平らな深み、緩やかな時間

85.『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦

『カント 美と倫理のはざまで』という本があります。熊野純彦(1958- )書いた本で、哲学者カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)の『判断力批判』に関する本です。
『判断力批判』は、カントの『純粋理性批判』、『実践理性批判』に次ぐ第三の批判書と言われる本です・・・とわかったようなことを書きましたが、私は哲学について、まったく無知な人間です。ですから、ここからの話は聞きかじりの情報、斜め読みの知識になりますので、ご容赦ください。もしも詳しい方がこの文章を読んでいらしたら、いろいろとご教示いただきたいところです。そしてもしも、あなたが私と同様の知識の浅い方(失礼な言い方でしたら、ごめんなさい)でいらしたら、一緒に戸惑い、少しずつ進んでいただけたら幸いです。
さて、そのカントの三冊の批判書についてですが、カントは、はじめに『純粋理性批判』を書き、人間の理性認識について、つまり私たちがものごとをどう知るのか、について考えました。その次にカントは、『実践理性批判』を書き、『純粋理性批判』で考えた理性認識をどう実践するのか、つまり私たちは道徳的に、あるいは倫理的に何をなしうるのか、について考えました。しかしカントは、それだけでは人間の認識能力の広大な部分を見逃しているのではないか、と考えたのです。そしてカントはその広大な部分を、人間の欲求、快・不快の感情につながる領域にあると見定め、それを「判断力」という言葉で考えることにしたのです。ここでいう「判断力」とは、「美学的判断力」のことで、一般的な、広い意味での「判断力」ではありません。ちなみに『〇〇批判』の「批判(Kritik)」という言葉も、欠点などを指摘しながら論じる、いわゆる「〇〇を批判的に論じる」という意味ではなく、ものごとを原理的に、よく考えて吟味する、という意味だそうです。
ということですから、美術や芸術について興味がある人なら、一度はカントの『判断力批判』を読んで、「美」について原理的に考えてみるべきだ、と思うのですが、実際にカントの本を開いてみると、どれを読んでもチンプンカンプンです。「美」に関する話だとは言っても、『判断力批判』もその例外ではなく、何を論じているのかよくわからないままに、文字面だけ追いかけていくことになってしまいます。
例えば、岩波文庫の上巻の目次に、「趣味判断の第二様式―その『分量』 六 美は概念を用いずに普遍的適意の対象として表象されるところのものである」(『判断力批判(上)』カント著 篠田英雄訳 p4)という項目がありますが、「普遍的適意」という言葉ひとつにたじろいでしまいます。

そこで『判断力批判』に関する、何かよい解説書はないものか、とこれまで探してきたのですが、意外とないのです。そんななかで見つけたのが、この『カント 美と倫理のはざまで』という本です。この本は、『判断力批判』のわかりやすい解説書、とは言えないのですが、「カントの批判哲学が最後に辿りついた第三の書『判断力批判』から、その世界像を読み解く鮮烈な論考」(本の帯より)なのです。この本自体が「美」について考える本格的な哲学書なのですが、その中に美しい文章が散見されます。
例えば第1章のはじめの方に、このような文章があります。

 大地と大海、大気と河川(ならびにそこに住みついているものたち)はむかしから人間の生存の場となり、交通の手段ともなって、また食物を提供している。それらは、人間が世界に棲みこみ、自然のなかで生を紡ぐうえで不可欠の条件である。だがそれだけではない。
 世界あるいはここでは自然は、そのうえときとしてひどく美しい。自然はたんに人間にとって有用であるばかりではない。自然はそれにくわえて、いわば惜しみなく美を与えている。美は、自然のなかでおそらくは過多であり、過剰であって、自然自体にとって一箇の余剰でありうる。つまり、自然が自然そのもののために美しいものであるとは、とりあえず思われない。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p11)

この引用の中の、「自然はそれにくわえて、いわば惜しみなく美を与えている」という一節に、私は共感するとともに、感銘を受けます。なぜかといえば、例えばある夏の日の夕方、何気なく見ていた道ばたの街路樹が、夕日に照らされてとても美しく見えたとしましょう。私はその発見をとても喜ばしく思うと同時に、私が発見するよりもずっと前から、その景色がそこにあったことに驚きを感じます。「美」というものは、私の感じ方の問題であると同時に、それよりももっと大きなもの、広がりのあるものとしてそこに存在していたのです。「自然」が「惜しみなく美を与えている」というこの本の言い方が、そのことをとてもうまく表現している、と私は思うのです。

そのすばらしい「美」というものですが、それは一人一人の人間が感じ取るものです。その感動が大きければ大きいほど、その思いを他の人と共有したくなります。しかし、それが困難なことなのです。社会的なルールであるとか、科学的な理論であれば、その正しさや妥当性によって、多くの人と共有することが可能でしょう。しかし、「美」についていえば、例えばあるものを「美しい」と言ってみたところで、それで本当に私の真意が伝わったのか、というとよくわからないのです。私があるものを見て「美しい」と感じたことは、とりあえず了解してもらえると思いますが、その中身となると、何とも心もとない気持ちになります。
カントはこのことを徹底的に考えましたが、さすがにスケールが大きく、「美」を個人的な好みや感想の問題ではなく、人間にとって普遍的な問題として考えたのです。『カント 美と倫理のはざまで』では、つぎのように書かれています。

美とは、やがて見るとおり、合目的性の一種である。自然の形式が美しいのは、しかも人間にとってのみのことであり、「人間の眼に対してだけ、美はやはり合目的的」なのである。しかし自然は、人間の視界をはずれた大海の深底にあってすら、美に満ちている。いったい自然はなぜこれほどまでに惜しみなく、「いたるところで美をまき散らしている」のだろうか。
こうした問いに、ここでただちに答えることはできない。それは一箇の目的論的な問いかけ、世界の目的を問題とする問いかけでもありうるからである。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p12-13)

「美」が「合目的性の一種」であり、「自然の形式が美しいのは、人間にとってのみ」ということが言われていますが、その考え方の裏には何があるのでしょうか。ただ感覚的に心地よい、「快」を感じるだけでは、動物的な感受性の域を出ません。人間が「美」を感受するには、それに加えて人間的な何かがあるはずなのです。この点については、あとでもう少し詳しく考えてみましょう。
それでは、「美」を感じ取る、ということは、どういうことなのでしょうか。『カント 美と倫理のはざまで』の中から、カントの引用部分を書きとってみましょう。

或るものが美しいか否かを区別するために、私たちは表象を、悟性をつうじて認識のために客観に関係づけるのではない。むしろ(おそらく悟性とむすびついている)構想力によって、主観と、主観の快あるいは不快の感情へと関係づける。趣味判断は、かくしてなんら認識判断ではなく、かくしてまた論理的なものではなく直感的なものである。そのさい直感的ということで、それを規定する根拠が主観的であるほかはありえないものが理解されている。表象が有する関係はすべて、感覚のそれであっても客観的なものでありうる(そしてそのばあい関係が意味するのは、なんらかの経験的な表象における実在的なものである)いっぽう、快不快の感情に対する関係だけはそうではない。後者の関係をつうじては、まったくなにごとも客観についてしるしづけられるところがないのであって、その関係にあっては主観が、この表象によって触発されるとおりにみずから自身を感受するだけなのである。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p14-15)

いかがでしょうか。何を言っているのかわかりにくいのですが、おそらくはこういうことです。何か美しいものと出会ったとき、私たちは心地よい感じを持ちます。つまり「快」を感じるのですが、「美」を感じる、とはそれだけではありません。「感覚のそれであっても客観的なものでありうる」と、カントは書いています。
それでは、「美」における「直感的」なものと「客観的」なものとは、どういう関係にあるのでしょうか。
例えば、あるものの「美しさ」について、そのものに対する客観的な理解を深めれば、その「美しさ」をよりよく感じ取ることができるのでしょうか。花の美しさについて考えてみましょう。花の構造についてくわしい植物学者が、花弁とはどういうものなのか、科学的によく知っているからといって、花の美しさをよりよく感受できるとは限りません。むしろ、花を美しいと感じるときには、そんなことを忘れているでしょう。
そう考えると、ここで言うところの「客観的」とは、客観的な事実や出来事などに対して使われるときの「客観的」という意味ではないようです。もっと複雑で、割り切れないものだと思われます。熊野純彦は次のように解説します。

要するに趣味判断はひとえに「観照的」なものなのだ。快適さの感覚なら、動物でも手にしていることだろう。美はこれに対して―感覚を有することで動物的な存在であるとはいえ、同時に理性的な存在でもある―人間に対してだけ妥当する。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p18)

この「観照的」という言葉がまた難しいのですが、ここでは感覚的でありながら、その「快適さ」を冷静に見つめるようなことを指しているのでしょう。動物は感覚的に「快」を感じるだけですが、人間にはそれを「美」として感受できる何かがある―「快」の感覚を「客観的」に見つめられる何かが人間にはそなわっている、ということでしょう。その何か、とは「理性」とか「知性」としか言いようのないものです。これらの言葉の概念が「直感的」とか「感覚的」という概念と普通では相いれないところが、私たちの困惑の原因でしょう。
カントは「客観的」と同じような意味合いを持つ「普遍的」という言葉も使って、このことを論じています。先に見た『判断力批判』の目次に含まれていた言葉を、思い出してみてください。難しいと感じた「普遍的適意」という言葉です。「意に適う」、つまり一人の人間の気持ちの中で起こる心の動きが、「普遍的」という他者と分かち合える概念と結びついているところが、この言葉を難しくしているのですが、カントは次のように説明しています。

美のかかる説明は、一切の関心にかかわりのない適意の対象としての美に関する上述の説明から当然推及せられ得る。何びとといえども或る対象に関する彼の適意が一切の関心にかかわりのないものであることを意識する限り、彼の適意には同時にすべての人に対する適意の根拠(普遍性)が含まれていなければならないという判定に達せざるを得ないからである。実際この場合の適意は、主観のいかなる傾向にも(そればかりでなく、熟慮によって生じたいかなる傾向にも)基づくものではない、また判断者も、彼が対象について求めるところの適意に関してまったく自由(傾向から)であることを自覚しているのである。すると彼は、自分の主観がもっぱら拠りどころとしている個人的条件を、かかる適意の根拠と認めるわけにはいかなくなる。つまりこの適意は、彼が他のすべての人についても例外なく前提し得るところのものに基づいていると見なさなければならない、そこで彼は、すべての人に対して彼と同様の適意を要求する理由を持つと信ぜざるを得ないのである。
(『判断力批判(上)』カント著 篠田英雄訳 p84-85)

この説明に関する私の解釈ですが、例えば私が花を見て、美しいと思ったとします。その感情の中に、「花=美しい」という先入観であるとか、社会的に刷り込まれた概念であるとか、その花に対する個人的な思い出であるとか、「珍しい花だ」というような予備知識であるとか、そういった「一切の関心」にかかわりなく、純粋にその花を美しい、と感じたなら、その「適意」は「他のすべての人についても例外なく前提し得るところのものに基づいている」、つまり普遍的なものであると見なさなければならない、と言っているのです。なぜなら、それは主観的な「一切の関心」にかかわりがないものだからです。
ちょっと、だまされたような気持になりますね。それでは、花を美しいと思った気持ちが主観的なものではないとするなら、それは客観的な事実だ、と言い切れるのか、とつっこみたくなります。カントはそうではない、と言います。「趣味判断は、客観に依存するような普遍性をもつものではない」(『判断力批判(上)』カント著 篠田英雄訳 p85)とも書いています。花を美しいと思った感情は、私の心の中で湧きおこった以上、主観的なものではありますが、だからといって他者と分かち合えない、と切り捨てることもできない、むしろ、その気持ちが純粋なものであるならば、他のすべての人と分かち合えると考えるべきだ、というのです。それは客観的な事実に基づくものだから、「普遍的」だというわけではないのです。それは、他の人と分かち合える、と考えられるという点から「普遍的」であり、その点において、ある種の「客観性」をもつものだ、とも言えるのでしょう。

かなり複雑な論理ですが、そのような微妙な「美しさ」について、私たちは本当に語りあうことが可能なのでしょうか。その点について、『カント 美と倫理のはざまで』の中で、次のように書かれています。

たとえば穏やかな春の日、さざ波を汀にうちよせてはかえし、水平線のかぎりまでひろがる海は美しい。なだらかな稜線が秋の日に映えているほど高い山もまた美しい。自然の美はかたちにやどる。美しいもののかたちをたどるとき構想力はうらぎられることがない。なだらかな稜線を目でかたどるとき、ひとの構想力は、それまでも目を愉しませてきた柔らかな曲線のイメージをなお現在にとどめ、いつでもつぎにあらわれる柔和な線のつらなりを予測している。美しいものの判断にあって、構想力はかたちのさだまったものに同調しながら、不意うちされることのない形式のうちで自由にたわむれているはずである。伝達されるのは、快適さではない。「認識能力のこの自由なたわむれの状態」こそが、美しいものの判定にあって、普遍的に伝達可能でなければならないのである。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p26)

例えば山並みの稜線の美しさについて、「美しくて心地よい」と言ったところで、それは自分の快適さを述べただけで、何も伝達したことにはなりません。柔らかな稜線を右から左へと(もちろん、逆でもよいのですが)目で追いかけるとき、私の中で心地よいイメージが生まれ、それが現実の稜線と重なり合い、自由にたわむれることができる状態になります。これが主観的な感覚と、普遍的な美しさとの接点であり、その状態についてならば、「伝達可能でなければならない」ということなのでしょう。
それでは、その美しさをどう他人に伝達するのか、・・・それは一人一人の宿題になるのでしょうね。ただ、確かなことは、「美しさ」を感受することは単なる快感ではありませんから、自分の内面に問いかければ、きっと何かの言葉になるはずです。

それにしても、ここで書かれているような、山の稜線が柔らかなイメージとして、私の中で自由にたわむれる状態というのは、どうして生じるのでしょうか。そもそも、山の稜線にどうしてそのような力があるのでしょうか。実は、これがカントにとって重大な問題です。
言うまでもないことですが、山の稜線は私の眼を愉しませることを目的として、地上に形成されたわけではありません。しかしそれにもかかわらず、自然界の摂理で生まれた山の稜線の中に私の気持ちと響き合う何かが用意されていなければ、私の中で「美しさ」が生じることはなかったでしょう。
この文章の初めのあたりで引用した文の中に、次のような一節がありました。「美とは、やがて見るとおり、合目的性の一種である。自然の形式が美しいのは、しかも人間にとってのみのことであり、『人間の眼に対してだけ、美はやはり合目的的』なのである。」という一節です。自然は私の眼を愉しませる「目的」で山を形成したわけではないけれど、私の眼にとっては「合目的」であるとしか思えない―あたかも私のために「美しさ」を用意してくれていたような感じがする、という意味の文章なのでしょう。
『カント 美と倫理のはざまで』を読み進めると、「目的を欠いた合目的性」という言葉が、この本の後半で用いられていてます。カントにとって「目的」という言葉、概念が、かくも重要なものだったのです。ほかにも「目的論的」、「究極的目的」、「美と目的」などと、「目的」という言葉が、章を変えて次々とあらわれてきます。カントの哲学全般を見るならば、「美」がどのような目的をもって存在し、この世界に位置づけられるのか、が重要なことなのです。そして、そのカントの思考の軌跡をたどることが、この『カント 美と倫理のはざまで』という本のモチーフなのです。
そのことを心して、あらためて「まえがき」から、本の最後の一節までの言葉を引用してみます。

ひとは生の目的を問い、世界の意味をたずね、哲学者たちに対してその答えをもとめる。このこと自体はおそらくは正当なところだろう。問いは切実であり、思考にとって避けがたいものでもあるからだ。哲学者たちが残したテクストは、とはいえ多くのばあい、そうした問題に対して解答を与えるものではない。あるいはすくなくともただちに与えるものではない。そしてこの件も、ある意味では正当なことがらなのである。哲学的思考は回避し、迂回するものだからだ。
近代を代表する哲学者のなかでは、カントもまたそうである。あるいはカントの哲学こそが、すぐれて回避する思考であり、迂回することで、生の目的と、世界が存在する意味とをめぐって答えようとした思考であった。この本でたしかめてゆきたいのは、ことがらをめぐるその消息である。カントの世界像が、かくてあらためて問われなければならない。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p1-2)

第三批判は、美と崇高を論じ、世界を目的論的に理解する可能性について考察している。まずは最初の問題、美をめぐる問題から考えてゆくことにしよう。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p10)

判断力に対しては、自然そのものが「技術的なもの、つまりその産物において合目的的なものとして」あらわれる。自然がしめす美は、その形式的合目的性のあらわれである。これに対して自然が一箇の目的の体系として立ちあらわれるとするなら、その合目的性は客観的なものとなる。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p298)

生は世界によって肯定されている。自然は、みずからを超える次元を人間の倫理のうちで告知している。美と目的とを世界のなりたちのなかで、とはいえ最終的には自然の構造を超えて探究することによって、人間の生の意義はあかされ、かつ世界の存在の意味がしめされる。カントが『判断力批判』のうちで展開した思考とその非明示的な背景とモチーフを、批判哲学総体の布置のなかで跡づけることをこころみた、本書における私たちのくわだても、かくてまたその結語へと逢着したこととなるはずである。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p299)

4か所も引用して申し訳ないのですが、これらによってカントが『判断力批判』を書いた意図が、すこしはわかると思います。カントにとって、美を世界の中でどう位置づけるのか、が重要なのであり、そのことによって人間の生について考えたかったわけです。ですから、カントの哲学全体を見ていかないと『判断力批判』を読み解くことはできないのでしょう。大変なことですが、たぶん、そういうことだと思います。

そんなわけで、カントは「美」が存在することを前提にして、その価値を鑑定士のように語る人とは、まったく異なります。ですから、『判断力批判』を読んでみても、どんな絵が良い絵なのかよくわからないだろうと思いますし、自分の描いている絵、あるいはあなたが収集家であるなら、ご自分の所有している絵の権威付けにも、さっぱり役に立ちそうもありません。
さて、それでは『判断力批判』のなかで、芸術に関する「美」は、どのように書かれているのでしょうか。『カント 美と倫理のはざまで』のなかで、芸術について解説しているところを引用してみましょう。

カントの定義によるならば、「自然美とは美しい事物である。いっぽう芸術美とは或る事物についての美しい表象にほかならない」。定義の内容についてはさきに言及したところであるけれども、ここでもういちど立ちいって考えてみる。
一般に「表象」とは、ひとつにはなにか或るもののかわりになるもの、当の或るものの影のことである。自然の事物はそのものとして美しい。表象としての芸術作品は、美しい自然を写しとって、それゆえに美しい。ここに存在するのはあきらかに、順序づけ、価値づけるカントの基本的な身ぶりである。そればかりではない。カントはほとんど芸術作品と人工物一般とをならべて、その両者との対照で自然美のみをつねに賞賛しているのだ。
(『カント 美と倫理のはざまで』熊野純彦 p156)

芸術は、美しい自然を模倣したものであるから、「美」の順序がちょっと下がる、ということのようです。カントは音楽についてさらに辛辣なことを書いています。聞きたくない人にも聞こえてしまうので、音楽は「他者たちの自由を毀損してしまう」とまで言っているのです。カントが現代に生きていて、都会の喧騒を体験したらどんな感想を持つのだろう、と意地悪な想像もしたくなりますが、それはともかく、私たちはカントの言葉を絶対的なものとして鵜呑みにするのではなく、カントの生きた時代、カントの時代の芸術が現代とはいかに違っていたのか、ということを考えなくてはなりません。カントと同時代といえば、美術史でいえばロココの時代、音楽史でいえば古典派の時代です。自然をあえて模倣しないで描く、表現主義の絵画や抽象絵画はまだ生まれていません。また、音楽を鑑賞する機会と言えば、教会か音楽会がほとんどだったでしょう。レコード・プレーヤーもまだありませんから、生で聞く音楽以外は存在していませんでした。プロイセン王国(現ドイツ)の首都、ケーニヒスベルクという街からほとんど出ることがなかったというカントが、同時代のすぐれた芸術作品に触れる機会も限定されていたことでしょう。
現在の私たちにとって、芸術作品をその表面的な美しさだけではなく、人間の営みのなかで生み出されたものとして多面的に捉えることがすでに常識となっていますが、それはカントの時代とは明らかに違っています。私たちは古典的な作品を見るときに、その時代に思いをはせて作者の技量や創造性を推し量りますが、カントにおいても具体的な芸術について語る言葉を云々するときには、そのような想像力が必要でしょう。言葉尻を捉えてカントを誤解しないためにも、カントの思想全体や、彼の生きた時代、その立ち位置などを知る必要があるのでしょうね。

それにしても、200年以上前に、大哲学者のカントが世界と真摯に向き合ったときに、最後の「批判」の書として『判断力批判』を書いたこと、さらにそのなかで「美」の問題と正面から向き合ったことは、とても興味深く、またうれしいことではありませんか。人間にとって「美しさ」を感じ取ることが、それほど重要なことだとカントも思ったのです。それは現在の私たちに、何ごとかを示唆していると思うのですが、いかがでしょうか。「美」について人間は語り合える存在なのだ、とカントが言ったことを、私は実践しつつ、これからも折に触れて学んでいきたいと思います。

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