平らな深み、緩やかな時間

87.芸術の意図、ジョン・ケージと細野晴臣から

夏が終わりましたが、相変わらず休みが取れないまま、忙しい秋を迎えています。そのあいだに展覧会の案内状をいただいた方々には、拝見できずに失礼なことをしてしまいました。そんななかですが、前回の《高橋圀夫の作品と宇佐美圭司の『絵画論』について》という文章のことで、ある方から思いがけない示唆をいただきました。
その示唆の内容です。
私は前回のこのblogで、高橋圀夫さんの作品から、その制作の決定要因について考察をしました。そのときに引用したのが、宇佐美圭司の「プリベンション」という概念です。彼の主著『絵画論』から拾ってきたものですが、その本を読んでいないとわかりにくい内容だったと思います。示唆をくださった方はその概念を「ひとつの意図―物を作り出し、世界に加えるという考え」という一般的な言葉で言い直したうえで、二人の芸術家のことを事例としてあげていました。
その二人の芸術家とは、画家でも彫刻家でもありません。意外なことに、ジョン・ケージ(John Milton Cage Jr.、1912 - 1992)と、細野晴臣(1947- )という二人の音楽家のことです。
「ジョン・ケージ(作曲家)の場合の『意図という要素を、作曲から如何に解体していくか―』や、細野晴臣(ミュージシャン)の『作家という人の、意図して作ったものの、死にざま…』など、多分作り方、作られ方への疑問や自らへの問いかけ・・・」と、その方は二人について書かれていました。
私は、音楽のことはさっぱりわかりませんし、クラシックや現代音楽の類はほぼ聴いたことがないので、この二人について、とくにケージについて何か書くというのは、まったく無謀なことです。しかし、この興味深い示唆にはあらがうことはできません。私なりに調べてみたことをたよりに、芸術を作り出す「意図」という大問題について触れてみたいと思います

さて、まずはジョン・ケージですが、ケージは亡くなる数年前の1989年に、京都賞思想・芸術部門を受賞し、その授賞式のために来日しました。私は受賞記念のドキュメンタリー番組(『ジョン・ケージ、きのこ的生活』)をたまたま見ていたのですが、京都大学の名物教授だった森毅(1928 - 2010)とふたりで焼き網の上のきのこを食べていたシーンを憶えています。番組の内容はほとんど憶えていないのに、そんなことだけ憶えているのですから、わたしの記憶力は役に立たないものです。そしてそんな記憶から、ケージはわりと最近まで生きていた人、つまりわれわれの時代の人、というイメージをもっていたのです。しかし調べてみると、彼はアクション・ペインティングの画家、ジャクソン・ポロック(Pollock, 1912 - 1956)と同じ年に生まれているのですね。そしてケージは1940年代後半から活躍をはじめ、1952年に有名な『4分33秒』を発表しています。ポロックも1947年に『五尋の深み』を制作し、1950年頃に表現のピークを迎えたていたのですから、彼らは同じ時代を生きていたのだ、とあらためて知った次第です。ポロックが、絵画の制作に無意識やアクションなどの要素を取り入れて絵画を革新していた時期に、ケージもまた、偶然性や通常の楽器の音以外の音を取り入れて、新しい音楽の地平を切り開いていたわけです。さらに彼らと同時代に活躍した芸術家とでいえば、ジャズのサックス奏者、チャーリー・パーカー(Charlie Parker Jr, 、1920 - 1955)も少し若いとはいえ、ピークを迎えたのが同じころです。彼らに共通するのは、それまでの絵画や音楽の枠組みを突き崩したこと、それもそれぞれの芸術の成立に関わる根幹の部分で革新的な仕事をしたことです。彼らは、芸術家がどのような「意図」をもって制作、作曲、演奏をするのか、という大きな問題に対し、無意識や偶然性、即興性などの新しい要素を取り入れて、古い表現の枠組みを解体したり、改革したりしていたのです。ポロックやパーカーが、まだ若いうちに破滅的な生涯を終えたのに対し、ケージはその後も活躍を続けたので、彼らを「同時代人」と言ってしまうのには抵抗がありますが、少なくとも今から70年くらい前に、芸術の世界の地平を震わせるような大きなうねりがあって、彼らはその中で大きな役割を果たしていたのです。
彼らは皆、アメリカ人ですが、この時代のアメリカの芸術は、今よりも美術や音楽、それに文学や思想といった各分野の垣根が低く、お互いに刺激し合っていたのでしょう。例えばビートニクの作家、ジャック・ケルアック(Jack Kerouac、1922 - 1969)の小説、『地下街の人々』(The Subterraneans 1953)には、こんな一節があります。

ステージではごく最近までからだをこわし、バップが下火になったサンフランシスコへ戻ってきたばかりのバード・パーカーが真剣な目をして立っている。レッド・ドラムのことは自分で見つけたか人伝に聞いたかしたのだろうが、新しい世代の連中がそこに集まって乗りに乗っているのを見てここのステージに立つことになったのだ。そして、彼らの反応を見ながら抑制のきいた落ち着いたスタイルで“狂気”の音を吹いていた。
(『地下街の人々』ジャック・ケルアック著/真崎義博訳 p26)

このバード(チャーリー)・パーカーの出てくる一節は穏当な内容ですが、小説全体は酒とドラッグとセックスに彩られていて、痛々しいほどに刹那的なパワーのある文章で綴られています。物語を追うよりも、散文詩のように繰り出される言葉をどんどん読み飛ばすようにして読んでいかないと、ページをめくる手が止まってしまいます。その手法がジャズの即興性や、ポロックのオール・オーバーな構成と、どこかで繋がっているような気がします。

つぎに、具体的なケージの作品に話を進めていきたいのですが、さきに書いたように音楽的なことは私にはよくわからないので、ケージの著作やインタビューを参照しながら進んでいきたいと思います。
例えばさきほど話題にした『4分33秒』という作品です。この曲は、曲の演奏時間である4分33秒の間、演奏者が全く楽器を弾かず最後まで沈黙を通す、というものです。つまり、演奏会でピアニストがおじぎをしてピアノの前に座り、4分33秒の間、何もしない、という作品なのです。はじめのうちは、普通に座っていた観客も、1、2分過ぎたあたりから妙な雰囲気になって、不安になったり、ざわざわ言いだしたりしたことでしょう。この作品にいったい、どのような意味があるのでしょうか。
『ジョン・ケージ著作選』の「あとがき」の解説を見てみましょう。

『4分33秒』初演の52年、1912年生まれのケージは40歳になるところだ。一定の時間のあいだ、演奏家は何も音を発さない。何の音もしないではないかとの非難に、ケージは、さまざまな音がしていたではないか、聞こえなかったのか、と反問する。音楽はこのとき、ひとが「聴き」とるものとなった。
(『ジョン・ケージ著作選』「あとがき」小沢純一 p192)

あるいは、音楽家・哲学者のダニエル・シャルル(Daniel Charles、1935 - 2008)との対談で、ケージは次のように語っています。

 ― 「沈黙を重視することは、音楽的な音を特権化しないことであり、従って音そのものを拡げていくことですね。」
ケージ 「それはふつう<音楽的>と考えられているものに音が隷属させられている状態を拒否することです。」
 ― 「あなたは聴衆の咳の音も、ご自分の音楽の音に組み込んでしまわれる・・・。」
ケージ 「つまりほかの人々が、<沈黙>と呼んでいるものをね。私は音と沈黙を取りかえるんです。」
 ― 「そうすることで、あなたは音楽を覆すわけだ。」
ケージ 「<音楽>とあなたが言っているように、それは言葉でしかありませんよ。」
 ― 「習慣的に私達が<沈黙>と呼び続けているものは、実は音楽以外の領域に属しているとおっしゃるのですか。それともこの同じ領域、音楽に属しているんでしょうか。」
ケージ 「沈黙はすでに音であり、あらためて音なのです。また騒音です。沈黙はそのとき音になるんです。」
 ― 「あなたの作品は、初めは音楽的ではなかったものを音楽化し、それをあなたの音楽にします。」
ケージ 「そうです。でもそこに辿り着くには年月が必要だったんですよ。」
(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 「ジョン・ケージとの問答」ダニエル・シャルル、ジョン・ケージ/青山マミ訳 p15-16)
 
『4分33秒』の沈黙は、音符と音符の隙間の空白ではありませんし、また、たんなる間(ま)でもありません。この沈黙によって、演奏家が演奏している時間だけを特権化する「音楽」という制度について、ケージは問い直しているのです。その問いかけに気づいたときに、沈黙は音と音とのあいだの単なる空白ではなく、注意深く聞くべきものとして人々に認識されるのです。つまり「沈黙は音になる」のです。もちろん、ケージが思いつきや気まぐれでこんなことをしたのなら、『4分33秒』は現在のような歴史的な作品にならなかったでしょう。この作品は彼が音楽というものを問い直す一連の仕事のひとつとして、評価されているのです。
ケージはこの時期に、中国の易(えき―占い)の影響を受けて、作曲に偶然性(「チャンス・オペレーション」)を取り入れています。例えば、コインを投げて音を決める、というようなことです。あるいは、それ以前にも、ピアノの鍵盤に異物(ゴム・木片・ボルトなど)を挟んで、音を変える、ということも試みています。普通の音楽的な音階にならないことは、言うまでもありません。
私のささやかな経験では、後者のタイプの曲を聴くのはかなりの苦痛ですが、前者のタイプの曲には美しいものがあります。たぶん『In A Landscape』や『Dream』などは、偶然性を取り入れた曲なのだろうと思うのですが、とても美しい作品です。YouTubeで聴くことができるので、ぜひ聴いてみてください。どのように偶然性が作用しているのか、素人の私にはわかりませんが、何とも言えない広がりを感じさせる作品です。強いて言えば、サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866 - 1925)の曲のように、旋律に終わりがなく、いつまでも繋がっていくような感じの曲、と言ったらよいのでしょうか。もちろん、音楽のことを少しでも知っている方なら、サティとケージの音楽の共通点や相違について、明確に言うことができるでしょう。しかし私のような素人が聞くと、サティの場合はシンプルな旋律の中にも技巧的なものを感じますが、ケージの場合は人為的な工夫を最小限にとどめ、自然な音の流れ、あるいは散乱を優先しているように感じます。それが偶然性を取り入れた結果なのかもしれない、と推察します。
このような作曲の方法について、「偶然性によって作曲をするなんて、そんないい加減な・・・」というふうに思う方もいらっしゃるでしょう。そのことに関するケージの意見を聞いてみましょう。

 ― 「しかしどうしてあなたがチャンス・オペレーションの機械的、自動的な性質に違和感を感じないでいられるのか、よくわかりませんね。くじで音を決めるのは安易な解決法ではありませんか。毎日の生活における偶然の役割がどんなものであるにしろ、偶然がしばしばものごとをあまりにも単純化してしまうことも、認めるべきではありませんか。」
ケージ 「では私達がここにいるという事実、私達が今ここにいて、たとえば森の中に樅の木があるという別の今にいないという事実を、どうやって説明できますか。この複雑さは偶然からきているんですよ・・・。私達の生は、各瞬間に積み重ねられてゆく偶然の幾重もの層から成る、ひどく複雑なものなんです。偶然があるものを与え、あるものを排除するのです。」
 ― 「偶然のおかげで、私達は存在と不在を同時に考えざるをえなくなるわけですね。」
(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 「第二の対話」ダニエル・シャルル、ジョン・ケージ/青山マミ訳 p79)

この会話の前後で、ケージは日本や中国などの東洋思想について語っています。彼にとって、偶然性はそれまでの音楽の枠組みを解体する、重要な要素であると同時に、非西欧的な世界観を実践するということでもあったでしょう。それは西欧の合理主義では語りえないもの、抜け落ちてしまうものについてどのように考えるべきなのか、という突き詰めた問いに対する答えなのです。ケージの言葉は、合理主義的ではありませんが、とても論理的です。
そして、私はケージの作品の数曲を聞いただけですが、その印象をあえて言えば、ポロックやパーカーやケルアックの作品と比べると、ずいぶんとクールな感じを受けます。これはケージが作曲をする際に、偶然性を構造的に、かつ知的な方法で作品の中に取り込んでいたからではないか、と思います。そのことが私の中でケージを、ドラッグやアルコールのイメージの濃い1950年代の音楽家ではなくて、ミニマルな芸術を指向した1970年~1980年代の音楽家、もしくはその先駆者、として捉えさせてしまうのです。実際のところ、私が学生時代に(1983年頃?)さきに引用した彼の著作、『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』(1982年に日本語訳が出版)を本屋さんで注文したところ、売り切れでしばらく手に入らない、と言われてしまいました。それくらい、この本は1980年代に広く読まれていたのだと思います。

さて、その1970年代の終わりの時期にテクノ・ミュージックのバンドとして登場したのがイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)でした。その一員である細野晴臣はベーシストですが、このバンドではベースよりもキーボードを操作していた姿が印象的です。
細野はYMOの前に「はっぴいえんど」などのロック・バンドでの活動があり、さらに世界中の音楽を渉猟したソロ活動がありました。私はこのソロの時期の音楽が好きなのですが、当時の彼の心境をあらわした興味深い文章があるので、引用してみます。

二年前の僕の音楽は東京という地面をはいずりまわっていた。そして、そこは袋小路だった。東京は日本列島四方八方、すみずみにまで延長した道路を持ってはいるが、どこへ行っても東京でしかなく、ついに東京から離れることはできなかった。
この袋小路を抜ける唯一の道が羽田へと続くハイウェイだった。とにかく空から日本を見たくなってしまったのだ。
僕はその土地にはその土地特有の磁場があると信じている。だから、同一の磁場の中で見る像と、違う磁場の中から一方の空間にある像を見比べた場合、明らかに違いが生ずるはずだ。それは空間の縮み方が違っているのだから当然のことなのだ。地上に近ければ近いほど磁力は強くなり、人は地面をはいずりまわることになる。だからとにかく、肉体をまず地面から離すことだ。それは海の上にでも空へ向かってでもいいと思う。このようにして飛んで、磁場の違う土地へ行ってみよう。そして僕はこれまでにロスアンゼルスとハワイと香港へ行ったのである。
ところで何故アメリカではアメリカの「音」がして、イギリスや日本ではそれ相応の「音」がするのだろうか?それも磁場のせいなのだと思う。LAには音波にロスが生じないようなプラスの磁場があるし、日本とイギリスは似ていて、20パーセント程度が見えない力によってどこかに吸い込まれてしまう、ハハハ―、
しかし、この話、実はまったく僕の考えたでたらめで、あまり真に受けられても困るのだ。でも「音」の出力を聴き比べると、どうしてもこんなふうに考えたくなる。
(『地平線の階段』「泰安洋行」細野晴臣 p41-42)

すこしとぼけた感じの文章ですが、この細野の独特の音楽に対する考え方が、彼を類まれなミュージシャンにしている、と私は思います。しかしこの話は、もうすこし先のことにしましょう。
細野はソロ活動の後にYMOを結成し、YMOの解散(散開?)の後に現代音楽やミニマル・ミュージックに通じるような、環境音楽のレコードを何枚か作りました。そしていまでは、古き良き音楽をオーソドックスなバンド形式で演奏する活動をしています。彼は自分自身が担当するラジオ番組をもっていますが、先日、たまたま聞いてみると、ジャズ・ギタリストのジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt, 1910 -1953)の曲を紹介していました。ラインハルトはジャズとジプシー音楽を融合した往年の名ギタリストですが、このような番組の作り方の中にも、古い音楽の素晴らしさをラジオで紹介しよう、という彼の意図がくみ取れます。
このように細野晴臣には多彩な音楽経歴があるのですが、なぜ彼の音楽は、このように変容していったのでしょうか。細野は1970年代に出版した本の中で、次のようなことを書いています。

僕の生きてきた30年間には戦争も大異変もなかったが、確かに何かが変化していったようだ。また、その変化には今までの歴史にはないニュアンスが含まれている。そのニュアンスとは終末感である。人類の繁栄期、プラスの加速度をもっていた文化は今や、その放物線上の頂点に達して、速度感を急速に失いつつある。その先ではマイナスの加速度が働くはずだ。最近のここ数年間に、にわかに世界が失速しつつあると感じているのは僕だけではあるまい。
(『地平線の階段』「グルに会える日」細野晴臣 p15-16)

この暗い世界観、時代の捉え方は、1970年代後半から1980年代の息苦しさ、美術の世界でいえば、前回のblogで宇佐美が言っていた「失画症的傾向」の時期と重なります。
そのような時代の中で、細野は自分が直面している絶望的な状況について語ったのです。そしてその当時、彼が影響を受けていたのが、人類学者カルロス・カスタネダ(Carlos Castaneda、1925? - 1998)の著した『ドン・ファンの教え』という神秘思想です。さきほど引用した文章が掲載されている章のタイトルが、「グルに会える日」というのですが、これは思想的な導師(グル)に会える日を待っている、という意味です。そして、カスタネダの著作『ドン・ファンの教え』のドン・ファンとは、インディアンの呪術師で、カスタネダが導師として仰いだ人物です。ドン・ファンは、薬草による幻想体験を巧みに操る、非西欧的な知の象徴のような存在ですが、それが実在の人物なのか、それともカスタネダの創作なのか、よくわかっていません。
その真偽はともかく、ここで重要なのは細野が音楽というものを、ドン・ファンの「キノコ(薬草のように幻視効果があるもの、という意味でしょう)のようなもの」だと書いていることです。そして彼は「感受性に響かない音楽は音楽ではなく、ただ単に振動があるのみなのである」(『地平線の階段』「グルに会える日」)とも書いています。彼に言わせれば、感受性に響く音楽こそが、ドン・ファンの薬草のように聴く人の心を動かすものなのだ、ということなのでしょう。だから彼は、人の感受性に響くような、「良い振動」の音楽を作り出さなくてはなりません。そのためには、どのような音楽であれ、糧となるものは自分の中に取り込まなくてはならなかったことでしょう。YMO以前の彼のソロ活動については、彼の言葉をさきほど引用しましたが、とぼけた語り口の中にも、感受性に響く音楽を世界中に求めていくという、彼の指向性がよくあらわれていたと思います。そのことは彼にとって切実な試みだったはずですが、外から見ると無理なく、自然体で、ときにユーモラスに見えるところが、細野晴臣という音楽家の非凡なところだと思います。
芸術というものは人間の作り出した自己表現ですから、作り手の「意図」が当然、そこに反映されています。音楽も例外ではありません。しかし細野の目指している音楽は、その作り手の「意図」よりも、感受性に響く「良い振動」であることが優先されているように感じます。それは自分を空しくすることで達成できるような、類まれな音楽なのです。彼は彼の目指す音楽の例として、「お経における、ある種の催眠効果」(『地平線の階段』「グルに会える日」)ということを言っています。それはどういうことかと言えば、無心にお経をあげるお坊さんの声が、やはりそれを無心に受け入れる聴者の耳の中で、「良い振動」を響かせて「催眠効果」を生む、ということです。お経だって誰かが考案したものですし、それを唱えるお坊さんの思いというものもあるでしょう。しかし、そういう人為的な「意図」が高度に空疎化したとき、お坊さんの声はただの「良い振動」として聴く人の心に届くのだろうと思います。そういうふうに、自分を空しくする指向性が、細野の音楽に余計なこだわりのない多様性をもたらしたのではないか、と私は考えます。
最近の彼の音楽を聴くと、演奏する楽曲が自分の作品である必要はなく、とにかく良い音楽を「良い振動」として聞き手に送り届けたい、という思いが伝わってきます。それはポピュラー音楽の、ひとつの帰結なのかもしれない、と私は思います。ポピュラー音楽が世の中の流通経路に乗り、人々の耳に送り届けられるまでには、それにかかわった人々のいろいろな思いが込められているはずです。人を楽しませたい、という純粋な思いから、お金を儲けたい、有名になりたい、という邪な心まで、雑多なものがそこに含まれています。しかし、それらが複雑に絡み合ったのちに、そのすべてを浄化してしまったような、たくさんのすばらしい曲が私たちに残されています。そこには人の「意図」を超えた、「良い振動」だけが残されていて、細野はそれを拾い上げているのではないか、と推察します。

ところで、細野晴臣とジョン・ケージは、どこかでつながっているのでしょうか。細野はあるインタビューの中で、YMOの頃に坂本龍一からジョン・ケージのことを教わった、と言っています。

YMOを始めるころ、僕はポップな感覚で音楽をとらえ直していて、そこにはクラシックも現代音楽も入ってこなかったんです。ところがYMOでミュージシャンのアイデンティティが崩壊すると同時に、視野が広がったんです。そこにたまたまいてくれたのが坂本君で、彼のテリトリーが現代音楽とクラシックだった。最初、彼も遠慮していて出してこなかったんですけれども、クラフトワークをきっかけにして、電子音楽の分野とか、あるいは古典的なジョン・ケージの音楽とか、スティーヴ・ライヒとか、そういうものを紹介してくれたんですね。そのころは、僕の中でも受け入れる状態があって、非常に自由な時間だったんです。そのころからアンビエント・ミュージックも聴きはじめました。
(『細野晴臣インタビュー』「THE ENDLESS TALKING」細野晴臣 北中正和編)

アンビエント・ミュージック(環境音楽)はブライアン・イーノ(Brian Eno、1948 - )が創始したと言われる音楽で、イーノには「アンビエント」というシリーズのレコードもあります。もともとはエリック・サティの『家具の音楽』の影響から発したそうですが、家具のように周囲にあって自然に聞こえる音楽、という『家具の音楽』のコンセプトを発展させたのが、「環境音楽」なのでしょう。そのあたりが、ケージの音楽ともつながっているように感じます。
ケージや細野に関する直接の話題ではないのですが、彼らにも関係が深い環境音楽について、私の体験をもとに、すこし話を進めてみましょう。ここからの話は、私の記憶に基づいたものなので、不正確であったり、間違いがあったりするかもしれません。その際には、ご容赦ください。
イーノは1980年代に来日したことがあります。それは環境音楽を広いフロア―・スペースで聴かせる、という展示会形式のような試みのためでした。たしか表参道あたりのビルの中だったと思うのですが、会場に入るとすこし照明を落とした落ち着いた雰囲気の広い部屋があって、そのところどころに植木が置いてありました。その下にクッションがセットされていて、観客がリラックスして座れるようになっていました。植木の根元にはスピーカーが隠されていて、ミニマル・ミュージックのような単純な音が、一定の時間で循環する仕組みになっています。イーノのレクチャーによると、会場内の数か所に仕掛けられたスピーカーからは、それぞれ違うパターンの音楽が流れていて、その周回時間が異なるように設定されています。ですから、一か所から聞こえてくる音は一定の時間で繰り返しているのですが、各所で流れる音楽はその循環する時間がずれているので、会場全体を考えると二度と同じ音の重なりがないようになっているのです。単調な繰り返しのようだけれども、二度と同じ現象はない、という点で日常生活の中の、あるいは自然環境の中の音のようになっているわけです。毎日、同じように聞こえるけれども、少し違っている鳥のさえずり、風の音・・・、そんなイメージでしょうか。その当時、イーノはマンハッタン(か、あるいはそれに類する大都会)のマンションに住んでいて、その屋上に家庭菜園を作っていました。大都会でのささやかな癒しを求めていたのかも知れません。
私はその会場を訪れましたが、イーノのコンセプトに面白さを感じたものの、環境音楽がこのような疑似自然的な表現に決着してしまうことに、物足りなさも感じました。「音楽」という既成概念を解体し、日常的な音に注目するのはよいと思うのですが、それはやはり「表現」として立ち上がってくるものでなければならない、と感覚的にそう思いました。この部屋の中で癒しを求めるなら、近くの代々木公園に行って昼寝でもすればよい、と単純に言うと、そういうことです。あまりにも都会的な生活をしているイーノは、私たちと日常的な感覚がすこしずれてしまったのではないだろうか、と私は思いました。
私はそこに、「環境音楽」の限界を見たような気がしたのですが、とは言うものの、このころのイーノは快進撃を続けていました。デヴィッド・バーン(David Byrne、1952 - )と組んですばらしいレコードを立て続けに二枚発表したのですが、その一枚はトーキング・ヘッズの『Remain In Light』(1980)、もう一枚はバーンとの共作の『My Life in the Bush of Ghosts』(1981)です。前者はシステマティックな制作方法によって、後者はコラージュ的な手法によって、大胆に音楽制作の「意図」を解体したのです。方法論としては、専門家から見れば目新しいものではなかったのかもしれません。しかし、これだけ実験的なことが、ポピュラー音楽のさまざまな条件の中で出来たことが画期的でしたし、何よりも作品そのものがコンセプトと躍動感が一体となった、すばらしいものでした。前衛的な音楽だけれども聴いていて楽しい、私のような軟弱な鑑賞者にとっては、まさにうってつけの音楽でした。

考えてみれば、学生の頃は美術の作品以外にも、いろいろなところでパワーをもらい、夢を見ていました。残念ながら、就職してしばらくすると、同時代の美術や音楽、文学を追いきれなくなり、いつのまにかそれらから距離を置くようになってしまいました。その後、トーキング・ヘッズは『Remain In Light』以上のレコードを作ることなく解散してしまいましたし、ブライアン・イーノはロック・バンドのU2のプロデュースをしたころから、私にとってちょっと遠い存在になってしまいました。
しかし、これらのことはたんに私の方の都合であり、それぞれの芸術家はそれぞれの場所で、日々研鑽しているのかもしれません。例えば前回取り上げた高橋さんが、制作の「意図」の解体、ということを長い時間考え続けて、いますばらしい成果を上げているように、私が目を向けさえすれば、何かを発見できるのかもしれません。ずいぶん前に亡くなったジョン・ケージでさえ、今回、資料を見直したり、音楽を聞き直したりしただけで、まだ発見されていない、あるいは現在では忘れられている可能性を秘めている、ということを感じました。細野晴臣の音楽もしばらく聞いていなかったのですが、いつの間にかもっとも彼らしい音楽を演奏するようになった、というふうに思っています。
思えば1950年代、あるいは1970年代から80年代にかけて、芸術の枠組みを解体しようとした大胆で切実な試みが、いろいろな分野でありました。それらがどのように現在に至り、どのように継続しているのか、検証してみる必要がありそうです。表面的な時代の流れの底の方に、砂金のようにきらめくものがひそんでいるのかもしれません。

ある方からの示唆の言葉に、とりとめのない、また、まとまりのないことを考えてしまいました。専門外のことなので、さらにさまざまな方からご教示をいただけるとありがたいです。

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