平らな深み、緩やかな時間

219.個展終了、グリーンバーグと沢山遼

相変わらずの悲惨なウクライナの状況ですが、そんな中で気になる記事がありました。それは「ロシア人の宿泊拒否をHPに記載 滋賀の旅館、指導受け削除」という見出しの記事です。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/171235
日本在住のロシア人の中には、自分の身の危険を侵してまで反戦運動を進めている方もいます。ロシア人というだけで宿泊拒否をするのは、やはり間違っていると思います。しかしその一方で、ロシアがウクライナにしかけていることの非道さを見ると、ロシアの為政者やロシアの軍隊を憎む気持ちが湧いてきます。自分の中にも憎しみの連鎖が働いていて、どうにもやるせない気持ちになるのです。
そんな時に、以前読んだハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906 - 1975)の新書版の評伝(中公新書 矢野久美子著)のことを思い出しました。その中にアーレントが書いた『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』に関することが書かれていたのです。アーレントはナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の責任者であったアイヒマン(Karl Adolf Eichmann、1906―1962)が1960年に逃亡先のアルゼンチンで捕らえられ、1961年4月からイスラエルのエルサレムで付された裁判にかけられたことについて、書いたのでした。
残念ながら、私はその本を読んでいませんが、出版社による本の紹介は次のホームページで見ることができます。
https://www.msz.co.jp/book/detail/08628/
先の新書によれば、アーレントはアイヒマンのことを「怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男」だと書いたのだそうです。そのことによってアーレントは「非難の嵐に巻き込まれ」たということです。私は肝心の『エルサレムのアイヒマン』を読んでいないのですから偉そうなことは言えませんが、アイヒマンのことを「悪の権化」として裁いて溜飲を下げてみてもそれはその時だけのことで、「凡庸な男」がどうしてこのようなおぞましい大量虐殺を指示できたのか、ということを理解できなければ何も変わらない、とアーレントは言いたかったのでしょう。
いまウクライナで大量の人を殺し、傷つけている為政者や軍人たちがアイヒマンのように裁かれる日が来るのかどうかわかりませんが、もしもそうなった時に私たちは彼らを冷静に裁くことができるのでしょうか。この憎しみの最中にあって、どうしたらアーレントのように冷静にものごとを考えることができるのか、私はそのような答えのない問いを抱いて悶々としてしまいます。
こういう社会的な、あるいは政治的な話は、芸術を探究する上であまり関わりがないような気がしますが、そうでもない、というのが今回の本題です。人間は生きていく上で、「政治性」という課題から逃れることができません。だから問題を避けずに悩み続けなければならないのです。それは芸術においても同じことですし、考えてみると私は政治的なことも含めて、すべてのことを芸術を通して学んできたような気がします。それがどういうことなのか、この後の文章を読んでみてください。

2022年の個展が終わりました。
年度のはじめの慌ただしい中、また、新型コロナウイルスへの感染がおさまらない中、足を運んでいただいた方々に感謝いたします。私自身、最終日の土曜日の午前中は勤務している学校の保護者会があり、その背広姿のまま画廊に赴き、搬出ではその上からジャージを羽織って絵を運びました。
一緒に保護者会に出席した同僚が二人、会場に来てくれましたが、貴重な休日の半日を仕事、残りの半日を私の個展のために時間を費やしたのかと思うと、申し訳ないと思うと同時に、有難いことだと感じています。多かれ少なかれ、会場に来ていただいた皆さんは、お忙しい中で同様の気遣いをしていただいたのだと思います。ありがとうございました。

さて、今回の展覧会の反省については、早々と前回のblogで辰野登恵子さんの言葉をかみしめつつ書いてみましたが、今日は展覧会で皆さんからいただいた言葉にヒントをもらいながら、あらためて考えてみたいと思います。
今回の展示で多くの方からご指摘いただいたのは、私の絵画の中にある奥行きに関することでした。絵具で描いた部分の色合いや筆触によってもたらされる奥行きに加えて、私の絵の場合にはコラージュされた紙の色や質感による奥行きがあります。さらに今回は、木や草の葉などの自然物も貼ってあったので、それが描画部分とは違った奥行きをもたらしていたと思います。私の絵は具象絵画の遠近法のような奥行きはないのですが、描画材などの素材の違いがレイヤーの層のように重なり合い、独特の奥行きを生んでいたと思います。それが偶然にうまくいったり、いかなかったり、ということはありますが、そのような層状の奥行きを持つ画面を制作すること自体は意図していました。そこには、モダニズムの絵画が要請するフラットな平面という閉域とは別な次元で表現活動をしたい、という意志がありました。
そのことを説明するにあたり、何か良い資料がないものかと探し回ったところ、前回も参照した美術評論家の沢山遼さんの文章に行き当たりました。
そういえば、前回は辰野さんに関する沢山さんの文章を参照しましたが、その際にネットで無料で読める、などと失礼なことを書いてしまいました。確かにネット上でも読めるのですが、辰野さんに関する同じ文章が沢山さんの著書『絵画の力学』に収められています。もしも彼の文章を気に入ってくださったのなら、是非ともこの本を買いましょう。それが正しいお金の使い方だと思います。
話が横道にそれました。例えば私が行き当たった沢山さんの文章は、次のようなものです。

「アヴァンギャルドの芸術は音楽の範例から引き出された純粋という観念に導かれて」いたという、先の引用箇所でも述べられているように、非形象美術の範例=モデルとなるのは、「音楽」という非表象的芸術だった。グリーンバーグはポロックの「オールオーヴァー」な絵画を「多声的(ポリフォニック)」と形容する。そこで含意されているのは、作品構造がはらむ多数性というよりも、むしろ複数の旋律の有機的統合という芸術モデルだ。そして、諸要素が有機的に統合された「純粋」音楽というモデルは、ある固有のジャンルが確立する「純粋性」というロジックへとすり替えられる。音楽をモデルとすることで、美術もまた、意志(あるいは意図や主題内容)よりも審美的な形式に関わることが宣言されている。それが意味するのは、意志の混濁を受け付けない、感覚の充溢を純粋性として記述するという態度である。それは、絵画に意図(dessein)をもたらす素描(dessin )に対して、色彩の優位を説くグリーンバーグの言説と対応している。
だが、このような芸術モデルこそが、批評に危機をもたらすことになるのだ。なぜなら、このような性格ゆえに、あらゆる差異をならしていく「純粋」な抽象絵画は、意志(意味)を抜き去った「装飾」あるいは「壁紙」へと近接する危機的状況を自ら招くことになったと言えるからだ。
(『絵画の力学』「第15章 形象が歪むーアヴァンギャルドとキッチュ」沢山遼)

ここだけ読むと、ちょっとわかりにくいかもしれません。
アメリカの美術評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)がイメージした「アヴァンギャルド(avant-garde;前衛的)な絵画」は、音楽と同じように何か具体的な形象を表現するものではありませんでした。音楽が複雑なリズムやハーモニーを含む「多声的」な芸術であるように、グリーンバーグが提唱した新しい絵画は、画面上の色や形が複雑に絡み合うものでした。それはポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)の「オールオーヴァー」な絵画のように中心となるような構成的な要素がなく、色と形が「純粋」に響き合うものだったのです。
https://www.musey.net/3979
このような絵画のことを、沢山さんは「絵画に意図(dessein)をもたらす素描(dessin )に対して、色彩の優位を説く」ものだと書いています。画面上から画面を構成するような意図を喪失させ、色彩が均質に響き合うような純粋な感覚を導き出すこと、これがポロックの実践を通じてグリーンバーグが提唱したモダニズムの絵画でした。
このように読むと、作為的な画面構成を作ろうとする古い絵画を廃して、自由に感覚を羽ばたかせる新しくて理想的な絵画がグリーンバーグとポロックによって実現したような気がします。しかし、このグリーンバーグの提唱した絵画に対して、沢山さんは「このような芸術モデルこそが、批評に危機をもたらすことになる」と書いています。なぜでしょうか?
そのような抽象絵画は、「意志(意味)を抜き去った」装飾絵画に堕してしまうからです。つまり、たんなる壁の模様のような絵画になってしまう、ということです。厳しい意見のようですが、こういう批評はポロックらの絵画への悪口として当時からあったようです。しかし結局のところ、そういう悪評があったとしてもグリーンバーグの批評が世界中を席巻したことは間違いありません。そして、そのおかげで「意志」を失った画家たちは、誰もが似たような方法論で絵を描かなければなりませんでした。
それは「批評の危機」であると同時に、「絵画の危機」でもありました。私自身もこのような危機を経験し、どうにも身動きができない状況を感じました。どうしてこうなってしまったのでしょうか?
この引用した部分の手前のところで、沢山さんはこんなことを書いています。

絵画の全一的構造を、平面性の協力のもとに指向するオールオーヴァーネスの力学において、作品内部での調和的な一貫性が目指されるとともに、局所的な反乱は、限りなく鎮圧されなければならない。それは、絵画面の組織化において、グリーンバーグ自身が述べるように、一種の独裁制、全体主義的な荒野としてのユートピアを夢見るものではなかろうか。そして、ある確定された領域内における葛藤や矛盾を限りなく排除したうえでの統治を目指すものであるという意味で、グリーンバーグの批評は、彼が嫌悪したスターリニズムにすら接近する。つまりグリーンバーグのモダニズム論は、外圧的な権力機構としてのファシズムへの抵抗を表明する政治的立場から出発する(「アヴァンギャルドとキッチュ」)が、その一方で、今度は外圧的な政治を排除した言説の内部において、ファシズム的な権力的統治を内圧化するという営みによって完成する。その言説は、脱政治化することで、よりいっそうの政治性を帯びる。
(『絵画の力学』「第15章 形象が歪むーアヴァンギャルドとキッチュ」沢山遼)

もしもあなたが、さして現代絵画に興味がなければ、この文章を読んでも一体何のことなのかピンとこないでしょう。しかし、表現者として、あるいは批評家として現代絵画に関わろうとしたことがある人ならば、ここに書かれている「今度は外圧的な政治を排除した言説の内部において、ファシズム的な権力的統治を内圧化するという営み」という難しい文章の意味が、身に染みてわかるのではないでしょうか。
グリーンバーグの提唱したモダニズムの絵画は、モダニズムの理論と連動してつねに正しく、そして純粋で美しいものでした。それが正しく、純粋であればあるほど、その言説に抗うことは困難でした。邪な意図を排除することで、それは「脱政治化」されていたのですが、それゆえに抗うことを許さない「政治性」を帯びてもいたのです。
皮肉なことに沢山さんが指摘しているように、グリーンバーグはその初期の代表的な論文『アヴァンギャルドとキッチュ』において自ら批判した「スターリニズム」に、自分自身が接近することになった、ーそれほどの圧力を持ってしまったのではないか、というのが沢山さんの意見です。
今の若い方には、このような指摘がどのように読めるのでしょうか。沢山さんのような勉強家の方ならば、今から60年ぐらい前にグリーンバーグが提唱したことについて自分なりの評価ができることでしょう。そして付け加えていえば、グリーンバーグの言説に抗った、かつてグリーンバーグの弟子だったロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )のことについても、さまざまな著作が翻訳されている今なら正確に把握することも可能です。
しかし多くの方たちにとっては、抽象表現主義もミニマル・アートも、そしてその後の時代のニュー・ペインティングも、並列の歴史の中の出来事として見えているのかもしれません。そういう方たちにグリーンバーグの批評の影響力について語るためには、グリーンバーグ自身が持っていた「政治性」について、しっかりと読み取りながら語ることが重要なのかもしれません。
私たちは芸術について考える場合に、どうしても純粋に芸術についてだけ、あるいはその理論についてだけを語りたくなります。しかしのちの時代から見て妥当だと思われる考え方が、その時の主流を占めるとは限りません。いや、むしろそうでないことの方が多いことを、私たちは歴史から学んでいます。それに今を生きる私たちもどういう考え方に妥当性があるのか、などということをわからないまま行動しています。
例えば、最近の美術に関する事象について考えてみましょう。最近の現代絵画のコンクール展などでその受賞作を見ると、驚くほどあっけらかんと具象的な絵画を描いていたり、流行りのアニメーションの原画ではないかと見紛うような絵を描いていたりする場合があります。私たちと同世代の画家でも村上隆や奈良美智などといった画家がいますが、彼らの場合は自分たちの作品を売り出すための戦略として、そしてそれこそ政治的な意図を持ってアニメーションや漫画を模倣しているのです。それはそれで問題だと思いますが、今の若い方にとってはすでにそれが戦略的なことではなくて、むしろ当然のこととしてそのような絵を描いているのではないでしょうか。そうだとしたら、これはやはり大きな問題です。
モダニズムの絵画が、あるいはモダニズムの理論がどのように発展し、そこにどのような限界があったのか、表現者である私たちは、できるだけ正確にそれらのことを把握しなければなりません。そのためには作品や批評、そして美術史とともに沢山さんが読み解いたような、そのときどきの政治的な力学を知る必要があるのかもしれません。

さて、私の絵画についていえば、モダニズムの絵画が目指した平面性を意識しつつも、それよりも絵画の「触覚性」についての意識を高めていくことを目指しています。最終的には、私の絵画が平面的に見えるのかどうか、ということなどどうでも良いように見えることが望ましいのです。
私が画廊を回っていて、いまだにモダニズム絵画の平面性を極めつつ、そこに自分なりの固有性を見出している作家たちが数多くいます。考えてみると1960年代のミニマル・アートの絵画以来、モダニズムの画家たちはそういう仕事をしてきたのですから、その時間の長さを考えると、巧妙な方法論を身につけた画家がいることは当然のことです。優れた感性の画家が独自の色彩感覚や繊細な筆致などを盛り込めば、かなり高度な絵画表現が可能でしょう。
しかしその巧妙さの向こう側に、何か新しい可能性があるのでしょうか。先ほども言及したアニメーションのセル画もどきの作品と同様に、その優れた技術や感性を、もっと伸び伸びと発揮できる表現を探した方が、より面白い作品が作れるのではないでしょうか。そして沢山さんが指摘したように、芸術においても政治的な力が作動しているのだとしたら、現在においてもモダニズム絵画の平面性について何の疑いもなく表現をしているということは、保守的であると同時に反動的な表現である、というふうに言えないでしょうか?
グリーンバーグが仕掛けた政治性の向こう側に出るためには、ミニマル・アートはもちろんのこと、アメリカ抽象表現主義の絵画をさらに遡行して、フォーマリズムの力学が作動する前に戻って絵画の可能性を探る必要があります。このことについてはこのblogでも何回か話題にしてきました。そして今回の自分の作品の展示を見て、さらにその思いを強くしました。
絵画に「触覚性」を求めることは、モダニズムの理論を超える一つの方法だと私は考えています。しかしそれも自明のことになったなら、次の新たな概念を探して制作や執筆を続けることになります。私は牛歩のようなノロマな歩みの結果、すでに60歳を越えてしまいました。しかしそれでも、残された時間の中でもう少し前進できるのではないか、と考えています。そのときに政治的な言い方をすれば、「保守的」に、あるいは「反動的」にならないことが重要なのだと思います。これからはますますそうならないように、柔軟にものごとを考えていくことにしましょう。
ということで、もしも次回の展示の機会があるのなら、もう少し歩みを進めた私の作品を見ていただけると思います。その時には、ウイルス感染も戦争もおさまっていることを願っています。(結局、展覧会中に、それらはまったくおさまりませんでした、やれやれですね。)

 
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