老人の寝言

頭の体操

2010-10-22 10:21:09 | 日記・エッセイ・コラム

我ら二人何と薄い縁であったろう と古い本にありました 何か身につまされ暫く考えてしまいました この世に生を受けてより80年余色々ありました 最初に思い出すのは餓鬼の頃です 小学校入学直後大病に罹り 九死に一生を得ましたこと 今でも思い出されます 高学年になるに従い丈夫になったが ひ弱な子だったようです 知能指数も兄に比べると数段落ちていたようです そんな事があり中学進学を諦めておったが 幸い海軍の養成所があり そこへ入学した 偶々戦時下であり そこが海軍の飛行機の研究:開発の牙城であった為 昼夜に渡り新鋭機の爆音の中に居た 長男でない気安さもあり親に無断で予科練に志願し 兵隊さんになった 戦死などと言う事は頭には全然無かった 死ぬ事を怖いと思わなかった またそういう意識が私本人には浮かんだことがなかった 超越していた訳ではないが 死と言うものを考えた事はなかったのだ 只管日本の為というほど高邁な気構えをもっていた訳ではない 毎日の飛行機の轟音と時局の洗脳を受けた結果だろう 俺が行かなきゃ などと粋がっていたかもしれない 昭和18年に入隊20年には日本は負けた 練習生のまま終戦となってしまった 何の為に行ったのか 敗戦後暫く虚脱状態にいたようだ 周囲の者は随分気を使ったようだ ようだというのは かなり後になって気が付いたことで 周囲は腫れ物に触る如くしていたようだ 兄の入隊も決まって日本刀が一振りあった これを持ち出しては 裏の竹薮でばっさ ばっさと切っては溜飲を下げていた これを見た親たちは恐れおののいていたのだ この予科練帰りの若者が何時抜き身の日本刀で暴れ出さないとも限らない 親を泣かせたものかもしれない 本人は何も考え 思ったりもしなかったが 周りは毎日脅威の日を暮していたのだ 傍を通るだけでも 血が吹き出るような 印象を与えていたのか 当時与太錬と呼ばれ 町のお兄さん方も一目も二目も置いていたと後で聞きました やくざのお兄さんも遠慮したぐらい見こう見ずだったようです そうだろう弾が雨霰とくる中へ飛び込んでいく訓練を毎日遣っておったのだから ドスぐらいではなんとも思わなかったのでしょう げに洗脳とは怖いものである 年経るに従いこの性格も角が取れてきたが 今以て心の片隅に余韻が残っている 良い方向へ行けばよろしいが逆方向へ向くと大失敗をする そんな訳で親から早く所帯をもたされた 早く身を固めれば少しは静かになるだろうとの親心だ 親父は一人っ子だったが兄弟ようなお付き合いがあった所から 私の嫁を探しだしてきた これも縁である 当時は親が決めたものは反対できず また私も世間知らずでした 何も知らない二人の旅立ちでした。


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