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平らな深み、緩やかな時間

432.『四角形の歴史』赤瀬川原平について

すこし込み入った話から始めます。

先日、NHKのEテレで『おとなの学びシリーズ NHK心おどるあの人の本棚』という番組を見ました。すでにテキストも販売されているようで、8人の講師が自分の所蔵する本について語るようです。面白そうだな、と思った方は次のホームページをご覧ください。

 

『おとなの学びシリーズ NHK心おどるあの人の本棚』

Eテレ(本) 火曜 午後9:30~10:00

Eテレ(再) 翌週火 午後0:15~0:45

https://www.nhk.jp/p/kokoroodoru/ts/JZXK2GLKG5/episode/te/7J3VYJ3G6K/

 

その一回目の講師は久住 昌之(くすみ まさゆき 1958 - ) さんというマンガ家でミュージシャンの方でした。

ホームページのプロフィールによれば、久住さんは美學校・絵文字工房で、赤瀬川原平さんに師事し、その後、マンガ家としていくつかの賞を受賞されているようです。また谷口ジローさんと組んで描いたマンガ「孤独のグルメ」は、2012年にTVドラマ化され、劇中全ての音楽の制作演奏、脚本監修、最後にレポーターとして出演もしているということです。

https://sionss.co.jp/qusumi/profile/

 

ちなみに、私もテレビ番組の『孤独のグルメ』が意外と好きです。あえて番組表から探して視聴する、というほどではないのですが、年末(年始?)にシリーズの過去の放送分をまとめて放送していましたが、つけっ放しで聞き流していても苦にならない番組だと思いました。

 

話が横道にそれたので、戻します。

そして今回の番組『おとなの学びシリーズ NHK心おどるあの人の本棚』のなかで、久住さんは赤瀬川原平(あかせがわ げんぺい、1937 - 2014)さんの本について語っています。美學校の頃の思い出からはじまって、「千円札裁判」のことや、あのなつかしい『超芸術トマソン』についてなど語っていましたが、学生時代に私も夢中になって赤瀬川さんの本を読んだことを思い出しました。

先日、たまたま私の職場で哲学を勉強した若い方とこの番組の話をしたら、その方は赤瀬川さんのことを知らなかったので、とりあえず、「千円札裁判」と『超芸術トマソン』についてのサイトのリンクを貼っておきます。正統派の美術史からは漏れてしまう出来事、著作かもしれませんが、美術に興味がある方ならはずせない知識だと思いますので、若い方はぜひ参照してください。

 

「千円札裁判」(美術手帖)

https://bijutsutecho.com/artwiki/126

 

ちくま文庫『超芸術トマソン』赤瀬川原平著

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480021892/

 

赤瀬川さんの美術家、文学者、思想家としての活動について語りだすと、このblogの何回分かを費やしてしまいそうです。それでも私には十分に赤瀬川さんの魅力を語ることなどできません。

そこで、すこし書店のサイトを調べてみました。若い赤瀬川さんが、高松次郎(たかまつ じろう、1936 - 1998)さん、中西 夏之(なかにし なつゆき、1935 - 2016)さんとともに活動したハイレッド・センター(高、赤、中の文字をとったグループ名)のことを書いた『東京ミキサー計画』という本があるのですが、この本が今でも入手できるのかどうか、気になったのです。案の定、この本は文庫で再版されたものの、いまでは絶版のようですね。いつも書いている事ですが、こういう歴史的に重要な著作は、いつでも入手できるようにしておかなくてはいけません。彼らの活動をご存知ない方は、ぜひ図書館で借りて読んでみてください。

この三人の美術家は、それぞれが高名な芸術家となり、晩年の作品や活動を見ると一緒にグループとして活動した時期があったなんて、ちょっと信じられません。まだ若くて、各自の方向性が見いだせていない時期だからこそ出来たことなのでしょう。でも、彼らの根っこのところには、ラディカルな問題意識を大切にする気持ちと、美術に対する愛情があったのだと思います。

それから、文学者としての赤瀬川さんについても、少し紹介しておきましょう。

赤瀬川さんは尾辻克彦という名前で小説を書いています。1979年に『肌ざわり』という小説で中央公論新人賞を受賞し、1981年に『父が消えた』で第84回芥川賞も受賞しました。どちらも、自分の意識の移り変わりをユーモラスに描いたものです。赤瀬川さんならではの着眼点があって、とても面白いです。

さらに赤瀬川さんは意外なベストセラーの本を書いています。

1996年の『新解さんの謎』は三省堂「新明解国語辞典」を意外な視点から読み解いた探検記です。一方、1998年の『老人力』は「老人力」という言葉が流行語大賞にノミネートされるほどの話題になった本です。いずれもふつうはやりすごしてしまいそうな些細なことや、加齢というネガティブなイメージを独自の視点から見直したものです。

これらを読むと、分野は違っても赤瀬川さんという人はつねにトリックスターのように自由に行動する人だなあ、ということがわかります。

 

また話がそれました。

先ほどの番組の話に戻ります。

そして赤瀬川さんは、2006年に『四角形の歴史』という絵本を残していて、これが良かった、と久住さんが紹介していました。この本のことを私は知らなかったのですが、2022年に文庫化もされていて、今では電子書籍で読むことができます。今回は、この本を話題にしたいのですが、その前に書店の紹介を読んでみましょう。

 

『四角形の歴史』赤瀬川原平著

犬は風景を見るのだろうか?四角い画面。四角いファインダー。その四角形はどこからやってきたのだろう……。前衛美術家・漫画家・芥川賞作家である赤瀬川原平が、晩年に遺した「こどもの哲学 大人の絵本」第2弾。文明論的な考察にまで思索をめぐらせ、読者を「眼の冒険」にご招待します! 解説 ヨシタケシンスケ 

https://chikumashobo.co.jp/product/9784480437952/

 

ということですが、この本は赤瀬川さんの文章も絵も秀逸で、合わせて読まないと魅力がわからないのですが、とりあえず書き出しの文章のみを引用してみます。

 

いつものように、風景を撮ろうと、カメラのファインダーをのぞきながら、ふと考えた。

犬も風景を見るのだろうか。

うーん・・・。犬は風景を見ないと思う。

犬は風景というものに気がつかないんじゃないか。

犬は物を見る。

物の向こうには風景が見えるはずだが、犬はたぶん、その風景を見ていない。物だけを見ている。美味しそうだな、と思って見ている。

(『四角形の歴史』「Ⅰ 風景を見る」赤瀬川原平著)

 

これだけの文章で8ページです。

風景をカメラのファインダー枠から覗いたような絵が見開きで2ページ、同じ風景をぼーっと(?)見ている犬の後ろ姿を描き加えた絵で2ページ、犬が椅子の上に置いてあるハムの切り口を見ている絵で2ページ、その犬の視点から見たはっきりとしたハムとぼーっとかすんだ風景の絵で2ページ、という具合です。

これらの絵は、たどたどしい鉛筆の筆致で描かれているのですが、ヘタウマ風でありながら実に上手いのです。必要以上に上手くもないし、描きすぎてもいません。ユーモアも交えていて、その表現はまったく的確です。この絵本について、絵本作家のヨシタケシンスケさんは「解説にかえて ヨシタケシンスケさんインタビュー」で次のように語っています。

 

本書『四角形の歴史』は、文章と絵のリズムがすごく独特です。肩肘張らずに、普通に対談しているような感じで物語が進んでいく。だから読み心地がとてもいい。絵本を描く立場から考えると、こういうのって逆に難しいんです。

僕は絵本作家になって10年になります。10年続けて、いま自分も絵本を描く立場になったからこそ、この本のすごさがあたらめてわかる気がします。深遠ですごいことを言うぞと構えずに、軽い感じですごいことを言う—。この立ち位置が、さすが赤瀬川さんだなとおもいましたね。

(『四角形の歴史』「解説にかえて」ヨシタケシンスケ)

 

ちなみに、ヨシタケシンスケさんは、いま展覧会を開催していますね。

https://yoshitake-ten.exhibit.jp/#

ヨシタケシンスケさんの本は、認知科学(cognitive science)の視点からも興味深いのですが、そんなことを書いていると終わらないので、いずれ別の機会があれば考察しましょう。

 

さて、ここでは『四角形の歴史』の書き出し部分を紹介しましたが、赤瀬川さんの絵の真骨頂が見られるのは、この「Ⅰ 風景を見る」の最後のページのクロード・モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さん作『印象・日の出』(Impression, soleil levant、1872)を模写したページや、「Ⅱ 絵の歴史」、「Ⅲ もっと昔の絵の歴史」あたりのページです。そこには名画の模写や図が描かれているのですが、ああ、この人は本当に絵が好きなのだなあ、ということがわかるのです。そして名画の簡略化も楽しめます。

 

しかし、今回はそんな絵本としての楽しみや味わいを批評するのではなく、先ほどの引用部分の後の文章に注目してみましょう。

 

風景は犬の目に入ってはいても、犬の意識には届いていない。つまり犬の頭は風景を見ていない。物件以外ボヤボヤだろう。

その点は人間も似ている。いまの人間は風景を見ているが、昔は見ていなかった。人間も昔は物しか見ていなかった。それはたとえば、人間の絵の歴史をみると、よくわかる。

(『四角形の歴史』「Ⅰ 風景を見る」赤瀬川原平著)

 

このように書いた後で、赤瀬川さんは人間が風景画を描きはじめたのは印象派の頃からだと指摘し、その頃から人間は風景を意識したのだと考察しています。さらに赤瀬川さんは、その風景画のフレームがなぜ四角形なのか、という謎を提起しています。

赤瀬川さんは、こんなふうに自由な発想で人間にとっての「風景」という意識の起源や「四角形」の歴史について思いを馳せていくのですが、それは芸術家の問題提起としては面白いのですが、研究者のそれではありません。

例えば、風景画の起源について、このblogでは以前に『青のパティニール 最初の風景画家』石川美子著という研究書について紹介したことがあります。石川さんのような地道な研究を、自由な発想の赤瀬川さんに求めるべくもありません。

 

80.『青のパティニール 最初の風景画家』石川美子

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/9ba02c2b3a92086b319185c38432de9b

 

赤瀬川さんは、美術史上でいつ風景画が描かれるようになったのか、そのことを厳密に知りたいわけではないようです。それに、最初の風景画がいつ描かれたのか、ということよりも風景画がいつから人々の意識に馴染むようになったのか、ということの方が彼にとっては重要なのかもしれません。そう考えると、印象派のころからだろう、という指摘は妥当なものでしょう。

 

また、赤瀬川さんは「四角形」という図形の起源を追究したいのか、それとも絵画の四角いフレームについて考察したいのか、それもあいまいです。四角形の図形の起源を求めるとなると、おそらく数学的な考察が必要となるでしょうが、赤瀬川さんはそういうアプローチはしていません。

赤瀬川さんは、四角形に対して、円ならば太陽や月、水の波紋など自然界に形の原型があるが、四角形にはそれがない、と大雑把に書いています。だから「四角形は人間の頭の中で生まれたらしい」と続けて書いているのですが、このあたりは居酒屋の老人談義のような感じがします。まあ、それはそれで面白いと言えばそうですが・・・。

 

深く考えると、このようないろいろな問題点がある赤瀬川さんの考察ですが、ひとつ興味深いと思ったのは、赤瀬川さんが「風景」という意識が犬にはない、人間にも昔はなかった、と指摘している点です。

そもそも「風景」という認識は近代的なものであり、さきほども書いたように印象派のころから社会的に定着した、という指摘はとても興味深いものです。

そこで思い出したのが、哲学者の柄谷行人(1941 - )さんの『日本近代文学の起源』という本です。これは明治文学における「近代」「文学」「作家」「自己」「表現」という近代文学の装置を再吟味した論考ですが、私はこのblogでその中の「風景の発見」というトピックに絞って考察したことがあります。

そこで私は、このように書き始めました。

 

96.柄谷行人『日本近代文学の起源』「風景の発見」について

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/db51743922c754965defb33dd92b0305

 

柄谷は現在では、広く思想的な、政治的な発信をしていますが、1980年代には、最新の思想を独自の視点から解釈し、語ることのできる文芸評論家として影響力を持っていました。私は文芸評論などほとんど読んだことがなかったのですが、この『日本近代文学の起源』は簡単な内容ではないのに、不思議とスーッと読めました。というのは、はじめの章が「風景の発見」という、風景に関する文章だったからです。私には柄谷の難解な思想全般について語ることは到底できませんが、この『日本近代文学の起源』の中の「風景の発見」については、ぜひとも自分なりの受け止め方を書いてみたいと思っていました。今回は、そんな試みを綴ったものです。

 

さて、それでは柄谷はこの本の中で、風景についてどのようなことを言ったのでしょうか。冒頭に書いた、「目から鱗が落ちる」思いがした文章を、まず引用しておきましょう。

 

私の考えでは、「風景」が日本で見出されたのは明治20年代である。むろん見出されるまでもなく、風景はあったというべきかもしれない。しかし、風景としての風景はそれ以前には存在しなかったのであり、そう考えるときにのみ、「風景の発見」がいかに重層的な意味をはらむかをみることができるのである。

(『日本近代文学の起源』「風景の発見」柄谷行人著)

 

「風景」が「日本で見出されたのは明治20年代である」ということと、「風景としての風景」は日本では「それ以前には存在しなかった」という指摘を読んで、私はショックを受けました。もちろん、「見出されるまでもなく、風景はあったというべき」だと、誰もが考えるでしょう。明治20年代より以前にだって、日本の人たちの周囲には風景があったし、それを当たり前のように見ていたはずです。しかし、同じ視覚に映る風景であっても、「風景」という認識があるのとないのとでは、世界が違って見えていた、という話なのです。

(96.柄谷行人『日本近代文学の起源』「風景の発見」について blogより)

 

これを読むと、赤瀬川さんが「風景は犬の目に入ってはいても、犬の意識には届いていない。つまり犬の頭は風景を見ていない。物件以外ボヤボヤだろう。その点は人間も似ている。いまの人間は風景を見ているが、昔は見ていなかった。」と書いていたこととつながります。「昔はみていなかった」と言いますが、日本では明治時代までは「風景」という認識がなかったのです。

さらに興味のある方は、私のblogか、もしくは『日本近代文学の起源』をお読みください。面白いですよ。

 

さて、このように赤瀬川さんの考察はきわめて直観的で、学術的に見れば破天荒なのですが、この本の白眉は赤瀬川さんの思考が四角形のフレームと風景の謎を合わせて、赤瀬川さん独自の考察へと進んでいくところです。それはとてもユニークなものなので、その思考過程を引用してみましょう。

 

人間は四角い画面を持つことで、はじめて余白を知ったのだ。その余白というものから、はじめて風景をのぞいたらしい。

四角い画面にあらわれた余白は、いわば人間の目の余白である。風景はその目の余白に隠れていたのだ。

人間は自分の目の余白に気がついて、そこからはじめて風景が見えてきたと、そういうふうに考えられる。

そうなると、問題は画面である。四角いフレーム。それがあって、風景は見えてくる。四角いフレームがないと、目は犬のままだ。

(『四角形の歴史』「Ⅲ もっと昔の絵の歴史」赤瀬川原平著)

 

赤瀬川さんの理屈はシンプルです。

昔の人間は「もの」だけを注視していました。「もの」以外の視野は、意識に上らなかったのです。なぜなら、人間の視野は広く、「もの」以外のものを認識することなどできなかったからです。あるいは、視野の中のものがすべて「もの」として見えていた、という言い方もできます。ところが、「画面」という四角いフレームが意識されたことで、視野が限定されます。そうすると、その四角いフレームの中で「もの」と「もの」以外のもの=余白が意識されるようになったのです。そのとき余白として隠されていた風景が、「風景」として見えてきた、というのが赤瀬川さんの理屈なのです。

この理屈は、赤瀬川さんがカメラマニアであったことと関連していると思います。赤瀬川さんには『老人とカメラ——散歩の愉しみ』という著書もあるのです。赤瀬川さんが、風景と言えば四角いフレームという意識を持つのは、カメラのファインダーから見た視野が影響していると思います。そんな私的な事情が考察の論理に入り込んでくるなんて!と思う人もいるかもしれませんが、私たちは一般的な理論書を読んでいるのではなくて、赤瀬川さんの本を読んでいるのですから、それもよいと私は思います。

それに私は、この「四角い画面を持つことで、はじめて余白を知った」という赤瀬川さんのユニークな思考に興味を持ちます。一般的な哲学者なら、「もの」に対して「余白」を対置しないでしょう。これはいかにも画家的な思考だと思います。赤瀬川さんがこのことに言及した別のところを読んでみましょう。

 

人間がいつも使っている直線は、拡大する生活の整理整頓から生まれた。その直線の重なりが四角形となって、人間は合理の理を知った。

やがてその四角形が絵の画面として登場したときに、人間ははじめて余白を知って、風景を見たのだ。

余白は無意味である。合理から生まれた四角形が、世の中から無意味を取り出したのは不思議なことだ。いま、意味がいっぱいの世の中に暮らしながら、真新しいキャンバスの、無意味を眺めるのは気持ちいい。

(『四角形の歴史』「Ⅴ 四角形と犬」赤瀬川原平著)

 

ここで赤瀬川さんは「直線は、拡大する生活の整理整頓から生まれた」と書いていますが、これは近代社会の発展を意味しています。近代的な箱型のビルディングや四角くて真っ白な壁のオフィスを思い浮かべれば、合点がいくでしょう。赤瀬川さんも、この前の章では近代的な室内や建物の絵を描いています。でも、ここで赤瀬川さんはそんな風に書かずに「整理整頓から生まれた」と書いているところに、独自のユーモアがあります。

それはともかく、赤瀬川さんがさらにユニークなのは「余白は無意味である。合理から生まれた四角形が、世の中から無意味を取り出したのは不思議なことだ。」と書いているところです。「合理=四角形」から「余白=無意味」が生まれてきた、というのは画家のなかでもとりわけユニークであった赤瀬川さんでないと出てこない理屈でしょう。それが「意味がいっぱいの世の中に暮らしながら、真新しいキャンバスの、無意味を眺めるのは気持ちいい」という、現代生活への批判らしきものにまで及んでしまうところが楽しいです。真っ白なキャンバスに向かう時の気持ちよさは、意味だらけの現代だからこそ価値があるのだ、というふうに読めば、納得のいく話です。

 

そして、この本の結論がまた楽しいのです。

犬はハムやソーセージがなくなれば(食べてしまえば?)、見えるものがすべて無意味なものになってしまいます。その無意味の中で、犬は充足して生きているのです。人間も年をとれば四角いフレームがあいまいになり、やがてフレームが消えて風景の中に入ってしまう存在になります。

赤瀬川さんが書いているのはここまでですが、つまりこういうことではないでしょうか。

人間は年をとれば老人になり、老人は昔の人間、あるいは犬のように意味ばかりの世界から解放されて、充足して人生を終えるのではないか・・・、というふうに私には読めます。最後の2枚(4ページ)の絵は、そんな結論を暗示しています。晩年の赤瀬川さんの哲学が、ここにも生きているのだと思います。これはぜひ、絵本を手に取って挿絵といっしょに見てください。

 

さて、私ももう老人の領域に入っていますが、なかなか赤瀬川さんのように達観できません。それどころか、赤瀬川さんが暗示したフレームのない風景とは、フレームと余白の問題でがんじがらめになったモダニズムの絵画を越えるヒントになるではないか、と理屈っぽいことを考えてしまいます。

フレームが消えて風景の中に入ってしまった老人が、それでも絵を描いたらどんな絵を描くのでしょうか?

いずれ私が実践してみます。楽しみにしていてください。

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