平安時代、京都の貴族に発生した生活、文化、アートのモードを「みやび」というんだね。いまでも最先端のファッションが、クラブやカフェから始まるように、流行には発信地がある。「みやび」というモードの場合も例外じゃないんだ。京都の北の中央、一条通から二条通(現在の丸太町通)にあった大内裏(だいだいり)がその発信地だったんだな。
大内裏には大極殿を中心とする官衙(かんが)、今でいえば官庁、役所が密集し、その一部に天皇一家が住む内裏、すなわち皇居があった。じゃ、そのみやびを生んだ「宮城」(きゅうじょう)の外観から見てみよう。
大内裏は、都の皇帝の住居のまわりに官庁を配し、城壁で囲んだ中国の宮城をモデルにしていたんだ。高い塀に14の門を構えて、南側の中央には、丹色(にいろ)の朱雀門がそびえる。そこから平安京の南端にある羅城門まで、幅85メートルの朱雀大路が一直線に伸びていた。つまり、平安京に羅城門から入ると、広大な道のはるか向こうの突き当たりに大内裏がそびえている。この眺めは全国のどんな有力者も圧倒し、畏敬(いけい)の念をおこさせた。「みやび」の感覚には、こうした圧倒的な威容もふくまれているんだね。
この内裏ではさまざまな行事が行われるけれど、それらは秘密でもあって、まねすると厳しく罰せられたんだ。これは日本の天皇が司祭王(神々を祭る司祭のトップ)という伝統もあって、おそらく倭の五王時代から厳守されてきた。実際にも『古事記』や『日本書記』には天皇の住まい、着物、行事をまねて滅ぼされた豪族の伝承がいくつも記載されている。
けれども、摂関政治がはじまると、藤原北家が天皇の外祖父として君臨し、天皇となる皇子が、代々、その邸宅で育てられるようになってくる。すると天皇家の生活スタイルが藤原氏に伝わって、だんだん平安時代の貴族の生活、文化の基礎となっていったわけだな。その基盤となった貴族の館がセイゴオ先生が教えてくれた寝殿造(しんでんづくり)だったんだ。
最初の寝殿造は、摂関政治を開始した藤原良房の東三条殿(ひがしさんじょうどの)といわれる。このような寝殿造の邸宅は藤原一門が栄えるともにコピーされつづけ、貴族の邸宅として波及した。これが、「みやびな生活」の場所なんだな。でもこの寝殿には、現代人が想像する日本建築とは異なったところがあるんだ。
屋根は萱葺だけれど、主要な柱は白木の丸柱で、ひさしの間以外には角柱は使わっていない。さらに天井は張らずに、床は板張りだ。これ、古くからの神社のつくりとよく似ているんだな。実は天皇が住む内裏は神の社(やしろ)を住居空間として整備したものでもあったんだ。
古くは天皇が神々を祀る空間でもあった「宮」は内裏となって、中国の皇帝が行う行事や仏教行事なども含めたお祭りや行事の空間ともなっていた。その行事が貴族の館でも行われるようになったというわけだな。寝殿造とは、こうしたまつりごとを行う空間でもあった。
政治のことを「まつりごと」とも呼ぶのは知っているかな? 古代の日本では、天地、天候の安定や子孫の成長、繁栄を願う祭が、政治の重要な部分を占めていたんだね。その儀式が「年中行事(ねんじゅうぎょうじ)」として定着していった。
たとえば、宮中の正月1日の行事は、天皇が元旦の寅の刻(午前4時)に天地・四方・山陵(祖先の墓)を礼拝して、災いを祓い、豊作と国家の無事を祈る行事として、9世紀終わりから恒例となったものだ。また、3月3日の儀式「上巳の祓い」 (じょうしのはらい)は 、古来にあった素朴な「ひとがた」に自分の災いを託し、水辺に流すという風習が貴族の間で洗練されたもの。この「ひとがた」がひな人形となったのがひなまつりなんだな。
じゃあ、端午の節句はどうなんだろう。中国の陰陽説では、5月は陽が極まってかえって陰を生ずる月とされ、午(うま)の日はそれが極まる「不祥の日」ということで、蘭の湯に入って薬草の蓬や菖蒲を髪飾りなどにして、身の汚れを避けた。5月5日の行事はそれが発展したものだ。さらに物語のときに話したように、7月7日の七夕は、官女の裁縫の上達を祈る祭でもあったね。それが文字や和歌、音楽などの上達も願う美しい祭になっていく。9月9日もある。これが菊の節句で、菊に真綿を巻いて露をしみ込ませ、それを体につけて長生きを祈る行事になった。
このように奇数の月と日が重なるときを、季節の節目の「節句」としたんだ。そこに春分、秋分のお彼岸(ひがん)、4月1日と9月1日に、御簾や几帳などの調度や着物を変える「更衣」(ころもがえ)、6月30日の半年の穢れ (けがれ) を祓う「夏越の祓え」(なごしのはらえ)、7月15日からは、今はお盆となっている盂蘭盆会(うらぼんえ)などが加わる。8月15日の仲秋の名月だってあった。え、1カ月早いんじゃないかって? その通り。これらの行事は、旧暦の太陰太陽暦で行われたので、今の太陽暦からみると1ヵ月少々早くなっているんだね。
このように四季の変化にそって繰り広げられる平安時代の行事は、天皇から貴族にうつって生活スタイルとなっていったわけだ。中世に入ると今度は武家がこれらの行事を受け継いでいく。さらに近世以降に引き継いだのが庶民なんだ。伝統に生きていなくても、現代日本人の生活文化のベースには、実は平安の「みやび」なうつろい感覚が生きているというわけなんだな。
大内裏には大極殿を中心とする官衙(かんが)、今でいえば官庁、役所が密集し、その一部に天皇一家が住む内裏、すなわち皇居があった。じゃ、そのみやびを生んだ「宮城」(きゅうじょう)の外観から見てみよう。
大内裏は、都の皇帝の住居のまわりに官庁を配し、城壁で囲んだ中国の宮城をモデルにしていたんだ。高い塀に14の門を構えて、南側の中央には、丹色(にいろ)の朱雀門がそびえる。そこから平安京の南端にある羅城門まで、幅85メートルの朱雀大路が一直線に伸びていた。つまり、平安京に羅城門から入ると、広大な道のはるか向こうの突き当たりに大内裏がそびえている。この眺めは全国のどんな有力者も圧倒し、畏敬(いけい)の念をおこさせた。「みやび」の感覚には、こうした圧倒的な威容もふくまれているんだね。
この内裏ではさまざまな行事が行われるけれど、それらは秘密でもあって、まねすると厳しく罰せられたんだ。これは日本の天皇が司祭王(神々を祭る司祭のトップ)という伝統もあって、おそらく倭の五王時代から厳守されてきた。実際にも『古事記』や『日本書記』には天皇の住まい、着物、行事をまねて滅ぼされた豪族の伝承がいくつも記載されている。
けれども、摂関政治がはじまると、藤原北家が天皇の外祖父として君臨し、天皇となる皇子が、代々、その邸宅で育てられるようになってくる。すると天皇家の生活スタイルが藤原氏に伝わって、だんだん平安時代の貴族の生活、文化の基礎となっていったわけだな。その基盤となった貴族の館がセイゴオ先生が教えてくれた寝殿造(しんでんづくり)だったんだ。
最初の寝殿造は、摂関政治を開始した藤原良房の東三条殿(ひがしさんじょうどの)といわれる。このような寝殿造の邸宅は藤原一門が栄えるともにコピーされつづけ、貴族の邸宅として波及した。これが、「みやびな生活」の場所なんだな。でもこの寝殿には、現代人が想像する日本建築とは異なったところがあるんだ。
屋根は萱葺だけれど、主要な柱は白木の丸柱で、ひさしの間以外には角柱は使わっていない。さらに天井は張らずに、床は板張りだ。これ、古くからの神社のつくりとよく似ているんだな。実は天皇が住む内裏は神の社(やしろ)を住居空間として整備したものでもあったんだ。
古くは天皇が神々を祀る空間でもあった「宮」は内裏となって、中国の皇帝が行う行事や仏教行事なども含めたお祭りや行事の空間ともなっていた。その行事が貴族の館でも行われるようになったというわけだな。寝殿造とは、こうしたまつりごとを行う空間でもあった。
政治のことを「まつりごと」とも呼ぶのは知っているかな? 古代の日本では、天地、天候の安定や子孫の成長、繁栄を願う祭が、政治の重要な部分を占めていたんだね。その儀式が「年中行事(ねんじゅうぎょうじ)」として定着していった。
たとえば、宮中の正月1日の行事は、天皇が元旦の寅の刻(午前4時)に天地・四方・山陵(祖先の墓)を礼拝して、災いを祓い、豊作と国家の無事を祈る行事として、9世紀終わりから恒例となったものだ。また、3月3日の儀式「上巳の祓い」 (じょうしのはらい)は 、古来にあった素朴な「ひとがた」に自分の災いを託し、水辺に流すという風習が貴族の間で洗練されたもの。この「ひとがた」がひな人形となったのがひなまつりなんだな。
じゃあ、端午の節句はどうなんだろう。中国の陰陽説では、5月は陽が極まってかえって陰を生ずる月とされ、午(うま)の日はそれが極まる「不祥の日」ということで、蘭の湯に入って薬草の蓬や菖蒲を髪飾りなどにして、身の汚れを避けた。5月5日の行事はそれが発展したものだ。さらに物語のときに話したように、7月7日の七夕は、官女の裁縫の上達を祈る祭でもあったね。それが文字や和歌、音楽などの上達も願う美しい祭になっていく。9月9日もある。これが菊の節句で、菊に真綿を巻いて露をしみ込ませ、それを体につけて長生きを祈る行事になった。
このように奇数の月と日が重なるときを、季節の節目の「節句」としたんだ。そこに春分、秋分のお彼岸(ひがん)、4月1日と9月1日に、御簾や几帳などの調度や着物を変える「更衣」(ころもがえ)、6月30日の半年の穢れ (けがれ) を祓う「夏越の祓え」(なごしのはらえ)、7月15日からは、今はお盆となっている盂蘭盆会(うらぼんえ)などが加わる。8月15日の仲秋の名月だってあった。え、1カ月早いんじゃないかって? その通り。これらの行事は、旧暦の太陰太陽暦で行われたので、今の太陽暦からみると1ヵ月少々早くなっているんだね。
このように四季の変化にそって繰り広げられる平安時代の行事は、天皇から貴族にうつって生活スタイルとなっていったわけだ。中世に入ると今度は武家がこれらの行事を受け継いでいく。さらに近世以降に引き継いだのが庶民なんだ。伝統に生きていなくても、現代日本人の生活文化のベースには、実は平安の「みやび」なうつろい感覚が生きているというわけなんだな。