平らな深み、緩やかな時間

86.高橋圀夫の作品と宇佐美圭司の『絵画論』について

すこし前になりますが、高橋圀夫の個展がノハコ(http://nohako.com/)という東京都中野区にあるギャラリーで開催されました。高橋さんの作品をオーナーの捧公志朗さんがセレクトして展示した、という話を伺っていたのですが、なるほど、個々の作品が自立して見えて、それでいて色調などがどこかで関連しあっている作品が選ばれていて、とても見やすくて、充実した展示でした。
画家、高橋圀夫については、このblogでも2015年11月に、あるいは2016年8月に、それぞれ文章を寄せてみました。そちらをご覧いただければ、これまでの高橋さんの作品について、私がどのような感想を持っていたのかがわかっていただけると思います。また、高橋さんの履歴については、前述のノハコのホームページで、作品についてはギャラリー檜のホームページ(http://www.g-hinoki.com/artist/takakuniwork.htm)などを参照していただければ、概ね高橋圀夫の作品の傾向などがわかると思います。ただし、高橋さんの最近の作品は、絵の具の層の重なりが見えてこないと、作品の大切な部分が理解できないので、映像ではなく、ぜひ本物の作品を見ていただきたいと思います。

さて、その高橋圀夫の作品ですが、独特の「重ね塗り」という方法で描かれています。これは文字通り、古い作品の上に新しい絵を重ねて描く方法で、高橋圀夫がこの方法に至るまでのことを、私はこれまでのblogでこんなふうに書きました。

高橋さんはさらっと「構成ではないんだけれど」と言っていますが、旧套的な絵画の構成とは異なる形でオールオーバーペインティングを超えていく、というモダニズムの絵画にとって困難な課題がここに見られるのです。
この課題を乗り越える方法として、この会話の中でもうひとつ語られているのが「重ね塗りに段々繋がっていく」という方法だと思います。「重ね塗り」というのは文字通り、古い作品の上に新しい絵を重ねて描く方法です。学生の頃に新しいキャンバスを買うお金がなくて、古い絵の上に新しい絵を描いてしまう、ということは私にもありましたが、その時には古い絵をあらかじめ一色の絵の具で塗りつぶしておくとか、意図的に無視して上に絵を描くとか、そんなやり方をしていました。しかし、高橋さんの重ね塗りはそんなことではなくて、下の絵を感受しながらその上に絵を描く、ということなのです。
(『「高橋圀夫展」、「五島三子男展」』2015/11/8)

高橋は、この「重ね描き」の方法論で興味深い作品を制作しています。今回の展覧会でも、その充実ぶりは素晴らしいものでした。異なる意図によって描かれた絵の層が、互いに緊張感を保ちながらみごとに融合しているのです。ポロックが切り開いた絵画の発展形が、ここにあるのだと思います。
(『「絵について語ること①」高島芳幸、高橋圀夫、さとう陽子』2016/8/2)

今回は、このユニークな手法である「重ね塗り」の意味について、もう少し掘り下げて書いてみたいと思います。その手掛かりとしたいのが、1980年に発行された宇佐美圭司(1940 – 2012)の『絵画論』です。この本のキーワードが「プリベンション」という概念なのですが、調べてみると、この本はもう古本屋でしか手に入らないようです。念のために「プリベンション」について、少し説明しておきましょう。

宇佐美圭司が亡くなってからしばらくたちますが、少し前にどこかの大学の食堂にあった彼の大壁画を、大学側がその価値を知らずに廃棄してしまった、ということで話題になりました。宇佐美は私の学生時代には、独自の理論を打ち立てた現代画家として、すでに著名な存在でした。とりわけ『絵画論』は、その当時の絵画の問題(と思われていたこと)を明快に解き明かし、彼の絵画に特別の興味を持っていなかった私のような者まで読まざるを得ないような、そんな影響力をもっていました。その本の中心になるのが「プリベンション」という概念なのです。これは英語のpreventionのカタカナ表記になります。直訳すれば「防ぐこと、防止、妨害、予防、防止手段」などという意味になります。宇佐美は「プリベンション」を単なる言葉としてではなく、自閉症の男の子の症例から、特別な概念として引用したのでした。
その事例となったのが、9歳半になる自閉症のジョイという男の子です。彼にとって現実の世界は、混乱して危険に満ちたものでした。その現実に対処するため、ジョイは自分の体を電気仕掛けで動く機械のようなものだと仮想しました。その結果、架空のプラグを自分に差し込む、という仕草をしてからでないと食事をすることもできなくなりました。食堂に入るときには床に電線を張る仕草をし、テーブルまでその電線を引っ張ってくる、という架空の電気工事の後に、自分の体に電源を差し込むのです。

彼は、電線を張ったり、プラグを差し込んだり、真空管を正しい位置に配置することなくしては、眠ることも、食べることも、排泄することもできなかった。彼は、そのような行為を自らプリベンションと言っていた。プリベンションは、彼の内でだんだん複雑になり、そのプリベンションのために、ほとんど全エネルギーをついやしてしまい、かんじんの食事に到達した時には、もはや食事ができないほど消耗してしまっているのだった。
(『絵画論』宇佐美圭司 p11)

自閉症に関しては、この本の出版時からずいぶんと研究が進んでいることと思いますので、現在からみて何か不適切な認識があったらご容赦ください。宇佐美がこの「プリベンション」という概念を取り上げたのは、その当時の若い人たち、自分の教えている学生たちが絵を描くことに対して自閉症的な状態、いわば「失画症的傾向」に陥っている、と考えたからでした。彼のセミナーでは、画帳を手にした学生たちが、風景を前にしても絵を描くことができません。彼らが画帳も開かずに、「港のあちこちに散在している眺めは、時間がたつにしたがって、何か異様な雰囲気に思えてくるのであった」というところから、「失画症」という言葉を思いついたのだそうです。彼は、彼の学生たちが絵を描きはじめるには、ジョイ少年のような「プリベンション」を自分なりに確立する必要がある、と考えました。『絵画論』は、そのような論理に貫かれているのです。さらに具体的に見ていきましょう。

絵画の発展段階において、ルネッサンス以降、透視図法という遠近法が確立し、絵画の世界を覆うようになりました。これは、単なる図法の発達という以上に、いろんな意味があったのだと思います。一人の人間の眼を世界の中心に置き、そこから理論的に整合性のある描き方で世界を表現するわけですから、仮にその絵が宗教画であったとしても、神様が世界の中心にいるという世界観からは、すでにずれているのです。この遠近法が、空間把握のための「プリベンション」として一般化されていったのです。
透視図法は絵を描く画家を、あるいはその絵を見る鑑賞者を世界の中心に置く、というところから「個の中心性、絶対性を保証する」もの、として捉えることができます。ところが、この図法によって確立された「個」は、「個」としての表現を先鋭化させようとすると、遠近法の普遍性と対立してしまうのです。これは、どういうことでしょうか。私たちは、透視図法という「プリベンション」によって「個」の視点を得たのですが、そこで確立した「個」が「個」としての表現を高めようとすると、決まりきった透視図法という図法からはみ出そうとしてしまうのです。例えば、歴史的な視点で見てみましょう。遠近法の確立によって画家は写実的な表現が可能になりました。いわゆる、古典的な絵画がそれにあたるでしょう。しかし、ほどなくそれをつき崩そうとする絵画、ロマン主義が誕生しました。さらにその流れが、現代の表現主義や抽象表現へと繋がっていきます。ただし、それらがどんなに「個」の表現を先鋭化しようとも、結局のところ、同じ透視図法という「プリベンション」から発したものであるかぎり、その影響関係から逃れられない、いわば「遠近法のとりこ」であることには変りがない、というのが宇佐美の見解です。

近代的な個性とは遠近法から誕生したのであった。
裸婦や港を前にして、図法としての遠近法にしたがって表現の現場をつくる画家は、明らかに遠近法をプリベンションとしている。そして図法としての遠近法とはもはや何の関係もないやり方で、裸婦や港を前にして彼独自の表現を引き出す画家もまた、例えそれがほとんど抽象紋様のようなものになった場合ですら、やはりプリベンションとしては、個の特異性の主張によって遠近法を用いたと言えるのである。
(『絵画論』宇佐美圭司 p19)

この論理でいけば、ほとんど遠近法と関係ないような表現主義的な絵画でさえ、「個」の表現を志向していることから、「遠近法のとりこ」である、と解釈できます。彼のセミナーの学生たちは、「自らの視覚・感性から発生するイメージをいかに解釈しても、もしそれが表現に至るなら、プリベンションのレベルにおける遠近法のとりこになってしまう」と感じ、それゆえに表現が「つまらなく」思えて、「表現の現場が持てないでいる」というのです。だから空白の画帳をかかえたままでアトリエに戻り、「遠近法にかわるプリベンション」をつくるしかない、という結論に至ります。
この宇佐美圭司の「プリベンション」の理論は、何を描いても「遠近法のとりこ」になってしまうわけですから、「個」の表現を目指す画家は、まるでお釈迦様の手の中で遊ばれる孫悟空のようなものだと言えるでしょう。そして、この『絵画論』では、ジオット(Giotto di Bondone 、1267 -1337)から、レオナルド(Leonardo da Vinci 、1452 - 1519)、マチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)、ピカソ(Pablo Picasso, 1881 - 1973)、モンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)といった名だたる巨匠たちでさえ、あるいは巨匠たちだからこそ、「プリベンション」の観点から整理され、その表現の限界を指摘されてしまうのです。とくにマチス、ピカソ、モンドリアンにおいては、彼らが近代的な合理性の意識によって表現の普遍性を追求したことから、「均質空間」という表現の限界を作り出してしまった、と解説されています。そのことを、宇佐美は次のように書いています。

近代美術、特に、私たちに親しいここ1世紀の美術運動の展開は、個の特徴に根ざして発散しながらも一方でそれと相矛盾した凝集力をイメージしはじめたといえるだろう。個の特異性の彼方にある普遍的なものにたどりつきたいという欲求がそれである。
普遍性追求の意識は、近代合理主義精神のもとでの学問の普遍性追求の姿と同じく、細分化された部分の普遍性を語れば、その集合体としての全体が語れるであろうということであった。
ごくおおざっぱに振り返ってみても、外界を光に、そして光を原色の色点に分解するという表現形式を作った印象派の運動、分子運動を連想させるセザンヌの基本形体への接近。さらには、自然を抽象的な形態素や記号としての色で再構成しようとした立体派の運動、等々。
(『絵画論』宇佐美圭司 p32)

このような観点から、モンドリアンの水平線と垂直線だけで表現された構成や、マチスの切り絵に代表される単純化された形体、ピカソの分析的なキュビズムのミニマルな画面、などが普遍性の追求のもっとも進んだ事例として挙げられています。その結果、彼らの画面は「均質空間」の危機に陥ってしまったのです。例えば、マチスの切り絵作品は、単純化された結果「一枚の画布に戻してしまう一歩手前まできていた」と指摘されています。もしも均質な一枚の画布になってしまえば、マチスという表現者すらどうでもよいものになってしまいます。極端なことを言えば、マチスが描いても私が描いても、ほとんど同じだということなのです。

それはどのような偉大な個性においてもまぬがれえぬ空間の檻なのだ。抽象表現が循環系の中に封じ込められたのである。ピカソやマチスが1910年代に予感した暗闇は、私たちの表現状況をおおっている。客体における「見えるもの」と「見えないもの」が対峙し、より拡大された領域の新たなものが表現されるといった弁証法的な関係が成立しなくなった。
(『絵画論』宇佐美圭司 p103)

これは、物を見ながら描くことの延長線上にある表現はすべて、その可能性が閉ざされている、ということなのです。それならば、どうしたらよいのでしょうか。
「個」の表現において、現代美術史のなかでもとりわけユニークだったのがデュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)です。「個」としての表現を追求することが、「遠近法のとりこ」になることを意味するのであれば、その逆に「個」という概念からはずれた表現をすれば、その呪縛から逃れられるのかもしれません。デュシャンは「レディ・メイド」という、大量生産の工業製品をほぼそのまま提示する手法を用いました。彼はこの表現によって、「個」とか「個性」などという問題からすり抜けてみせたのです。さらに彼は、『グリーン・ボックス』という箱を制作し、その箱の中に自分の作品のアイデア・スケッチや制作メモなどを封印しました。このことによって、デュシャンは自分の発想や制作過程といったものと同時に、そこに含まれる「個」や「個性」を箱に封印したのです。いささか観念的で、芝居がかったやり方ではありますが、この作品によって作品制作の要因や、「個」、「個性」といったものが、デュシャンという一人の人間から離され、あたかも客観的なものとして取り扱うことが可能である、というふうに印象づけられたのです。このデュシャンの手品のような手法が、作品の「プリベンション」を誰が見てもわかるような客観的な構造として提示する方法に、道を開いたのです。
宇佐美が「遠近法」にかわる「プリベンション」として探究したのは、まさにこの客観的な構造としての「プリベンション」でした。宇佐美が自分の作品制作のためにとった方法は、人間の普遍的な姿態やプロフィールを、ある一定の方法によってずらしたり回転させたりしながら作画する方法でした。この方法によって、絵を描くための「プリベンション」を作品そのものの構造にゆだねる、という宇佐美独自の絵画が生まれたのです。

それは、あたかも作品の決定者が、表現主体である私個人から構造に移行した観を呈する。表現者としての私個人の側から言えば、構造は、私個人の思考や、嗜好の紆余曲折を経て造りだされた。それは一見単純な図形だけれども、図形が構造として、私の想像力をゆさぶり、4年間を経過した現在でもなお、活性である。作品から、表現主体としての人間がたちあらわれず、無名なシステム―私の方法論からすればプリベンション―が姿を現すからといって、表現主体の重要さが軽くなったわけではない。
(『絵画論』宇佐美圭司 p43)

宇佐美圭司の作品をご存じない方は、インターネットで検索してみれば、容易に見ることができるでしょう。この文章は彼の作品を解説するためのものではないので、これ以上の深入りはしません。しかし、『絵画論』が出版された当時の状況を知るために、宇佐美の「プリベンション」と関連するような作品について、もうすこしだけ書いておきます。
例えば、宇佐美圭司の方法論に近い作家がいるとしたら、どんな作家でしょうか。宇佐美自身は『絵画論』のなかで、新たな絵画空間の「プリベンション」へと至る過渡的な作家として、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930 - )をあげています。地図や数字、国旗などの記号を扱った彼の作品は、たしかに遠近法とは異なる絵画空間を示唆していました。

彼は記号を選択する。それはこれらの記号の性格である近代的な空間意識を表現するためではなく、それに対峙する空間の生成に立ち合おうとするためである。
私が先にのべたジョーンズの過渡期的な表現とは、不可避的に前提とされる既成空間と、新たに生成する空間といった異なる二者の緊張関係の出現を指していたのであった。
(『絵画論』宇佐美圭司 p155)

このジャスパーを論じるにあたって、宇佐美はジャスパーのように画面上にアクションの息遣いが伝わる画家として、ポロック(Jackson Pollock, 1912 - 1956)を引き合いに出しています。しかし、「ポロックのアクションを規制するものは、ポロックその人でしかなかった」ということから、つまりポロックは「プリベンション」が内因的であるという点から、近代的な空間意識の画家である、と主張しています。一方で、ジャスパーについては、その地図や数字の作品が「隣接する形体相互が自己主張して、アクションをコントロールし、複雑に屈折してテクスチャーを形成する」ということから、「プリベンション」が外因的であり、現代的な新しい絵画空間を模索した画家である、と見なされたのです。宇佐美はポロックとジャスパーのあいだに、表現の移り変わりのくさびを打ちこみ、後者の表現に新たな可能性を見たのです。
さらに話を広げますが、この本が出版されたころ、ミニマルな表現から出発した画家、ステラ(Frank Stella, 1936 - )がずいぶんと話題になっていました。『絵画論』では取り上げられていませんが、彼の初期の作品も幾何学的なシステムを外因性としてはらんだ作品とみなされ、評価されていたと思います。その当時、東京の画廊を回ると、そのうちの何軒かでは幾何学的なシステムを試みた作品が見られました。しだいにシステムの外因性のアイデアを競い合う若い作家たちが現れ、ゲームや占いのボードを模したような作品も出てきました。彼らは私と同い年くらいの若い作家でしたが、雑誌や企画展などでさかんに取り上げられていました。絵画の伝統的な勉強はさておいて、図形をあれこれといじってみたり、見栄えの良いゲームボードを作ったりすれば評価されるわけですから、技術も年齢も関係ないわけです。彼らのことを悪く言うつもりはないのですが、そのなかで宇佐美のように絵画空間の在り方を深く追究したうえで、そのような表現に至った作家がいったい何人いたのだろう、とすこし疑問に思う次第です。

さて、前置きが長くなりました。
ここまで書いておいて、こんなことを言うのも何なのですが、高橋圀夫の作品と宇佐美圭司の作品は、似ても似つかないものです。しかし私は、高橋圀夫の作品を宇佐美圭司の「プリベンション」の概念から読み解いてみると、その作品の価値が分かりやすく、また興味深い考察ができるのではないか、と考えたのです。
高橋の「重ね塗り」という方法について考えてみましょう。
まず、その「重ね塗り」の作品の、はじめの絵が描かれた段階について考えてみます。その絵の「プリベンション」は、どのように規定できるのでしょうか。はじめの絵をどう描くのか、は画家である高橋の内面的な動機によって決定されます。いわばそれは、画家の恣意的な表現なのです。はじめの絵の「プリベンション」は、内因性のものとして規定できます。
しかし、それが「重ね塗り」された絵、つまり上から絵が描かれた段階では、どう変わるのでしょうか。それは、初めの絵の上から描かれた、という点から考えると、地図や記号の上から絵の具を塗ったジャスパーのケースに似ているような気がします。しかし、ジャスパーが地図や記号の境界線を意識しつつ、ときにその線に従い、ときにその線を乗り越えて、というやり取りの中で制作を進めたのに対し、高橋の作品では、上から描かれた絵は、実は、はじめに描かれていた絵とは関係なくエスキースを別に描いておき、そのエスキースにそって描かれたものなのです。そうしなければ、上から描く絵が下の絵に影響されてしまい、「重ね塗り」したということにならないからです。
これはジャスパーのケースとは、明らかに異なります。ジャスパーの作品では、上から絵具を塗ったとはいえ、あくまでも制作の「プリベンション」は下図の記号にあったと思います。高橋の場合は、はじめの絵と「重ね塗り」された絵とは、それぞれ別の「プリベンション」によって描かれているのです。その一方で、高橋は上から描く絵を、版で重ねたように機械的に仕上げているわけではありません。そこが微妙なところで、上から絵を重ねて描きつつも、下の絵が完全に見えなくなってしまわないように、逡巡しながら描いているのです。そうしなければ、下の絵は単なる上の絵の下地になってしまうでしょう。
このような複雑な過程を経た高橋圀夫の作品ですが、その「プリベンション」は、はたして内因的なものでしょうか、それとも外因的なものでしょうか。作品の決定要因はつねに高橋の内面にある、という点では内因的である、と言えるでしょう。しかし、この作品を描いた画家は、一人の高橋圀夫ではありません。数年前にはじめの絵を描いた高橋圀夫がいて、現在の絵を重ね塗りした高橋圀夫がいるのです。いわば、時間を隔てた二人の画家に、それぞれの決定要因があるのです。しかも一人目の高橋圀夫は、のちに自分の作品に手が加えられることをまったく前提にせずに制作していますし、二人目の高橋圀夫はできるだけ一人目の自分を意識せずに描くことを旨としているのです。これは、高橋圀夫がかたくなに守っている制作方法です。ですから、この「重ね塗り」の絵は、作品の決定要因を二人の高橋のうちのどちらかに偏らせることなく、いわば一枚の絵としての決定要因を解体させる仕掛けをもった、稀有な作品だと言えるでしょう。
このような作品を、はたして宇佐美は予想できたでしょうか。高橋の作品の決定要因は、外因的とは言えません。しかし、一人の作家の内面に収斂するような、単純な構造でもありません。その結果、高橋圀夫の作品は不思議な伸びやかさと、重層的な広がりを有したのです。

このことから私は、宇佐美が感じていた現代絵画の危機とは、実は「プリベンション」が内因的であるとか、外因的であるとかということとは、別な点に原因があると考えます。宇佐美の『絵画論』は、これから描かれるべき絵画の条件として、「プリベンション」が外因的な構造を持つことを前提としていますが、私はそこに違和感を覚えます。本当に大切なことは、画家が絵画とどう向き合うのか、というきわめて現実的な態度の問題だと思います。新たな「プリベンション」を見つけ出せたからといって、逃れられる問題ではありません。そこに「限界」や「危機」を作り出してしまうのも、画家自身、人間自身に他ならないのです。
「失画症」の学生たち、それは私の世代以降の表現者たち、という言い方もできると思うのですが、彼らがやるべきことは、自らの「失画症」の原因を疑い、その根拠を自分自身で確認することだと思います。高橋が私たちに示してくれた「重ね塗り」の方法論にしても、彼が現代絵画を徹底的に研究し、試行錯誤を繰り返した結果、得たものです。絵画を構成的に描こうと、オールオーバーに描こうと、どうもしっくりとこない・・・、複数の作品を同時に並べてみても、うまくかみ合わない・・・、そんな繰り返しから、一枚の画面の中で二点の作品を重ねて描くことに辿りついたのです。
この高橋圀夫の絵画の成果について、私はある感慨をもってながめてしまいます。1980年代、現代絵画が袋小路に入ってしまったと言われた時期に、宇佐美圭司は「描くことの復権」というサブタイトルとともに、『絵画論』を世に問いました。しかし、宇佐美の言うところの「描くことの復権」とは、彼の規定する「プリベンション」を、新たに発見しなければ得られない「復権」でした。私は『絵画論』を著した宇佐美の力量に感服しましたが、残念ながら力をもらうことはできませんでした。そしておぼろげに、自分なりに宇佐美とは違った解を求めなくてはならない、と思ったのです。そんな私から見ると、高橋圀夫の現在の仕事は、宇佐美の「プリベンション」の理論を予想外の形で乗り越えたもののように思われます。高橋からすると、これは自分がやるべきことをやってきた成果であり、他人の唱えた理論のことなど何の関係もない、ということになるのでしょうが、私の眼から見るとこれが別な意味を持っているのです。

何だか、余計なことを書き連ねてしまいました。高橋圀夫の作品のすばらしさを語るには、もっと直接的な方法があったのに、今回は私が若いころに読んだ一冊の本との関係から論じる、という回りくどい方法をとってしまいました。高橋の「重ね塗り」が、現代絵画の歴史の中でどういう意味を持っているのか、ということを多くの方に、とくに1980年代を経験していない若い方にも知っていただきたい、と思ったからです。
私は、宇佐美圭司が1980年代に自分の考えをきっちりと理論化し、一冊の本の形で届けてくれたことに尊敬の念を抱いています。そしてもちろん、現在の高橋の作品の成果にも、大いなる敬意を表します。
それぞれの美術家が、自分の信念に基づいてその方法論を語り、その方法論を実践し、それぞれが自分なりの成果を上げることが、現代美術を豊かなものにする、という当たり前のことをいまさらながら実感します。どちらかが正しいということではなくて、それぞれが自分や他人の方法に対して違和感を抱えながら、それを克服していくことが重要です。根気よく継続したものだけが、批評や作品の成果として報われるのです。

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