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平らな深み、緩やかな時間

446.『美学講義』谷川渥によるモダニズム美術の学習①

今回は、谷川 渥(たにがわ あつし、1948 - )さんの著作『美学講義』を学びます。

機会があれば、何回かに分けて学習したいと思います。

ところで、この本はどのような本なのでしょうか?

書店の紹介文を読んでみましょう。

 

「美学とは何か?」この主体的な問いからしか美学は形成されない

ドイツ哲学に派生する近代美学の誕生、明治の日本におけるその受容、現代美術批評の言説と美学の関係など、「美学とは何か」に応える言語的な美学構築の試み。

バロックとの微妙な関係性のうちに展開する美学的言説をめぐる思考の軌跡

 

夏目漱石、森鴎外、高山樗牛、岡倉天心、萩原朔太郎らが、ハルトマン、カント、ヘーゲル、クローチェなどの「美学」といかに対峙したかを詳述する「美学の近代」。ヴァレリーによる「制作学」を考察し作品概念の地平を拓く「美学批判をめぐって」。20世紀アメリカを代表する美術批評家グリーンバーグの「批評」に対する数々の「批判」を採り上げ、現代芸術と連動する実践的批評と美学との関係を問う「批評と美学」。「美学すること」を追求する著者畢生の美学講義。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480018212/

 

前回も書きましたが、私はこの勉強のはじめとしてアメリカの批評家、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)さんに注目してみたいと思います。彼はアメリカのモダニズム美術を牽引した人です。彼のモダニズムの理論、すなわちフォーマリズム批評はどのように形成されたのでしょうか?

谷川さんがこの本の中で採り上げているのは、グリーンバーグさんがモダニズムの絵画を本格的に論じた「モダニズムの絵画」(1960)以前に書かれた「さらに新たなるラオコオンに向かって」(1940)という論文です。

 

ところで、この本のタイトルの「ラオコン」ですが、この名称のもととなっているのは、古代ギリシャの有名な彫像です。

https://www.musei-vaticani.it/il-laocoonte-ai-musei-vaticani/

 

この『ラオコーン像』( Gruppo del Laocoonte)は、バチカン美術館に所蔵されている古代ギリシアの大理石の彫像です。モチーフはギリシア神話のトロイアの神官ラオコーンとその2人の息子が海蛇に巻き付かれているという場面です。

しかし、グリーンバーグさんの論文のタイトルは、この彫像を直接、指し示すものではなくて、18世紀のドイツの劇作家、詩人、批評家であったレッシング(Gotthold Ephraim Lessing、1729 - 1781)さんの『ラオコオン 絵画と文学との限界について』(1766)という重要な芸術評論のことを指しています。これはどんな本かというと、岩波文庫から翻訳が出ていますので、次のリンクをご覧ください。

https://www.iwanami.co.jp/book/b247614.html

 

「絵は無声の詩,詩は有声の絵」の名句で表現されるように,絵画と文学の対比は古くから美学の核心的な問題のひとつであった.レッシング(1729‐1781)は,彫刻ラオコオン群像を題材に取り上げて文学と造形美術との限界を明らかにしてゆく中で,文学にもっとも固有の本質的な能力を追求した.近代の芸術論はここに初めて拠るべき基点を与えられた.

(岩波書店 公式サイトより)

 

このレッシングさんの『ラオコオン 絵画と文学との限界について』が、グリーンバーグさんの論文のタイトルに引用されてなっているのです。

それならば、さぞかし「さらに新たなるラオコオンに向かって」の中で、この本が大きく取り上げられているのだろう、と予想しますが、それがそうでもないのです。

その短い言及部分を引用してみましょう。

 

レッシングは、1760年代の著書『ラオコオン』の中で、理論のみならず実践において、芸術の混乱が存在することを認識していた。しかし、彼はただ文学の観点からのみ、その悪影響を見ている。また、造形芸術についての見解は、彼の時代における典型的な誤解を示すにすぎない。彼は、ジェイムズ・トムソンのような詩人の叙景的な詩文を、風景画の領域を侵すものとして攻撃した。だが、絵画が詩の領域を侵していることについて言うべきこととしてせいぜい思いついたのは、説明を要する寓意の絵と「同一の絵の中に二つの必然的に離れた時点」を組み入れたティツィアーノの『放蕩息子』のような絵に反対することだけであった。

(『グリーンバーグ批評選集』「さらに新たなるラオコオンに向かって」グリーンバーグ、藤枝晃雄編訳)

 

私は、はじめてこの「さらに新たなるラオコオンに向かって」を読んだとき、この論文のタイトルの意味が、よく飲み込めませんでした。この文章を読む限り、レッシングさんの『ラオコオン』のことを、是が非でも読む価値があるような本として書かれていませんし、その200年ほど昔の古い論文に「新たなる」という形容詞をつけて、グリーンバーグさんは何を語りたいのだろう、と疑問に思ったのです。

 

そうでなくても、この「さらに新たなるラオコオンに向かって」はわかりにくい論文です。何度か読むうちに、レッシングさんが「文学」と「造形芸術」を比較したように、グリーンバーグさんも絵画を古典主義やロマン主義のような「文学性」から峻別し、新たな語り方でその「造形性」について書きたかったのだろう、と理解しました。

考えてみると、この論文が書かれた1940年ころは、グリーンバーグさんが高く評価したジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)さんらのアメリカ抽象表現主義の画家たちは、まだその表現方法を確立していませんでした。その当時のアメリカでは、アメリカン・シーン派(地方主義)の画家たちや、エドワード・ホッパー(Edward Hopper、1882 -1967)さんのような具象絵画が隆盛だったのかもしれません。

それに加えて、第二次世界大戦の戦火を逃れて、シュールレアリスムや抽象絵画などのヨーロッパの最新の動向を担う画家たちもアメリカに渡ってきていた時期です。

おそらく、美術において新興国であったアメリカでは、批評においてもさまざまな価値観が飛び交っていて、混沌としていたことでしょう。そのような状況下で、まだ30代の若かったグリーンバーグさんは、モダニズムの批評を確立すべく、必死だったのかもしれません。

 

この「さらに新たなるラオコオンに向かって」で、私が疑問に思ったこと、とくにレッシングさんの『ラオコオン』との関係について、谷川さんは次のように解説しています。

いくつか断片的に引用してみます。

 

戯曲『賢人ナータン』や演劇批評『ハンブルク演劇論』で知られるように、みずから戯曲家、劇作家でもあったレッシングの議論が「文学の観点のみ」というのは、ある程度本当である。しかし、グリーンバーグのこの要約は、いささか穏当ではない。

(『美学講義』「第三章 批評と美学 1 グリーンバーグvsレッシング」谷川渥)

 

それにしてもグリーンバーグの要約は、『ラオコオン』という書物の全体が詩と絵画、文学と美術の本質的差異をひたすら論じているのに、あまりにも自明と判断したうえでのことかヴィンケルマンの名前も触れずに、よりによってジェイムズ・トムソンとティツィアーノの二人の名前だけを引いてその議論を批判していることになる。いささか偏狭に過ぎると言わなければなるまい。レッシングによって挙げられる画家の名前が比較的少ないことは事実である。書物の冒頭で断っているように、彼は絵画と彫刻の差異を問題にせず、一括して「造形芸術一般」という言い方をしている。そもそも彼は本物のラオコオン群像を一度も見ていないのだ。おそらくは版画を見ての論考であろう。彼が絵画という言葉を用いるのは、そのためであろうと思われる。

(『美学講義』「第三章 批評と美学 1 グリーンバーグvsレッシング」谷川渥)

 

レッシングの議論は、絵画と彫刻を区別せずに、絵画あるいは造形芸術一般を一方に置き、他方にウェルギリウスに代表される文学を置いて、採り上げられた主題の表現を時間論的に区別するものだった。グリーンバーグが「彼の時代における典型的な誤解」と呼ぶのは、造形芸術と文学の差異を同じ物語的「主題」の表現の時間論的差異の問題として論じているからということになろう。グリーンバーグに言わせれば、「主題」はそもそも造形芸術の問題ではないのだ。すべては「形式」の問題だというわけである。そのかぎりでレッシングの議論とは区別されるべき「新たなるラオコオン」ということになろうか。

(『美学講義』「第三章 批評と美学 1 グリーンバーグvsレッシング」谷川渥)

 

断片的な引用になったことをお許しください。

谷川さんは、それぞれの引用部分の後で、ていねいにレッシングさんの『ラオコオン』について説明しているのですが、ここでは長くなるのでその手前までを引用しました。

ちなみに、谷川さんの文中に出てくるヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann, 1717 - 1768)という人は、18世紀ドイツの美術史家です。レッシングさんは『ラオコオン』の冒頭で「ヴィンケルマン氏は、ギリシアの絵画ならびに彫刻の傑作のすぐれた一般的特徴は、その姿勢ならびに表情における高貴な単純さと静かな偉大さとにあるとしている。」(『ラオコオン』レッシング、斎藤栄治訳)と書き始めています。そしてラオコオン像の苦しみの表情について、ヴィンケルマンさんと自分との見立ての違いについて延々と論じていくのです。しかしグリーンバーグさんは、そんなことにはまったく触れていません。

さらにレッシングさんは『ラオコオン』の中で、文学作品においては継続的な時間が表現されている、つまりは物語のような表現が文学作品には適している、という趣旨のことを書いています。一方の造形芸術では断片的な時間が表現されている、つまりはその時々の瞬間的な姿を像として表現することが造形芸術には適している、と書いているのです。

しかし、グリーンバーグさんはそのことも素通りして、そもそも「物語」を表現するような「主題」を造形表現に持ち込んで論じることが間違いだ、と言っているのです。フォーマリズム批評のグリーンバーグさんらしく、造形表現はそこに表現されたもの、つまりは「形式」の問題だというわけです。

 

ちなみに、谷川さんの文中に出てくる人物たち、例えばウェルギリウス(Publius Vergilius Maro、紀元前70 - 紀元前19)さんは古代ローマ時代の詩人です。

それからグリーンバーグさんの引用部分に出てくるジェームズ・トムソン(James Thomson、1700 - 1748)さんは、スコットランド出身のイギリスの詩人、劇作家です。そしてティツィアーノ(Tiziano Vecellio、1490 - 1576)さんは、言うまでもなくルネサンスのヴェネツィア派で最も重要な画家の一人です。ただし、谷川さんによれば、文中の『放蕩息子』は別の画家の作品だそうです。

それに加えて、谷川さんの解説に「そもそも彼(レッシング)は本物のラオコオン群像を一度も見ていない」とあるのにはびっくりです。しかし、18世紀のことですから、ドイツからイタリアに旅行するのはたいへんなことだったのでしょう。有名なゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)さんの『イタリア紀行』(1816〜29)はその後の時代の話ですが、それでもその珍道中の様子で私たちを楽しませてくれます。

そしてレッシングさんの生きていたころは、写真もない時代ですから、実物を見たことがなければ彫像を描いた版画作品でラオコオンについて論じるしかないわけです。今ならそんな状態で『ラオコオン』というタイトルの本を出版することは考えられませんね。蛇足ですが、『判断力批判』(1790)を書いたカント(Immanuel Kant、1724 - 1804)さんも、ほぼ同じような状況ですから、彼らの芸術に関する文章を読むときには注意しなければなりません。

 

さて、グリーンバーグさんの「さらに新たなるラオコオンに向かって」と、レッシングさんの『ラオコオン』との関連はこの程度ですから、グリーンバーグさんの論文を理解するためにレッシングさんの『ラオコオン』を読む必要はないでしょう。それに岩波文庫では、現在品切れ状態のようです。それよりも谷川さんの『美学講義』を読んだ方が、よくわかると思います。

それでは、肝心のグリーンバーグさんの「さらに新たなるラオコオンに向かって」は、どのような論文なのか、もう少し見ていくことにしましょう。

谷川さんは次のように書いています。

 

グリーンバーグ自身の論点に焦点を当てよう。論文の書き出しは、こうである。

 

今日の絵画における「非対象」、「抽象」の純粋主義者の態度は独断的で非妥協的だが、それを単に芸術のカルト主義的な徴候として片づけることはできない。純粋主義者が芸術に対して途方もない主張をしているのは、彼らが他の誰よりも芸術を大切にしているからである。

 

いささか奇妙な書き出しと言うべきではあるまいか。ここで「純粋主義者」と訳されているのは、原文では≪purists≫と複数形であり、正確には「純粋主義者たち」と訳すべきところである。「彼ら」と言っているように、グリーンバーグ自身は、その一員ではないかのように「彼ら」「純粋主義者たち」に距離を置きながら、しかも「誰よりも芸術を大切にしている」という点で評価する。そして「純粋主義とは、概ね極度の憂慮、芸術の運命についての懸念、その独自性に対する不安を言い換えたものであり、これは尊重されて然るべきである」と言い、「現代における最良の造形芸術が抽象であるという純粋主義者の主張を退けることは、それほど容易ではない」と続ける。

(『美学講義』「第三章 批評と美学 1 グリーンバーグvsレッシング」谷川渥)

 

絵画における「非対象」、「抽象」の形式を探究する芸術家は、「純粋主義者」であり、彼らは「他の誰よりも芸術を大切にしている」と書いているのですから、グリーンバーグさん自身は、当然、絵画は抽象へと向かうべきだと考えていたはずです。そして、この後の記述になるのですが、絵画が接近を図るべき芸術分野は「文学」ではなく、「音楽」であるべきだと、彼は言うのです。

そして、そのような「純粋性」を探究していくことによって、芸術はその独自性に気づき、その固有の在り方を強調しなければならない、という風にグリーンバーグさんは考えます。この思考の過程で、グリーンバーグさんの論理はその後に大きな影響をあたえる「フォーマリズム批評」を形成していくのです。

谷川さんの解説を追っていきましょう。

 

グリーンバーグはこう続ける。「音楽の効果をただ真似るのではなく、その原理を「純粋」芸術として、そして音楽から感覚的なものをとったらほとんど何も残らないがゆえに抽象芸術であるとして借りるために、ただ音楽に眼を向ける気になりさえすればよいのだ」と。

「純粋性」は、個々の芸術における「メディウムの限界を受け入れる」ことだ。「各々の芸術が独自のもので、厳密にそのもの自身であるのは、まさにメディウムによるのである。ある芸術の独自性を回復するためには、そのメディウムの不透明性が強調されねばならない」と。「メディウムの不透明性」とは、メディウムの存在、まさに字義どおりに「媒介」を隠さずに承認することである。そうして絵画や彫刻は、「視覚的な感覚の中で燃え尽きる」、「ただ感じるものだけがある」というわけである。

具体的にどういうことか。グリーンバーグは、いくつかの徴標を列挙する。まずは、「平面的な画面が写実的な透視画法の空間のために「穴を穿つ」努力を拒むこと」である。「穴を穿つ(hole through)」とは、グリーンバーグ独特の表現で、要するに消失点へと向かって三次元的な奥行き空間を広げることである。そうした透視画法の否定である。そして絵画はキアロスクーロや陰影による肉付法を棄てる。

<中略>

次に訳文では、「キャンバスの四角い形の影響を受けて、形体は幾何学的になる」とあるが、これも注意すべき箇所である。「キャンバスの四角い形」の「形」は、原文で単数形の≪shape≫であり、これは「形状」と訳したほうがわかりやすい。「形体」と訳されているのは、複数形の≪forms≫であって、ある種の作品の画面内部の「形式」、つまり形のあるようが幾何学的になる傾向がある(tend to)と言っているのだ。

<中略>

そして最も重要なのは、「画面そのものが平らになって、虚構の奥行き面を押し潰してますます浅くなり、ついには実際のキャンバスの表面である現実の物質の面上で一つになる」ことである。

(『美学講義』「第三章 批評と美学 1 グリーンバーグvsレッシング」谷川渥)

 

いかがでしょうか。

ここでは、絵画の透視画法的な奥行きが否定され、絵画はそのキャンバスの形に内容が影響されるようになり、さらに画面は押しつぶされるように平滑な平面になるのです。この記述を読むと、1940年のこの時点で、すでにフランク・ステラ(Frank Stella, 1936–2024)さんの1950年代末から1960年代の作品の展開が予告されているかのようです。

https://www.moma.org/artists/5640-frank-stella

 

そのことだけを考えても、グリーンバーグさんという批評家の影響の大きさ、偉大さがわかります。

しかし、いまの私たちならば、グリーンバーグさんの理論に、やや強引なところがあることに気づくことができます。

例えば、グリーンバーグさんは絵画の独自性ということをしきりに論じるのですが、そのときになぜ絵画の透視画法的な奥行きが否定されてしまったのでしょうか?これこそが絵画の独自性そのものだと私は思うのですが、いかがでしょうか。

そして、なぜ彼は絵画のメディウムやキャンバスの形状などの、絵画に関する物質性にばかり目を向けたのでしょうか。

私は、そこにはグリーンバーグさん独自の指向性があったように思います。

そして、グリーンバーグさんという一人の評論家が、自分の考えとしてこれらの批評を展開したのは良いのですが、問題なのは、彼の畳みかけるような切れ味鋭い論理で語りかけられると、それがすべてであるように思えてしまうことです。

とりわけグリーンバーグさんが使った「純粋性」という言葉には、芸術家にとって「正義」に近いような意味の言葉が含まれていたのだと思います。例えば、グリーンバーグさんの理論に従わなければ、まるで自分が「不純」であるように思えてしまうとしたら、これは困ったことです。

 

さて、それならば、私たちはこれをどう考えたらよいのでしょうか。

そのことについて書く前に、ひとつ断っておきましょう。

このblogでは、グリーンバーグさんに対して批判的に書くことが多いのですが、それはグリーンバーグさんの批評の芸術性を否定するものではありません。現に、彼の批評によってすばらしい絵画作品が、アメリカを中心として生まれてきたのです。

しかし、私たちは、そんな彼をも乗り越えて、先に進まなければなりません。それが重要なところです。

ここでは、彼がどうして若い頃にこのような方向性へと進んでいったのかを検証し、それを冷静に受け止めたうえで、私たち自身の行くべき道を探さなければならないのです。

 

谷川さんは、先に私が引用した「そのかぎりでレッシングの議論とは区別されるべき「新たなるラオコオン」ということになろうか。」という文章に続けて、次のように書いています。

 

ところが、この「形式」はもっぱら絵画の「メディウム」と不即不離である。メディウムとは、しかし何か。「絵画は紙、布、セメントや木材などの材料でできた実際の物体が、糊、膠、釘で本来透明な画面に固定されるという形式をとる」、というグリーンバーグの言葉もある。キャンバスの形状とも言われていた。しかし絵画の絵画たる所以は、レッシングも強調していたように、もっぱら形と色にあるというべきではあるまいか。文学の本質が言葉であるように。形と色は、しかしグリーンバーグにおいてあくまでもメディウムと不可分である。アリストテレス的に言えば、グリーンバーグの芸術論、少なくともその造形芸術論において、形(エイドス)と物質=質量(ヒュレー)の二元論の「質量」を採る、極度のマテリアリズムに支えられているのである。大いなる逆説と言うべきだろう。

(『美学講義』「第三章 批評と美学 1 グリーンバーグvsレッシング」谷川渥)

 

この文章の最後の「グリーンバーグの芸術論」は「極度のマテリアリズムに支えられている」という分析が、的を得ているようで興味深いです。

結局のところ、ミニマルアートにしろ、プライマリー・ストラクチャーにしろ、この「極度のマテリアリズム」の方向性へと進んでいった結果なのではないでしょうか。しかし、それは必ずしもそうでなければならなかったわけではないのです。

そして、グリーンバーグさんに否定された絵画の奥行きの問題ですが、私はまさにその問題に、今こそ取り組むべきだと考えています。それは、モダニズムの理論によって置き去りにされた問題であるし、それに私たちは何と言っても絵画を描きたいし、絵画を見たいと思っているのです。

 

以上、「モダニズムの絵画」以前のグリーンバーグさんの論文を追いかけてみました。私の文章で分かりにくい点がありましたら、ぜひ谷川さんの『美学講義』を手に取って読んでみてください。この後の美術の動向についても、谷川さんのこの本から時期を見て学んでいきたいと思います。例えば、グリーンバーグさんに学びながら、のちに離反してポストモダニズムの美術を論じたロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )さんについても、谷川さんはわかりやすく書いています。クラウスさんの本は、日本でも翻訳されていますが、やはり難解なので谷川さんの解説がおすすめです。

 

さて、それはそれとして、私たちがモダニズム以降の良質の絵を見たいと願うならば、私たち自身が丹念に一枚一枚の絵を吟味して見ていくしかないようです。なかなか、そういう作品を集めた展覧会はありませんし、そういう批評を集めた本もありません、残念ながら。

よかったら、このblogを今後も参照してください。

 

ところで、個展が終わったばかりですが、私は8月のおわりに「小田原ビエンナーレ」という展覧会に参加します。パンフレットに文章を書き、9月に小田原で講演会も行います。

そのパンフレット類が出来たようなので、近いうちに私のホームページにpdfファイルを貼ることにします。

次回は、そのパンフレットの文章をここに掲載したいと思います。今回の問題ともつながる内容なので、ぜひお読みください。

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