平らな深み、緩やかな時間

391.『Daisy Holiday!』細野晴臣/いとうせいこう、『カスバの男』大竹伸朗

はじめに、気になる話題について書いておきます。
アメリカの大統領候補者の暗殺未遂事件がありました。
https://www.bbc.com/japanese/articles/cjr4w4ljpneo

イスラエルによるガザへの攻撃をはじめ、世界の分断が深刻化していますが、アメリカ国内の分断も私たちの想像以上に厳しいようです。
どうにかならないものでしょうか?
こういう時こそ団結しなければ、という人たちがいますが、考え方の違う人たちが無理して団結しても、長続きしません。それよりも、互いに相違点を認めつつ、一緒に生きていく方法を見つけなければならない、と私は思います。
自分自身のことを振り返ってみると、集団で何かをやらなければならないときには、「心を一つにして」ということを心がけてきましたし、また、子どもたちにも、そう教えてきました。その時の格好の教育素材となるのが、団体競技のスポーツであったり、音楽の合奏や合唱であったのです。
しかし、今の私が思うのは、私たちは互いの相違点を認めつつ、人とは違う自分をちゃんと主張しながら、同時に力を合わせて何事かを成し遂げる、ということが必要だということなのです。とくに、こういうときに「自己主張」を抑えがちですが、そうではなくて、自己主張をしつつ目的を達する、ということが大切なのです。私たちには、そういうスキルが圧倒的に不足しているのではないか、と思います。
そんなことを考えていたら、細野晴臣さんのラジオ番組「Daisy Holiday!」の6月23日の放送で、ゲストのいとうせいこうさんが面白いことを言っていました。
いとうせいこうさんは、日本の古典芸能である「能」や「人形浄瑠璃」を勉強しているそうなのですが、例えば「人形浄瑠璃」ではそれぞれの演者がお互いに合わせない、ということを前提にしているのだそうなのです。
二人の会話の一部を聞き取ってみましょう。

いとうさん:
それで(三味線の)横で(人形浄瑠璃の)今度は太夫は太夫で言葉を語るわけだど、この太夫と三味線が合ってちゃいけないっていうんだ
細野さん:
いけないんだ?
いとうさん:
いけないっていうんですよ、いや、合うんじゃないですか、みたいな
なんか、我が道を両方が行かなきゃいけないらしいんです
細野さん:
それはすごいね、そんなのないよね
いとうさん:
ないですよね、そんな音楽
細野さん:
音楽っていったら、みんなで合わせるっていう
いとうさん:
そうです、そうです、合わせに行ったらあかん
細野さん:
いけないんだ それはむずかしい
いとうさん:
で、三味線の人に聞くと、三味線がすべてをつかさどっているんだ
細野さん:
あ、そうなの
いとうさん:
人形の動きも、太夫のあの言い方も、全部私から指示が出ているんだっていうんですよ
細野さん:
ああ、そうなんだ
いとうさん:
でも、太夫に聞くと、私から出てる・・・
細野さん:
バラバラ・・・
いとうさん:
バラバラなんですよ 都会的なセンスだなって僕は逆に思った
細野さん:
そうか、そうか
いとうさん:
みんなで一斉に合唱しない、それ(合わせること)がカッコ悪いと思う上方のセンスっていうのが・・・
細野さん:
センスだよね なるほど、それは深入りすると怖いな
いとうさん:
そうなんですよ
https://m.youtube.com/watch?v=vGCaDflY848

いかがでしょうか?
面白い話ですね。
いとうせいこうさんのその後の話では、「人形浄瑠璃」を見ていると全体が一つになる瞬間があるのだそうです。そこで「あっ」と思っていると、互いにすぐに離れるということです。それが見ていてとても面白くて、スリルがあるのだそうです。
芸能を演じながら、演技者、伴奏者が互いを合わせない、ということは、どういうことなのでしょうか。少なくとも、私が見てきた古典芸能の数少ない例では、それぞれの息がぴったり合っているように見えました。ですから、いとうせいこうさんの言っていることの本当の意味が、私にはわかりません。
でも、これはとても興味深い話だと思います。
いとうせいこうさんの話と重なるかどうかわかりませんが、自分自身の経験で、このことを考えてみました。
例えば私は、絵を描いていて「ここをこうすれば全体がまとまるなあ」と思うことがよくあります。以前は、そう思えばちゃんとまとめていたのですが、最近は「全体をまとめることが、本当にいいことなのか?」と自問することにしています。作品が破綻することによって、かえって主張できることもあると思うのです。そういうときは、意図的にまとまりのない、いびつな感じのまま筆を置きます。それを後で、展覧会で並べてみると、バランスの悪さなど気にならないことが、意外と多いのです。
絵画のスキルというのは、大抵の場合、全体がうまく調和するようにできています。しかし、それからはずれてみることが大事だと思っています。

うーん、これがいとうせいこうさんの話と合致しているのかどうか・・・。
まあ、とにかく、このことがわかるまでは日本の古典芸能にも目配りが必要ですね。
いとうさんの言っていることは、演者としての勉強をしなくても、例えば鑑賞者として芸能を見ていてもわかることなのでしょうか?舞踊や謡や三味線を習わないとわからない、というのでは困りますが、何かとっかかりを見つけたいものです。
いとうさんのような境地に達したときには、新しい世界が開かれるのかもしれません。
その境地をみんなで共有できたら、思想や宗教、人種や民族の違いで他の人を攻撃することもなくなるのではないでしょうか?
自己を主張しつつ、他者も認める・・、そしていっしょに歩いていける・・・、そんな世界観が、いま必要なのではないか、と私は考えています。


さて、今回は美術家の大竹伸朗さんの本『カスバの男』を取り上げます。
この本は、以前に紹介したテレビ番組『理想的本箱 君だけのブックガイド』の7月6日の放送で取り上げられていたものです。その日のテーマは「別世界を知りたい時に読む本」です。
https://www.nhk.jp/p/ts/578Q5K3X59/episode/te/P872J9PN9R/

この中で『カスバの男』に注目したのは、大竹さんが優れた美術家で、挿入されているイラストが素晴らしいということもありますが、ここではモロッコという国が題材になっていることに、とりわけ惹かれました。
「別世界を知ること」というのは、なかなかよいテーマですね。先ほどの、お互いの違いをどのように認め合って、そして自他ともに尊重しながら共存するにはどうしたらよいのか、ということとつながるような気がします。その中でも、「モロッコ」という馴染みのない異国をさまよった大竹さんの本が、とても魅力的に思えたのです。
それに実は、「モロッコ」に関する本で皆さんに紹介したかったものが他にもあるのです。それで今回は大竹さんの本、次回は別のモロッコについての本を紹介したいと思います。

それでは、いつものように、本屋さんの紹介文を読んでみましょう。

異色の旅日記が文庫化。やむにやまれぬ旅への衝動にかられ、モロッコの土を踏んだ画家が、アーティストならではの鋭い目で、熱風うずまく町の風景や逞しく生きる人々の姿を自由な言葉で描きだす。(解説・角田光代)
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=4-08-747716-9

うまくまとまった紹介文ですが、この中には本のタイトルである『カスバの男』の「カスバ」という言葉について、一言も触れていません。この「カスバ」がわからないと、本の雰囲気もわからないので、まずは「カスバ」の意味を押さえておきましょう。
辞書でひくと、次のようなことが書いてあります。

カスバ
qaṣaba
アラビア語で国または都市の域内をカサバといい,そこから軍隊の駐留する城砦や城砦をもつ一地方の中心都市をさすようになった。マグレブ諸国ではカスバと発音し,次のような三つの意味で用いられる。第1は,ラバト,チュニスのように,城壁で囲まれていた都市の一画で,とくに城砦の部分を呼ぶ場合,第2は,地方の小さな砦や地方官の邸またはそれらのある町全体をさす場合(とくにモロッコ),第3に,アルジェのように植民地化以降広がった新市街に対して,アルジェリア人のみが居住する旧市街をさす場合,である。アルジェでも本来は旧市街にある城砦をカスバと呼んでいたが,ヨーロッパ人が誤用して旧市街全体をさすようになったものである。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%90-462718

以上ですが、私には「カスバ」というと、迷路のように入り組んだ白い壁ばかりの集落、というイメージがあります。古い映画ファンなら、『望郷』という映画を思い出すかもしれません。
http://cinepara.iinaa.net/Pepe_le_Moko.html

この映画の舞台はモロッコではなくて、アルジェですが、なんとなく似たような街の雰囲気が感じ取れるのではないでしょうか?そして、モロッコに関する映画の話は、次回のblogでたっぷりとご紹介します。

それでは、本の内容に入りましょう。
ここに書かれている通り、大竹さんは衝動的に旅をします。マメにスケッチをし、文章を書き留めますが、取材のための旅行というような感じではありません。もちろん、自分の中で何かをもとめてさまようわけですが、それが漠然としているのです。
それでは、怠惰でどうでもいい旅なのか、というとそういうわけではありません。大竹さんは、自分の感性にはとても忠実な人なのです。彼の美術作品も含めて、それが彼の才能なのだと思います。
例えば、異国に着いた時の大竹さんの作法は、次のとおりです。

いろいろな国へ行き、着くとすぐ街中を何の目的もなくブラつくのが好きだ。それはいつも僕に強烈な何かの思いを残す。着いてすぐでなければならない。一杯のコーヒーを飲んでからでは全てオジャンだ。何かが逃げてしまう。
さまざまな国の街にはさまざまな店のディスプレイがある。僕はいまだに、自然の中を一人で歩きたいという境地には程遠い。雑音と欲望うずまく、安っぽくて俗で下世話な物がひしめく街中を歩くほうがずっと刺激的だ。小川のせせらぎに心の安らぎを求めたいと思ったことなど一度もない不幸な男だ。自然はすべてがパーフェクトすぎておもしろくない。自分が欠点だらけだから、そんな素晴らしい自然の中に放り込まれると居場所がないような気分になる。欠点だらけの欲悪ひしめく街中のショーウインドウが、いつも僕を刺激する。
タンジールのディスプレイはチープきわまりなく、素晴らしいものが多い。道端に非常に下世話でチープな物を並べているのだが、自然が豊かなためか大理石やら偉そうな石なんかで囲まれていたりするから、1本どころか5本ぐらい足払いを食らう。意識しない豪華さと陳腐な物の組み合わせに、ボディブローの威力が内に秘められている。
(『カスバの男』「7月13日 マラガ→タリファ→アルヘシラス→タンジール」大竹伸朗)

ディスプレイや街の壁の貼り紙などに、大竹さんは敏感に反応します。大竹さんの作品を知っている方なら、容易に理解できることだと思いますが、こういう人には大自然の中よりも賑やかな雑踏やうらぶれた街角が似合います。
そんな感性を持った大竹さんなので、タンジールの街では大いに創作意欲を駆り立てられます。その時の気分について、大竹さんは実に的確に描写しています。

絵を描きたくなる気分、なにかを無性につくりたくなる衝動というものがある。好き嫌いを超えたところでその気にさせる絵やモノに、出くわすことがある。まったく自分の好みでないものとはわかっていながら「早く家へ走って帰り、そして絵を描くのだ」という気にさせられる。逆に実物を見てもなんとも思わないのに、本の中のモノクロのカットで偶然見るとなにかをつくりたい気になるものもある。
僕は一本のモロッコ歌謡カセット・ケースがあれば、10枚の絵はできると思った。あの地のどこかでそれを眺めているだけで、絵を描きたくなる。いま、絵にするべきだという思いが湧いてくる。
(『カスバの男』「7月16日 タンジール」大竹伸朗)

このような創作衝動の記述の中に、次のような絵画の普遍的な問題も織り込まれています。

具象とか抽象とかの分け方があるが、具象画には抽象的な要素がないのかというとまったくそんなことはなく、多くの人が「これは〜だ」と判断しやすい物のかたちの比率が高いだけであって、影の色や使う色、塗りかたなど抽象的要素の化身のようなものだと思う。
(『カスバの男』「7月16日 タンジール」大竹伸朗)

こんなふうに、街中の目に止まったものの話から、絵画や音楽の話へと自由自在に文章が進みます。大竹さんは決して街の様子を説明しようとはしません。しかし、文章の間に挟まれた挿絵も相まって、大竹さんがどんなふうに街をぶらぶらしていたのか、なんとなく感じ取れるのです。

さて、この本の魅力の一つに、作家の角田光代さんの「解説」があります。その「解説」は、次のような衝撃的な文章から始まります。

この『カスバの男』ではじめて私は大竹伸朗という人を知った。無知な私は、この偉大な芸術家のことなど知らずこの本を手にとり、即座に引きこまれ、夢中で読み耽り、読み終えてすぐさま、モロッコ行きの航空券を買いに走った。4年ほど前のことである。
(『カスバの男』「解説」角田光代)

この後、旅慣れない角田さんが無謀にも一人でモロッコに行く顛末が書かれているのですが、これはすごいことだと思いませんか?旅行業者が一人旅の角田さんを心配して、チケットを売り渋る中、角田さんは強引に飛行機に乗ってしまいます。パリやウィーンに行くのならありそうな話ですが、モロッコの街の雑踏を目指して旅立つというのは、なかなかないでしょう?
それでは角田さんは、この本をどういう本だと言っているのでしょうか。

これは旅行記としても読めるし、創作日記としても読めるし、また、異国の夢日記とも読める。スケッチも水彩画も写真も入っている。「どんなふうに」読むかという規定を、作者は行わない。だから読み手は、「どんなふうに」などとお行儀よくページをめくることができない。作者が異国の地で見て、感じたもの、そのままを、ざぱーんと頭から浴びせられる。
大竹さんは、まるで目と手がいっしょになったような文章を書く。見ることと書くことのあいだに、よけいなものがいっさい介入していない。本人は本書で「見てから写しとるまでのズレ」についても言及しているが、おそらく、そのズレをも含めて書いてしまう。
(『カスバの男』「解説」角田光代)

角田さんはこのように書いた後で、この本には「モロッコに思わずいきたくなってしまうような、すてきなエピソードも美辞麗句もない」と書いています。
それに、モロッコで出会う人たちは親切ではないし、金を求めてガイドとしてまとわりつこうとする人たちばかりでうんざりするし、街の様子も決してきれいではありません。それでも角田さんは、大竹さんの描く街が「生(なま)」だから惹かれるのだ、と書いています。
さらに興味深いのは、角田さんはせっかくモロッコに行ったのに、この本を持っていくのを忘れてしまったことです。だから、自分の目でモロッコを見る他になかったのですが、それがかえってよかったのだと言います。

たぶん、本書を持ち歩きその通りに歩いたとしたら、私には何も見えなかっただろう。私は私の目で見たモロッコを歩いた。大竹さんよりかなり狭く、かなり卑近で、かなり短絡的で、かなり奥行きのない視線のまま。それでも、この本を読んでからきてよかったと幾度も思った。『カスバの男』が描き出す、凝縮された本質に、そこここで触れることができたから。
(『カスバの男』「解説」角田光代)

これは大竹さんの本の解説の体裁をとりながら、「旅」の本質を射抜き、さらには旅行記のあり方にまで言及した文章だと私は思いました。そして「旅」を通じて「生」なものと出会うという話は、芸術作品との出会い方と類似した話だとも思いました。
大竹さんの「旅」は「生」なものとの出会いを求める旅です。それは芸術家が、芸術の核心を求めて制作することと似ています。そして、私がその芸術作品の素晴らしさを聞き及んでその作品を見るのなら、自分の聞いてきたことを、一度すべて忘れてしまう必要があると思います。そして自分自身の目で、自分自身の感覚で、自分自身の知性でその作品と出会い、その「生」なものと出会わなければなりません。その行為は、角田さんが大竹さんの本を忘れてモロッコを旅したことと似ているのです。

大竹さんは不思議な芸術家で、私は大竹さんの作品の全部が大好きだとは言えないのですが、このモロッコの旅行記に表された彼の嘘のない感性、自分の求めるものに正直に反応する才能には、一目置かざるを得ません。「小川のせせらぎに心の安らぎを求めたいと思ったことなど一度もない不幸な男だ」と言い切る潔さに、私は感銘を受けるのです。
その一方で、私自身は「小川のせせらぎに心の安らぎ」を感じる人間です。もっと言えば、「自然はすべてがパーフェクト」だとするならば、それを余すところなく表現したい、という欲求にスリルを感じるのが私自身なのです。
だからこそ、大竹さんの文章には意表を突かれ、ワクワクしながら読んでしまうのかもしれません。自分とは違う感性だからこそわかること、惹かれること、というのが確かにあります。今回の冒頭の話と、少しつながることなのかもしれません。

それにしても、角田さんの解説も本当にすごいです。
一冊の本に魅了されてモロッコにまで飛んで行ってしまう、そんな本との出会い方ができる感性が素晴らしいです。角田さんの解説だけでも、読む価値のある本です。大竹さんと、角田さんからダブル・パンチをもらったような、そんなお得な感じのする本です。
それに大竹さんの挿絵、版画も楽しいので、ぜひ手に取ってみてください。

さて、次回は先ほども書いた通り、大竹さんの本とは別な意味ですごい本、モロッコが濃厚に詰まった本をご紹介します。内容が濃すぎて、blogの短文では紹介しきれないと思いますが、頑張ってみます。
どうぞお楽しみに!
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