックリさせられた。自分の歌との久々の思いがけない再会に、思わず「アンタ、こんなとこで何やってんねん?」とつぶやいてしまった。
短歌の引用は、歌と作者名がセットで明記されている限り特に制限はされない。そして引用したことをいちいち作者に伝えることはそもそも不可能である。
つまり、歌は公表されたときから作者の手元を離れ、どこでどのように取り上げられようがいちいちは解らない。私なんかはこれだけでもう仰天だったわけだが、著名な先生の歌などは、こうしたことが雑誌や新聞、書籍等で四六時中起こっているのであろう。
諸々の思い重なりまだ一冊の歌集も出せないでいる身で、結社誌やブログ以外の場所で自分の歌を見ていただける機会に恵まれたことに心から感謝したい。
<後記>
この歌は第一歌集『鯨の祖先』(ながらみ書房)に収録いたしました。
まごまご、ぐずぐずそれでも何とか生きていま~す。
たけじゅんさんの短歌。大好きです♪
憧れていながら、私には詠めない世界。
でも読ませて戴ける喜びが有ります。
エッセイも楽しいです。
憧れていま~す。頑張ってくださいね。
短歌のことを知るほどに読むほどに・・・なかなか歌ができなくなってきてます、どうしよう?(^^;。
はじめて武富さんと歌会の席でお会いした日に、このお歌を挙げさせていただいたと記憶しています。
「こんな詠み口の歌もあるのか!(無論、良い意味で)」と感銘を受けたものです。
特に「なに言うてんねん」の繰り返しが響きました。
たそがれ時のペーソスに電車、そこへ持ってきて関西弁(の、空耳)ですから、福知山線の事故が自然と思いだされるんですね。
たそがれ。電車。なに言うてんねん。
これらの道具立てによって、直截に「事故」を詠まなくても読む事ができる。いや、直截に言わないからこそ、そこに深く沁みいるものがあるんでしょう。
滑稽味をもたせた「なに言うてんねん」の科白が、こうまで物悲しくなるなんて、僕は他に知りません。
たとえ「事故」に結びつけなくとも、ひとりの社会人の哀愁歌としても読めるものとして、好きなお歌でした。
うらいほめてもろておーきにです。
大坂弁の歌はテーマのひとつとしてこれからも作って行きたいです。
上手いのは誰が読んでもうまいんや「なに言うてんねん」「なに言うてんねん」