はじめに、前回に引き続きお知らせです。
私は8月25日から始まる「小田原ビエンナーレ」に参加する予定です。
広報紙ができました。次のリンクからご覧ください。
私は8月25日(月)から31日(日)まで小田原三の丸ホール展示室にて作品を展示します。
※詳しくは「広報3」を参照してください。
それから、9月7日(日曜日)PM2:00~3:30に小田原駅東口図書館展示場で講演をします。
※詳しくは「広報2」を参照してください。
上記の広報紙とは別に、パンフレットの小冊子があります。
その中の私のページは次のリンクからご覧ください。
また、私はそのパンフレットの小冊子にテキストを書きました。
「すべてのはじまりは、私たちの中にある」というテキストです。
次のリンクからご覧ください。
なお、このテキストの全文を前回のblogに掲載しました。
読みやすいほうで読んでいただけると幸いです。
さて、今回はアーティゾン美術館で開催している『彼女たちのアボリジニナル・アート』展について書いてみたいと思います。展覧会の概要は次のとおりです。
公式サイトのリンクを貼っておきます。
『彼女たちのアボリジナル・アート』
(ECHOES UNVEILED Art by First Nations Women from Australia)
https://www.artizon.museum/exhibition_sp/echoes_unveiled/overview/
展覧会の見どころについて、上記の公式サイトには次のように書いてあります。
引用しますのでお読みください。
地域独自の文脈で生まれた作品への再考が進む近年の国際的な現代美術の動向とも呼応し、オーストラリア先住民によるアボリジナル・アートは改めて注目を集めています。
2024年に開催された第60回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展で、アボリジナル作家の個展を展示したオーストラリア館が国別参加部門の金獅子賞を受賞したことからも、その世界的な評価と関心の高さがうかがえます。
またオーストラリア現代美術では、多数の女性作家が高い評価を得ており、その多くがアボリジナルを出自の背景としています。 当館では2006年に「プリズム:オーストラリア現代美術展」を開催し、以降継続的に作品を収集しています。
本展は複数のアボリジナル女性作家に焦点をあてる日本で初めての機会となります。
所蔵作家4名を含む7名と1組による計52点の出品作品をとおして、アボリジナル・アートに脈々と流れる伝統文化の息づかいを感じ取っていただくと同時に、イギリスによる植民地時代を経て、どのように脱植民地化を実践しているのか、そしてそれがいかにして創造性と交差し、複層的で多面的な現代のアボリジナル・アートを形作っているのか考察します。
(展覧会公式サイトより)
https://www.artizon.museum/exhibition_sp/echoes_unveiled/highlight/
ここまで読んできて、「アボリジニ」という言葉に馴染みのある方には、「アボリジナル」という言葉が目新しく思えるかもしれません。これらの言葉には、次のような使い方の注意があるので、ご存知ない方は認識しておきましょう。
Aborigines,Aboriginals
アボリジニーズ、アボリジナル、アボリジニ
オーストラリアの先住民の総称。1970年代からトレス海峡の島民が独自のアイデンティティを主張するようになってからは、トレス海峡島民を除くオーストラリアの先住民を指す。日本語ではアボリジニと表記されることが多いが、この訳語には問題がある。というのは、この訳語のもとになった単数形のAborigineという語は、差別的であるという理由から、オーストラリアでは公的な場で用いられなくなっているからである。現在、先住民を総称して表現する場合は、Aboriginal PeopleやAboriginesが用いられ、個々の先住民はAboriginalを利用して、Aboriginal manやAboriginal womanと表記するのが普通である。おそらく、日本の訳語としては、「アボリジナル」や「アボリジナルの人々」を用いるのが、現在のところ無難なように思われる。
(大阪大学大学院 文学研究科 藤川研究室 Copyright © FUJIKAWA2011)
https://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00003_AboriginesAboriginals.html
この大阪大学大学院の研究室の説明や、先の公式サイトの説明にもある通り、オーストラリアの先住民の人たちは、イギリス人によって土地を奪われ、差別的な扱いを受けてきた歴史があります。「アボリジニー」という言葉には、その差別の名残があり、いまではそれを避けて「アボリジナルな人々」という言い方をするのだそうです。
今回の展覧会では、それに加えて女性という立場によって、虐げられてきた作家たちに焦点をあてています。つまり二重の意味で差別を受けてきた人たちの作品が集められているのです。
そのような社会的な問題に対して無言で表現する作家もいれば、そのことをテーマとして表現する作家もいます。世代的にもばらつきがあって、さまざまな作家を見ることができる良い企画だと思います。
例えば、アボリジナルの歴史をテーマにして制作している作家に、ジュディ・ワトソン(Judy Watson)さんという人がいます。公式サイトでは、次のように説明しています。
ジュディ・ワトソン(1959‒ )
1997年、エミリー・カーマ・イングワリィとともに先住民作家として初めて、ヴェネチア・ビエンナーレのオーストラリア館代表に選ばれる。制作手法は、絵画、プリント、ドローイング、彫刻、マルチメディアなど幅広い。イギリス植民地時代の公式文書やアーカイブを活用して作品を制作するワトソンは、オーストラリア社会の歴史と文化をアボリジナルの視線から多角的に探っている。
(展覧会公式サイトより)
https://www.artizon.museum/exhibition_sp/echoes_unveiled/artist/
展示されていたワトソンさんの作品は、アボリジナルの選挙権の有無を印刷した文書をベースとして、その上に血を想起させる赤褐色のシミのような形象を刷り込んだ『アボリジナルの血の優位性』という版画のシリーズです。
彼女の作品を見たときに、私は私の友人の知花均さんの作品を思い出しました。彼は沖縄の歴史に思いを馳せ、戦時中の沖縄に関する文書や地図の上に沖縄特有の植物の形象を重ね刷りした版画作品などを制作しています。
https://okimu.jp/sp/art_museum/artists/1513599024/
彼らの作品からは、その詳細な内容を読み取ることが出来なくても、そこから発するエモーショナルな力を感受することが出来ます。オーストラリアや沖縄の歴史についての知識がなくても、あれ、これは何?と立ち止まって見てしまう魅力を感じるのです。
それから、アボリジナルの歴史をテーマにした作品で印象的だったのは、イワニ・スケース(Yhonnie Scarce)さんのガラスの作品です。展覧会のポスターにもなっていますね。彼女について、公式サイトでは次のように説明しています。
イワニ・スケース(1973‒)
南オーストラリア大学視覚美術学科でガラス制作を専攻。吹きガラスを用いたインスタレーションを得意とし、祖先が経験した植民地時代の出来事や、冷戦期の核実験の場として利用された故郷の大地の姿、そして現在も鉱山採掘によって削られていく大地の姿を伝えている。繊細なフォルムとシンプルな造形、そして彼女の出身コミュニティの歴史とオーストラリアの社会問題や環境問題を核としたテーマ性の高さから、国内外で高い評価を確立している。
(展覧会公式サイトより)
https://www.artizon.museum/exhibition_sp/echoes_unveiled/artist/
写真で見ることのできる作品は『えぐられた大地』という作品で、アボリジナルの伝統的な食料のブッシュバナナの形を模したガラス作品です。ところどころえぐられているのは、スケースさんの出身地でのウラン採掘による住民の健康被害や、採掘のために削られた大地を象徴しているのだそうです。
ガラスには微量のウラン酸化物(着色剤)が含まれていて、それが紫外線に当たると緑色に発光するのです。展覧会場では、照明を時間によって変えることで、幻想的な展示となっています。
これらの作品も魅力的ですが、私が展覧会に足を運んだ大きな要因は、エミリー・カーマ・イングワリィ(Emily Kam Kngwarray)さんの作品を見ることでした。彼女はアボリジナル・アートの中でも、もっとも著名な画家なのかもしれません。彼女について、公式サイトで次のように説明しています。
エミリー・カーマ・イングワリィ(1910頃‒1996)
2008年に日本で回顧展が開催されたイングワリィは、最も成功したアボリジナル作家のひとりであり、国際的に高い評価を確立した。1988‒89年にアクリル絵具とカンヴァスによる絵画制作を始め、1996年に亡くなるまでの8年間で約3,000点以上の作品を制作した。2025年にテート・モダンにて大規模回顧展が開催される予定。
(展覧会公式サイトより)
https://www.artizon.museum/exhibition_sp/echoes_unveiled/artist/
上に書かれているテート・モダンの大規模回顧展の公式サイトも見つけました。
リンクを貼っておきます。サイト内の動画を見ると、彼女の制作の様子までよくわかります。
https://www.tate.org.uk/whats-on/tate-modern/emily-kam-kngwarray
私がエミリー・カーマ・イングワリィさんの作品を見たかったのは、彼女の絵画の感触を味わいたかったからです。彼女はキャンバスを床に置いて、ペタペタと画面に触れるように描くのですが、その筆致を確かめたかったのです。この筆致は、絵画をイーゼルに立てかけて描く西欧絵画の様式とはまったく異なるものです。それでいて、彼女の絵画には、西欧絵画に負けない複雑な構造と奥行きがあります。例えばシンプルに見える彼女の線描作品でさえも、線の一本一本が微妙な画面上の位置を持っていて、その交錯するような様子を見ているだけでも飽きないのです。
このように、エミリー・カーマ・イングワリィさんの作品は、西欧絵画の透視画法による遠近法とはまったく異なった構造を持っています。そんな彼女の絵画を見ることは、私たちの絵画の構造を相対化するのに役に立つのです。
彼女の絵を見ることは、例えば透視画法によらない西欧絵画、現代絵画を見ることと、どのような違いがあるのでしょうか?西欧の現代絵画は、透視図法によらない場合でも、そこにはその否定の意志を含んでいます。だいたいどんな画家でも、絵画に習熟する過程で透視図法を学んでいるので、その自分の学習した様式によらない絵画を描く場合には、どうしてもそこに否定の意志が含まれているのです。
しかし、エミリー・カーマ・イングワリィさんは、透視画法を否定も肯定もしません。彼女の絵画には、西欧絵画とはまったく異なる筋道があるのです。だからといって、彼女の絵画を、単に素朴でプリミティブな作品として眺めてはいけません。
彼女の絵画を見ていると、何かの原風景を見ているような気持ちになります。それはおそらく、彼女の絵画がしっかりとした構造を持っているにもかかわらず、そこに作為のようなものがないからだと思います。自然の無垢な風景を見るのと似た感触が、彼女の絵にはあるのです。
今回の展覧会でエミリー・カーマ・イングワリィさんのようなスケールの大きさを感じさせる作家に、マーディディンキンガーティー・ジュワンダ・サリー・ガボリ(Mirdidingkingathi Juwarnda Sally Gabori)さんがいます。彼女について、公式サイトでは次のように説明しています。
マーディディンキンガーティー・ジュワンダ・サリー・ガボリ(1924頃‒2015)
カイアディルトと呼ばれる先住民コミュニティ出身。80歳を超えた2005年から絵画制作を開始し、約2,000点に及ぶ作品を制作した。2016‒17年にかけて、クイーンズランド州立美術館とヴィクトリア国立美術館にて個展が開催され、評価を高めた。2022年には、パリのカルティエ現代美術財団で回顧展が開催された(2023年ミラノ・トリエンナーレに巡回)。
(展覧会公式サイトより)
https://www.artizon.museum/exhibition_sp/echoes_unveiled/artist/
マーディディンキンガーティー・ジュワンダ・サリー・ガボリさんの作品は、確かにスケールの大きなものですが、その一方でエミリー・カーマ・イングワリィさんよりも西欧絵画に近いものを感じます。だから良いとか、悪いとかいうわけではありませんが、それはなぜだろうか、と考えてみました。
おそらくそれは、マーディディンキンガーティー・ジュワンダ・サリー・ガボリさんが、絵画を立てかけて描いているからだと思います。だから彼女の絵は、どことなくアメリカの抽象表現主義の絵画やカラーフィールド・ペインティングのような感触があるのです。もちろん、彼女にはアメリカの画家にはない個性がありますし、そもそも絵を描く動機やコンセプトも違っています。しかし、エミリー・カーマ・イングワリィさんとの比較で言えば、より西欧絵画に近いものがあると私は思います。
皆さんは、彼女たちの絵を見て、どのように感じるのでしょうか?その表現の違いについて考えてみると、面白いと思います。
さて、このようにこの展覧会を見ると、私たちは私たちとは異質の文化との触れ合いを感じます。そして、どうしても自分との距離感で作品を見てしまいます。
このことは、相対的に、自分の位置を知ることにもなるでしょう。
そしてその時に、できれば自分のものの見方の偏狭さに気づき、少しでも広い場所へと移動するきっかけにしたいものです。
この展覧会は、企画意図の中に私たちのそのような心の動きをねらったものがあるようで、それが展覧会のタイトル「ECHOES UNVEILED」に反映されています。美術館の学芸員である上田杏菜さんは、「彼女たちのアボリジナル・アート」というカタログ掲載のエッセイの中で、次のように書いています。
オーストラリア現代美術は、アボリジナル女性作家たちが自らの言葉で真実を語る行為の力を可視化するプラットフォームとして機能している。その創作のエネルギーは、個人の表現を超え、世代を超えて受け継がれるトラウマの癒しとして、再びコミュニティに還元されていく。このように、女性作家たちを媒介としてアートと社会が循環的に繋がりを持つ構造は、彼女たちが今日のオーストラリア現代美術において果たしている重要な役割を表している。
本展の英語タイトル「Echoes Unveiled」は、そうした彼女たちの活動を象徴するものとして付けた。「Echoes」は音の反響やこだまを意味すると同時に、記憶や感情の残響、過去が繰り返し現在に響いてくるさまを象徴的に示す語である。「Unveiled」は、これまで覆い隠されてきたものが明るみに出ること、つまり不可視の存在が見えるようになるプロセスを意味する。「Echoes Unveiled」という言葉には、植民地主義の歴史のなかで周縁化され、声を奪われ記録されることのなかった人々の記憶や感情、経験に寄り添い、それらを光のもとへと引き出すという、彼女たちの創作への姿勢を込めた。またこのタイトルにはもうひとつの思いが重ねられている。それは、アボリジナル・アートを単に異文化や異国の歴史として外から眺めるのではなく、その作品や表現に触れることを通じて、自らの文化や歴史に呼応する「こだま」を聞き取り、共鳴し、共振する接点を見出すきっかけとなるのではないか、という思いである。
(「彼女たちのアボリジナル・アート」上田杏菜)
私たちは、私たち自身の中の「こだま」に耳を傾けなければなりませんが、例えば私はここまで書いてきた通り、エミリー・カーマ・イングワリィさんの絵画の筆触に、西欧絵画とは異なるものを感じ、そこに新たな可能性や魅力を見出しています。
そして、いま、自分の創作のなかでも絵画を立てかけて描くのか、床に置いて描くのか、というふたつの方法を比較しながら試しているところです。この展覧会が投げかけているさまざまな問題の中で、それはごく卑近なことなのかもしれませんが、とりあえず私は私にとって、もっとも切実な声に耳を傾けるしかありません。
そしてエミリー・カーマ・イングワリィさんは、アボリジナル・アートの最初の世代の作家ではないかと思うのですが、彼女のような作家はこの後出てこないのではないか、という危惧を私は抱いています。それだけに、彼女の絵画の本質をしっかりと受け止めることが重要ではないか、と思うのです。
これは、私が絵画の実作にかかわっているからこそ受け止めた印象だと思いますが、一般的には、この展覧会から受ける印象はもっと広大なものでしょう。それはオーストラリアの大地を肌で感じるような、そんなスケールの大きなものです。もしもあなたが美術に関心がなくても、例えば地理的な、歴史的な、社会的な問題意識から、この展覧会を見て感じ取ることがたくさんあるはずです。
ちょっと一面的な、舌足らずな展覧会紹介になってしまいました。
皆さんには、ぜひこの展覧会を実際に見ていただいて、自分なりに感受したことについて考えていただきたいと思います。
蛇足ですが、この展覧会は、NHKの日曜美術館の「アートシーン」のコーナーで紹介されたということですが、そのわりにはそれほどの混雑ではありませんでした。
夏休みの一日を、ゆったりと過ごすのに最適な展覧会だと思いますので、お勧めします。