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元たばこ屋夫婦のつれづれ

つれづれなるままに

黄葉と紅葉の光が丘公園での出会い

2011-11-25 | 日々雑感
     紅葉は葉が紅色に変わる、カエデなどは代表的。黄葉は葉が黄色に変わる、イチョウは代表的。所用の途中に、豊かな樹林の色彩に覆われる練馬区・光が丘公園の横をぬけることから「どうぞといわんばかりの大駐車場」に誘われて、ちょっと歩いてみようということになった。遊ぶことは即決である。

     この公園で特に惹かれるのはイチョウ並木の黄葉である。黄色の絨毯を踏みしめながらの散策は、いつもながら時間が止まったようなゆったりとした気分に包まれて爽快極まりない。

     晴れ上がった上空からそそぎこむやわらかな日差しをぬって鳩が飛び交う公園をゆっくりと見渡しながら歩いているうちに、木立の中に思いがけない老婦人を発見した。「アレッ、あそこに座り込んで筆を走らせている人、ひょっとしたら鈴木さんじゃない?」「えっ、そんなこと・・・嗚呼そうだ・・でも何故一人で・・・」そう語りながら近づいたが、気配も感ぜられないくらい一点を凝視して筆を動かす、その様子に声をかけるのをためらい、ひとまわりしてからにしようと、そっと離れた。

     この婦人は成増北口商店街当時の先輩、「ほかほか弁当」の看板を上げて一人で切り盛りし、やがて商店街での集客では常に上位にランクされた繁盛店に仕上げた人。当時斜め前で本屋とたばこ店を経営、競い合った店であった。新店舗改築の時には、ひとかたならぬ力を頂いた方でもある。いつしか一番の先輩友人となり、親族以上に心が触れ合っている現在である。

     私たちより前に店を止め、ゆうゆうと趣味の世界に飛び込んだ人ではあるが「水墨の会」に誘ったのは私たち、天性の素質が開花したように、その上達振りと独自の筆法は、年月を重ねるたびに輝き始めていた。その彼女が、樹林の一角で今日は水彩のペンを走らせていたのである。

     再び近づいてカメラを向けたが、身じろぎもしないその熱意は凄いの一事、しょうがない声をかけようということで、真正面に立って飲物を差し出した。えっと驚いたように視線をこちらに移して、やっと確認。「あれ、どうしてここにいるの」それはこちらのせりふ・・・。
 
     聞けば、水彩画の仲間と一緒に来て、それぞれが選んだ場所で描いているのだという、飲物とパンを買ってきたが、弁当持参というので飲物だけを手渡しているところに、お仲間さんが顔を見せたので別れた。その楽しそうな姿は、ほほえましくもあり嬉しくなった。趣味の世界ではあるが、80歳に近いのに、なおこの熱意である。

     囲碁の学習に、この熱意ありやと、問われたような気持ちになって車に飛び乗ったのである。どこにでも学ぶものはころがっているのですな・・・



     

     

 

          

北朝鮮でのW杯サッカーこれが許されるのか

2011-11-18 | 日々雑感
     テレビを見て、その異様な光景に唖然とした。これが北朝鮮・金日成競技場でのワールドカップアジア3次予選でのサッカーの試合であった。新聞報道によれば、競技場には動員されたと見られる5万人の観衆で埋め尽くされていた。

     特に試合前の両国家の吹奏で、日本国歌「君が代」の時には、スタンドの怒号にかき消されたという。なんという非礼であろう。さらに日本のサポーターはわずか150人に限られ、国旗、鳴り物の持込みや、日の丸をつけたユニホームのレプリカも禁じられ、座席で立ち上がることも注意されたというのである。

     それに対して、北朝鮮は5万人の観衆が、太鼓、メガホンで大音響の応援を続け、バックスタンドでは人文字まで繰り広げたのである。こんな不公平なことが平然とまかり通ったのである。

     また日本からの報道陣にも規制が引かれ、通信社と専門誌の10人の記者しか認めず、すべての新聞社は拒否された。日本サッカー協会の規制緩和の求めもはねつけられたのである。日本新聞協会は、国際サッカー連盟に「取材活動の自由を制限したり、侵害したりすることは、あってはならない」との申し入れをしたというが、これもなしのつぶての感がある。

     国際サッカー連盟は1997年に"サッカーの行動規範〟を示している。その中に「相手選手や観客を尊敬するよう」に謳っているが、この北朝鮮平壌での一戦の様子を見るかぎり、この規範に大きく逸脱しているのは明らかである。

     試合は、日本チームが0対1で北朝鮮に敗れた。日本の新聞報道は「異様なムードの中で、足がすくんだように見えた日本代表選手に比し、強烈なプレッシャーのなかで90分を走りぬいた北朝鮮選手の闘志は称賛に値した。」と公正な批評を展開していたのが光っていた。
     
     それにしても北朝鮮の国情の異常さが、ここにはっきりと見てとれた。このマナー欠落国家では、未来に大きな夢が見えるはずがない。そして日本人は北朝鮮の実態をもっと知らなければと思う。知らなかったではすまされない事態が深く進行しているのではとの危惧を感ずるからである。

お江戸は世界に誇るガーデニング都市だった

2011-11-10 | 日々雑感
     しんきんカードはれ予報という小冊子に「庭に夢中!」というガーデニング特集記事が掲載されていた。パ-マをかけに入った美容室で何気なく手にしたものだが、ヒマにあかせて頁をめくると「江戸は世界最大のガーデニング都市だった!?」との見出しが飛び込み、パラパラとめくりはじめた。
  
     江戸時代となると、素通り出来ない。一気に読み下し。その小冊子を頂いてきた。時代考証家の山田順子さんに聞く歴史の真実のタイトルで、まとめたのは辻啓子さんである。

     書き出は、「歴史は繰り返すというが、ガーデニングブームもまた然り。江戸時代、特に後半にかけて、日本で一大園芸ブームが起こったことをご存知だろうか。その盛り上がりぶりはすざましく、英国の植物学者で、珍しい植物を求めて世界中を旅したロバート・フォーチュン氏が1860年に江戸を訪れた際、"世界一の園芸都市〟と息をのんだほど。今でこそ、イングリッシュ・ガーデンが世界の注目を集めているが、さかのぼれば、日本は英国人もびっくりの園芸大国だったのだ。」
     
「では何故、江戸時代に園芸ブームが起こったのだろうか。江戸の園芸ブームは身分を超えて,庭をもたない庶民にも"植木いじり〟という形で広がった。時代考証家の山田順子さんは、治世の安定こそが江戸の園芸ブームの根底にあると話す。"江戸時代も後半になると、庶民は初めて余暇を手にしました。時間とお金に余裕が出来たからこそ、庶民も園芸という趣味がもてたのです〟」

     「手に入れた貴重な余暇を園芸に費やしたのには、"江戸の町の都市化〟に原因があった。"文化文政期の江戸の町は、面積の60%が武家屋敷と寺社、25%が農地で、残りの15%が町家でした。そのわずか15%に長屋が連なり、60万人の庶民がすし詰め状態で住んでいたのです。しかも埋め立て地が多く、周辺には緑がない。江戸の庶民といっても、ほとんどが地方出身者ですから、緑が恋しくてなりません。植木は手軽に緑を増やす手段だったのです」

     「当時の庶民の月収は、現在の価値にして20万円前後はあったという。長屋の家賃を2万~3万円と想定すると、たとえ子供が数人いても、一鉢1千円前後の植木鉢を1~2鉢は買える余裕があった。庶民は、天秤棒に植木鉢をぶら下げて売り歩く行商人や、露店から植木鉢を購入し、季節ごとに新しい草花を軒先に並べて楽しんだ。今でも東京の下町、佃島や深川辺りを歩くと、路地にはみ出すように並べられた軒先の花々を見かけるが、これは江戸時代の名残なのだ。」

     「路地が各家の植木で彩られていくと、〝次は隣家が持っていない珍しいものを並べたい〟と考えるのは人情というもの。鉢も素焼きのものでは物足りなくなり、染め付けものが流行した。"染付けの植木鉢は、当時、世界でも珍しいものだったはずです〟」

     「珍しい植物への欲求から、品種改良も盛んに行われるようになる。驚くのがその生産者。植木の栽培技術の発展には農家だけでなく、武士も一役買っていたと山田さんは言う。」

「幕末になると、下級武士は困窮していましたから、小遣い稼ぎに庭で植木を育て、それを市場に卸すわけです。実は室町時代には、武士の間で盆栽いじりが流行し、それはハサミ一つで形を整えていく芸術でもあった。ですから植木いじりは武士の恥にはならず、体裁のいい副業だったのです」

「品質改良が進むと、門外不出の珍しい品種も出始めた。なかには現在の価値に換算して何百万円にも及ぶ,高価な植物も登場するようになる。もっとも、根が張る植物は庶民には手が届かない。買い手は、旗本や裕福な町人が中心。彼らは自分が手に入れた珍しい品種を自慢するために、品評会まで行ったという。」

     「万年青(おもと)、石菖(せきしょう)、葉蘭(はらん)など、現代人には理解し難いような、葉だけの植物にも人気が集まったようです」(山田さん)。葉に現れる"斑〟(ふ)の入り方、葉の色艶、全体の姿形などを楽しみ、優劣を競った。」

     「一方、花で人気を集めたのは、朝顔、菊、桜草、福寿草など。競い方はさまざまで、例えば品種改良したいくつもの桜草をひな壇に飾り、その"構成力〟を競うケースもありました」(山田さん)町中にあふれる植物、整った生産基盤、豊富に揃う品種コレクション。植物学者のロバート・フォーチュンは、この3大要素を見届けた後に"江戸は世界一の園芸大国〟と明言したのである。」

     これを読みながら、江戸の大名屋敷の豪華な庭園が、都内のいたるところで競い合うように公開され、その見事さに感動した在り日を思い浮かべていた。またぶらタモリで取り上げられていた豊島区駒込の染井村、櫻のソメイヨシノを生み出したところ,また植木職人の集落が近郷に出来るなどの情景が甦った。江戸時代の活況がこんな所にも見られるのである。

      
 


将軍鷹狩の秘密は大きかった

2011-10-31 | 日々雑感
     ぶらタモリでの鷹狩は、高貴な人の「究極の遊び」と言う観点から捉えていたので、将軍の鷹狩は、その威光を示すことにあり、鷹狩のたびに農民は大迷惑であったこと、また鷹狩に2000人からの供揃えは経費の無駄遣いである等を強調していたが、実は鷹狩の秘密は大きな目的があったのである。

     将軍の鷹狩の秘密、それを探るうちに、鷹狩は単なる究極の遊びどころか、実は未来の遠大なる国づくりにつながる目的をもっていたことが分かってきた。徳川300年の基礎を築いたあの家康の深謀遠慮は、この鷹狩にも遺憾なく発揮されていたのである。

     徳川家康が父祖伝来の三河の地から関東の地へ領地替えを命じられたのは小田原の北条氏を滅ぼした1590年、家康48歳の時。当時の江戸城は140年前、大田道灌によって築かれていたもので、入城するやここを本拠地として将来の大構想への歩みがはじまったのである。

     秀吉が朝鮮出兵に没頭している間、家康は家臣を率いてよく鷹狩に出ていたが、その真の狙いは、これから治める広大な関八州の地形、土地事情の視察、北条氏系の土豪や残党、房総の里見氏や佐竹氏の要塞の地の動き等の掌握など、少しも気をゆるめることはなかったのである。

     かって利根川は上州から発して武州を経て江戸城の西側を通り江戸湾、今の東京湾に流れ込んでいたのであるが、家康は江戸城に入城して4年後・52歳の1594年には、家臣の伊那忠治に「利根川の流れを変えて銚子から太平洋に注がせる大治水工事」の命を発しているのである。

     当時の江戸城周辺は、葦が繁茂する大湿地地帯であり、加えてたびたびの利根川の氾濫に悩まされていた。平野面積の広い割りに耕地面積は少なく、充分な石高が得られない状態の解消。また伊達政宗に対する備えも考えての利根川の治水工事であったといわれている。

     事実、この難題を解決することにより、関東平野の耕地面積の飛躍的な拡大と現代につながる発達の姿を見ると、家康の先見の明の凄さと発想の並々ならざる構想の大きさに舌を巻くばかり。とくに伊能忠敬の地図すらなかった当時、馬でかけめぐった4年間で、あの利根川の治水工事の大構想を描くなどは、常人ではない。
 
     こころみに、この利根川の流れを変える難工事は、今のような建設機械のない時代、すべて人海戦術で頼るものは牛馬のみ、完成したのは1654年のこと。命を受けてから60年、家康死して38年の後。秀忠を経て家光の時代であったという。

     家康の晩年は、秀忠の治政をにらみ、東海道、中山道から三国街道、さらに東北道から日光街道、水戸街道など整備開発の命を次々に発して、現代の関東平野につながる路を開いたのである。この礎が大江戸すなわち首都東京を生み、日本の中心たらしめ、京都の天皇まで動かれたのである。48歳から4年間、馬を走らせた鷹狩りへの情熱は、真の狙いが隠されていたのであり、その成果は如何に大きく、日本の国づくりの基礎が作られていたことを痛感するのである。

     最後に家康が語ったとことを書きとめたという「東照宮御実記」には鷹狩の目的を次の如く明かしている。1.民情視察。2.軍事訓練。3.身体鍛錬。4.家臣団知行所支配の実態把握。5.家臣等の剛弱究明。6.色欲調節。7.士風刷新とその高揚。8.他領国の情勢探索。9.地方支配の拠点づくり。

     時代が下がるにつれ、重きをなす事項が変わることは当然である。さらに鷹場や治政の変遷に対応して、後代の将軍の鷹狩の目的も変化したと思われる。鷹狩から生まれた鷹場制度などを調べると、まだまだ面白い事柄が出てくるが、ここまでとする。

     

     
     

歩行者優先を疾走する自転車に待った

2011-10-28 | 日々雑感
     10月25日の警視庁通達により、歩道の通行規制が見直される。これまで認められたのは、道幅2㍍以上で「自転車通行可」の表示がある歩道である。今後は改正して「道幅3㍍以上」で、それ以外は車道走行を原則とする。ただし13歳未満と70歳以上を除くとある。

     いきなりの新ルールの実施は、かなり問題が出てくると思うが、歩行者には当然という声が多い。車をさけて優先歩道を歩きはじめると、前から後ろから自転車がすり抜ける、時間帯もあるが、歩行者がおろおろしている姿を何度も見かけて憤慨したことも多々ある。

     しかもである、片手で携帯を見ながら走行する若者、さらに買い物籠を先につけて携帯でしゃべりながらの主婦層の走行も多い。見ていると歩いている人が立ち止まり自転車を通してから、後ろを確かめて歩き始める。こんな光景は度々である。

     歩いている人の多くは老齢者。なかにはおぼつかない足取りの人もいる。「危ない」の声を上げて走り抜ける自転車に「冷や汗が出たよ、何で歩道をこんなに自転車が走る」とつぶやく高齢者・・・これが現実なのである。

     今まで自家用車での外出が多かったので、歩行者優先道路は、安心して歩行できる安全地帯と思っていたが、いざ歩いてみると、歩道の方が緊張を要することが分かった。バス停で6人がそれぞれ待っていた先日、自転車が近づいてきた。ベルを鳴らし続けて通り抜ける。慌てて横に並んで避ける6人、これおかしくありませんか。自転車を降りて、軽く頭を下げて通り抜けて行く人が続いたので、少し心がやわらいだが、こういう方はまれのようである。

     自転車は、軽車両であるから、当然の走行規制があるはずだが、ほとんど守られていないのが現実。実は自動車運転の立場からも、自転車の無謀走行にはひやひやした経験は多い。突然の飛び出し、左右からのすり抜け、信号無視は日常茶飯事。そしてもう一つ夜間の無灯火走行である。商店街の明るさがあるところでは、何とかなるが、暗闇から走り出てくる自転車は恐怖すら覚える。犯罪誘引の恐れをも感ずる。
     
      信号も無視、警察官の隙をうかがい、走りまくる人を「要領がいい」というのを耳にして、唖然とした。歩行者からも自動車からもひやひやさせられている自転車の走行法規の指導徹底が、今、最も問題なのではないかと思う。

      きちんとルール守っている自転車愛好者も多く見かける。その人たちのためにも一部の悪質な自転車乗りには、罰則で縛るしかないのであろうか・・・

タイ・バンコクの洪水危機いよいよ深刻

2011-10-27 | 日々雑感
     タイ在住の仁科氏の状態が心配で何度も国際電話の呼び出しを掛けたが不通。高島平郵便局で郵便事情を調べてもらったが、これも現在見通しが立たないとのことでお手上げ状態。

     テレビに映し出される洪水の被害は、とどまることを知らず拡大するばかりで、ただただ、やきもきしている。10月27日の朝刊の報道では、洪水被害は、遂にタイの首都バンコクの中枢地域にも及び、王宮前広場周辺は10㌢から20㌢まで冠水とのことである。

     さらにバンコク中心部を流れるチャオプラヤ川の水位も上昇を続けるばかりで、スクムパン知事は、バンコク全域の住民に警戒を指示しているという。また加えて今週末から大潮となる危機が迫っている。ランシット大学の土木工学の准教授の予想図では、首都バンコクの全域が冠水。場所によっては10㌢から最大2㍍にまで達するとの警戒を明らかにしている。この予想は、北部からバンコクに流れ込む水の量と28日から30日にかけてタイ湾の大潮の潮位に基づいての計測によるとされている。
 
     タイの50年ぶりの大洪水の影響は、日本にも大きな被害をもたらしている。日本企業が400社以上も連なる工業団地が、ほとんど冠水し管理製品も全滅状態。自動車関連企業をはじめ電気機器・カメラ光学機器・家電・食品物産関連などなど多岐にわたり、被害の大きさを算出するのが恐ろしい位である。それのみならず商品の品薄報道が出始めている。

     最も心配されるのは、今後の見通しである。収束後の対策は、どうなるのか被害総額はどうなるのか、復興への道筋はどのようにまとまるのか、目の離せないタイの被害である。国土を侵略した水、そして自然界の猛威を改めて感じている。人類が忘れ去っている何かを熟慮すべき天の示唆かもしれない・・・ 

東洋のデトロイト「タイ」の記録的な大洪水

2011-10-17 | 日々雑感
     東洋のデトロイトと言われている「タイ」が、記録的な大洪水に見舞われて、全土の3分の1に被害が広がるという大変な事態になっている。時折、文通を交わす仁科氏は、バンコック在住だから心配はないと楽観していたが、このところの報道では、その首都にまで洪水の危機が迫っていると言う非常事態である。
 
     バンコック北方のアユタヤ県に集まる主要工業団地5箇所が、すべて洪水の被害を受け、いまだに水が引かず川の中にあるような被害の情景がテレビに映し出されている。ここに進出している日系320社も大きな被害をこうむっている。しかもその被害は拡大するばかり歯止めがかからない状態で、危機収束の見えない、苛立ちが広がっているという。

     東洋のデトロイトと称されるタイは、自動車、とくに小型トラックの輸出基地になっていて、昨年の年間生産台数142万7千台、そのうちの54%が輸出されている。そのメーカーのシェアは、日本が独占状態。トヨタ39%を筆頭にマツダ・フオード、いすず、三菱、日産、ホンダ、GM等など。

     さらに、自動車関連メーカーが勢揃い、部品から完成までの一切が流れ作業のように組み込まれるている世界に名だたる工業団地なのである。加えて、鉄鋼、樹脂製品、ポリマー製品,電子製品、家庭用品、建設資材関連企業。並びに物流産業などあらゆる業種の製造拠点が集積しているとも言われており、今回の大洪水の被害は底知れない規模である。

     世界的な異常気象は,人智を遥かに超えている。タイの大洪水は、はからずも経済成長一辺倒の世界の識者に大きな警鐘を乱打しているのではと思うのである。


     
          

レトロな黒電話の受話器が中国で話題に

2011-10-12 | 日々雑感
     中国には色々な問題があるが、緊張をはらんだ国際関係の話題はさけて、たわいもないニュースを一つ。

     いま中国の若者の間で、ブームになりつつあるのに、今は懐かしい時代の象徴とも言える、「黒電話の受話器」が、もてもてなのだという。携帯の本体はポケットに入れたままで、イヤホンとマイク端子に外付け接続した黒電話型の受話器を、歩きながら握りしめて、「もしもし」と話しはじめるという。

     周囲の人は、一瞬、何事が始まったのかと、いぶかるが、当の本人は、すまして、会話をはじめる。驚く人たちの視線を楽しんでいるようである。上海大学生の言うには「レトロさが新鮮な感覚でカッコいいのでしょう」と,しごく当然の反応とか・・・

     新聞報道によれば「このケータイ用の外付け受話器、インターネット通販で60元(日本円約730円)から、色とりどりの商品が数多く売られている。レトロな感覚以外に、耳元でケータイの電磁波が発信されると脳に影響があるのではないかと心配する若者も愛用者になりはじめている」とある。

     また「中国では携帯電話の契約数が7月末で約9億3千万回線。来年には10億回線を突破しそうな勢いだ。人口14億人に迫る中国だが、赤ちゃんや高齢者以外、住民ほぼ全員がケータイを持ち歩いている計算になる。」

     「中国でも若い世代にとって黒電話は、映画やテレビでしか見たことがない存在になった。いずれ液晶画面を指でジーコ・ジーコとダイヤルを回すようになぞらないと電話がかからない面倒な懐古型のケータイもはやるんじゃ?」と結んでいる。

     最近のテレビで見る動画の普及も世界的、若い人のみならず社会に目を向けている人々の発信能力の進化は、物凄いに尽きる・・・ついていくのに息が切れませんか・・・ 
     

区立美術館で江戸からの実況中継EDO

2011-10-10 | 日々雑感
     板橋区立美術館の掲示板に「江戸からの実況中継EDO」と題した展覧会が本日最終日とあるの見て、急遽駆けつけた。祭日(体育の日)と最終が重なって午前中から駐車場は満杯だったが、歩いて訪れた二人は、横目に見ながら溜池公園を通り抜けて館内に入った。

     入場料は大人一人600円、だが65歳以上の高齢者は300円の優待である。これにあやかって600円で二人は場内に足をふみいれた。「図譜とスケッチと真景図と事件。リアル・タイムな江戸からの視線」の文字が躍る大海亀を型どった入場券を大事に鞄に仕舞い込み、案内経路にしたがって鑑賞に入る。
    
     最初に目をうばわれたのは、伊能忠敬の日本地図、足で歩いて測量した記録を基に作成されたという大地図。ことに天空から写す事も出来なかった時代に、この地図が出来あがっていること、その精緻な技術と永い年月に亘るよどみない精神力にただただ感嘆するばかり、これを見るだけでも本日の意義がある。

     会館貸し出しのスコープを利用して、江戸から駿河、富士山を探す、文字の部分が白くはがれていたが、富士郡を発見して納得。それにしてもよくぞ原図が残されていたものだと感動。伝記のなかの伊能忠敬の姿が大写しになった。

     美術館のあいさつ文を見ると「本展は江戸期の写生に焦点をあて、"スケッチと真景図〟"事件〟"博物趣味〟の3章にて肉筆画を中心に展示します。数多くの作例の中から、この3章にしぼり、江戸からの実況中継として提示することにより、江戸期にどのような写生が求められたのか、その一端を感じていただければ幸いです。2011年は、新燃岳の噴火や東日本大震災という災害によって記憶される年となってしまいました。事件の部門では、あまりに迫真的な表現ゆえに、災害の図は出品を控えざるをえませんでした。しかし伊能忠敬の地道な足跡を感じる日本地図や、その風景に感動したからこそ描かれたと思われる真景図を見ると,揺るぎない風景の記憶に勇気づけられる思いがいたします。」とある。

     作品は江戸期の作家の代表作品。一つ一つが江戸時代の息ずかいが耳に当たるような感触を覚えた。スケッチの先駆的役割を果した狩野探幽を始め、池大雅・円山応挙・谷文晁・白雲・河鍋暁斎・伊能忠敬・宋紫石・原在中・鍬形薫斎・沖一蛾・司馬江漢・亜欧堂田善・蹄斎北馬・歌川国貞・歌川広重・長谷川雪旦・守住貫魚・蓑虫山人・羽川藤水・長谷川雪堤・貴志孫太夫・小野田直武・石川孟高・沢田東里・堀田正敦・馬場大助・服部雪斎・関根雲停・服部雪斎・高橋由一・中島仰山など等の絵画が展示され、その背景、事件が添付されていた。
 
     思えば伊能忠敬は、不遇な少年時代、他家の養子、傾いた家の復興、地域への奉仕などなど、常人でもなかなか出来ない仕事を成し遂げたあと、52歳の時から改めて天文学を学び日本各地の測量に乗り出し、遂に日本地図を作成する大偉業を成したのである。もう一度、伊能忠敬の生涯を見つめなおして見ることにする。

     そしてもうひとつ、館内を歩く人の大半が年配者、若い人の姿がちらほら、願わくばこのような展覧会、学校単位で鑑賞させるべきではないか。教育者の着眼点の曇りを憂えるのは思い過ごしであろうか・・・

    



熱気に満ちた公開囲碁講座

2011-10-03 | 日々雑感
     「誰でも参加できる優しく楽しい囲碁講座」と題して、立ち上げた碁吉クラブの対外的なイベント・公開囲碁講座は、10月2日の日曜日の午後1時から成増社会教育会館で開催。

     初めての取り組みなので、手探りの感はあったが、鳥井講師の日ごろの指導からうかがえる囲碁普及の情熱を知るものとして、クラブ会員の力を結集して見ようと決意、当日までゆるむことなく歩き回った。

     何よりも会場の雰囲気づくりを考え、次に囲碁大好きな人々の力を引き出し初心者の意欲を高める、その中に全くの初めての方を迎える。理屈ぬきに囲碁が生活の中に動いている姿を見せたいと考えたのである。

     目標は50名の結集、まったくの初めてという方を10名位集めて見たい、明るく飛び込みやすい開放的な雰囲気の教室。外からのぞいて活気があふれている教室そんなことを描きながら、この日をめざしたのである。

     当日まで3回にわたって、教室での学習の前に時間をいただき、公開囲碁講座の意義と会員の協力を訴えた。パンフレットも大いに活用した。手ごたえは充分と確信して当日を迎えた。

     前日に鳥井講師と打ち合わせも完了、ぶつけ本番は臨機応変に、どんな事態にも即断できるように、想定事項をめぐらせての会場入りであった。30代から40代にかけて、数千人の会合を何十回となくまとめあげてきた貴重な経験を、ここに生かすことが出来た思いであった。

     一時間前から、会場に入り、教室の準備体制を整える。これにあわせて、次ぎ次ぎにクラブ会員が駆けつけてくれた。総勢18名の心は一つ、会場造りの開始である。囲碁十訣を黒板に張り出す、筆を執ってくれた樋口さんが先頭で順序よく整えてくれる。その間に教室の雰囲気作り、後部の窓際に囲碁関係の古書・100年の歴史をきざむ手作りの碁盤2点、中国の碁石・碁笥、夏用の細竹を組み合わせた碁笥、有名なプロ棋士の自筆の扇子、高川本因坊監修の定石をちりばめた大型のハンカチ。布の碁盤、世界の囲碁人口、日本における囲碁の歴史と、その歴史を彩った大棋士の一覧など、囲碁の道に踏み込んでいる人には興味津々の資料を並べた。

     入り口には受付と、飲料水の配布、最後の参加賞配布の体制を布いたところで開場。待ちかねたように参加者が顔を見せてくれた。挨拶を交わしながら教室の中に入り、黒板に張り巡らした囲碁十訣にまず目を留め、さらに後部に飾った関連資料は、囲碁愛好者にとっては、普段お目にかかれない逸品もあり、歩きながら覗き込む姿も見られた。席に着いたところで、司会進行の私が、開会の挨拶。クラブの鳥井講師を紹介して囲碁講座に入る。全くの初心者を対象に、優しい語りで大盤に石を並べた。

     アマの高段者も含め、上級者・中級者・初級者が顔を揃えるなかに、全くの初心者が15名余が参加、会場はその熱気に包まれて冷房を要請する状態。会館の管理官が途中で観察に見えて、その活況に驚いて声をかけてくれた。講義を切り上げてからは自由対局に入り、初心者を相手の上級者、全くの初めての方には、高段者の参加者が買って出て、優しい指導碁を展開していた。

     いつの間にか、躊躇していた人が、熱心に首をかしげ、石を握っている姿は、実にほほえましい情景であった。進行の中頃から姿を見せた三人家族は、日本に永住の台湾の方で、日本語もよどみなかった。特に小学生の息子さん8級ぐらいが熱心で対局を望んでいるとのことで、クラブ会員の初級・中級の人を選出して対局をしたが いずれも敗退。まさに伸び盛りの年代である。

     台湾で5段のお父さんも対局希望とのことで、高段者の金子氏に対局を依頼、二つ返事で対局開始、熱戦を展開していた。手持ち無沙汰の人は見えず、時間の経過を見ながら、十分前に終了を告げて、きれいに閉会。会場整理もつつがなくさわやかな幕切れであった。何よりも嬉しかったのは、会館の管理職員の方から、「こんな盛況ぶりは見たことがない、おめでとうございます。良かったですね」との言葉であった。

     お手伝いで駆けつけてくれた碁吉クラブの面々の胸中に、どんな刺激があったのであろうか、ゆっくりと耳を澄ませてみたいのである。

感動なき総理の所信表明とは

2011-09-26 | 日々雑感
     政治家の言葉の軽さを知ると、成る程とうなずけるのが新総理就任のたびに行われる所信表明演説である。いつも通り一遍、広く浅く当たり障りのない事項を取り上げて、誠心誠意実行に移して参りますというような趣旨である。

     与党議員は自賛し、野党議員は痛罵する。これが毎度の茶番劇である。目新しいこともなければ、目を開くような、心を揺さぶるような、同感を呼ぶようなものはない。それが当たり前の所信表明である。これが繰り返されると、耳をそばだてることもなく、新聞報道にも目を通さなくなる。

一国の総理の門出がこれであるから、それから先の国会運営は、毎度のような審議拒否、引き伸ばし、裏工作の繰り返し、これを見ているのは日本国民だけではない、海外の野望を秘めた国々鋭い眼光が刺すように感ぜられる。これでいいのか・・

     産経新聞の9月23日号の朝刊一面の「小さな親切、大きなお世話」の欄に作家の曽野綾子さんが、野田総理の就任後の所信表明について、こんなコメントを寄せている。(大意を摂り)

     「もう何度書いたか分からないが、歴代の総理の演説の、可もなく不可もない文章というのは、いったいどういう人が書くのだろう、と常々思っていたが、9月14日付けの毎日新聞の宮城征彦記者が、その点をはっきり報道してくれたのは、やはりお手柄だったと思う。私は今まで書き手の名前やポストを、長年知りたいと思いつつ知ることはなかった。」

     「"首相は演説を作成するに当たり、藤村修官房長官に基本的な考え方や政策課題を伝えた〟"その上で各省の意見を募り推敲を重ねた。首相周辺によると、実際に原稿をまとめたのは内閣官房の原勝則総務官で、首相と修正を繰り返した。〟政府高官は内閣総がかりだったという。」
     
     「最初に言っておくが、総務官その他は、条文や通達を書かせれば、実に完璧に仕上げる方たちなのだ。それは多くの一般人にはない一つの重要な才能だ。しかし人の心を打つ文章を書くという分野では、無理だったというか才能はなかった。」

     「一国の代表の就任演説や個々の場合のスピーチは、それによって世界にその国の意識や教養や思想を推し量られる資料になる。つまりそこには、指導者の哲学と美学が、全体にではなくとも、どこかにあふれ出る部分がなければならないのである。内容だけ満遍なく触れているスピーチなどというものは、実は何も言ってないのと全く同じことだからだ。」
      
     「首相の所信表明には、やはり国民一人一人が、その立場立場において、烈しく同感する部分がなければならない。同感は無難とは全く違う。同感という感動を与えるためには、特別に感動させる文章力が必要だ。」

     「迅速、公平かつ適切な賠償や仮払いを進めます。」「早急に具体化してまいります」「同じ地域に生きる者同士として信頼を醸成し,関係強化に務めます」「意欲あるすべての人が働くことができる全員参加型社会の実現。」これらのことすべてをのぞまないという人はいないだろう。つまり改めて言わなくても、誰もが考え望んでいることの羅列である。しかも現実となると、迅速も、公平も、具体化も、信頼も、ふさわしい関係も、意欲あるすべての人が働くことも、実現しにくいことばかりだ。・・」

     「総理は、どうしてこんな凡庸な文章しか書けないグループを、草稿の責任者にされたのか。一刻も早く、昔から心のうちをよく知る親しい友人の中から、プロ級の文章の達人を選んで、以後その人と最後の文体の仕上げをなさることだ」

     何と歯切れのいい指摘であろうか、そのとおりである。例えが悪いが、国会答弁で面白いのは、相手の矛盾を付いて切り込む論戦である。汚い表現もままあるが、本音のぶつかり合いがあるからである。願わくば、何事にも全身全霊でぶつかるその姿勢から、ほとばしる生きた言葉が生まれでるのではと考える。

政治家は自分の言葉に責任を

2011-09-26 | 日々雑感
     言葉の大事を知るに付け、今の政治家の発言に国の将来を担う熱情を感ずる事が無いのが残念でならぬ。選挙のため、保身のため、権力維持のため、大衆におもねる、耳障りの良い発言の多い事よ。

     産経新聞の記者・湯浅博東京特派員は、「くにのあとさき」の欄で、こんなことを述べている。「高望みはしないから、友愛でも打算でもない、ふつうの総理大臣がほしかった。民主党政権の2年間は、夢見る友愛主義の鳩山由紀夫氏から打算的なご都合主義の菅直人氏につなげて、日本は恐ろしく国力を落としてしまった。」

     「彼らの政治主導とは、思いつきの独断的権力行使だった。子供手当てを外国人にまで流し、尖閣諸島海域の漁船衝突事件のビデオを隠匿した。前言はすぐに翻すから、前首相が後継首相を"ペテン師〟などと罵倒する。当の前首相も午前と午後では変節した」

     「そんなわけで、新首相が誕生するたびに、"大言壮語、美辞麗句はいらない。ただ、語った言葉と心中してほしい〟と思うのだ・・・・・日本の有権者は、思想や言葉の横滑りには、いたって寛容なのだ。世界の政治家と違って、政治発言で命を落とすことはないから、閣僚たちの言葉は羽のように軽くなる。」

     「米国の閣僚候補は、議会の口頭試問を経て承認されるから、とても素人にはつとまらない。候補は矢のような質問を右に左に交わして反撃もする。いったん議会証言でつまずくと、閣僚候補は差し替えられるから必死である。・・・この内閣(野田首相)が成すべきことは、新首相が繰り返す"正心誠意の実行〟である。政治指導者は言葉に殉じてこそだが、どうだろう。不安。」と締めくくっている。 

まさしく的を射抜いている。政治家の公約は、破れたアドバルーンである。上げた時からしぼみ始めて、いつともなしに落下している。それを見上げる大衆も、心得ていて、ほとんど相手にしていない。落ちてもその責任を問うこともない。ということは政治家不毛の現在を演出しているのは、誰でもない我々ということになる。

     猛省すべきは・・・語るに落ちるとは・・・。

言葉が通じることの素晴らしさ

2011-09-25 | 日々雑感
     海外旅行先・北京で身に沁みて感じたことは、語学力の大事である。国内生活では、意識した事もなく、当たり前のこととして重きを置かなかった日常会話・言葉の持つ重さ、深さ、そして力を嫌というほど感じたのである。

     北京空港を出てホテル到着までの50分間、渋滞の中で見渡した左右の街並みを、質問したくても言葉が出せない。黙って見つめる味気なさ・・・。延々と続く車の多さ、市内に入っての林立するビルの多様化、どれをとっても想像を超えていたのである。
 
     三泊四日の短い旅程であったが、付きまとったのは語学の無さからくる不完全燃焼であった。特に三日目体調を崩して、部屋に缶詰になったとき、テレビチャンネルを暇にまかせて回した67局。その中で唯一、理解が出来たのはNHK。情けない。

     また、この北京で通訳をしてくれた北京女性、日本に留学、アルバイトをしながら大学を出て、今は北京に戻り大きな企業で通訳として活躍しているという。日本での生活経験が生かされて、特に心が触れ合う交流を感じたのを忘れられない。

     帰国して一番感じたのは、自分の気持ちを自由に語れる喜びであった。早速電話をかけまっくった。何の気兼ねも無く・・・
   
     その中で手にした新聞に「国際人の進め・松浦晃一郎著」の書評があり,デザイナーの森英恵(もりはなえ)さんが、推奨しているのに目がとまった。「長話をするな・自慢するな・責任から逃げるな・は日本の常識。一方、世界の常識は、長く話せ・自慢に徹しろ・絶対に自分の責任を認めるな。と」「こんな違いを感じながら半世紀にわたって国際社会を生きてこられた松浦晃一郎さん。駐仏大使など日本の外交官として40年、ユネスコという国際機関の長としても10年。外交のプロが語る貴重な本である。・・・国際社会で活躍していくために必要な事は何か、日本人として留意する事は、"まず大切なのは語学力、それから記憶力、判断力、議論する力。特に国際用語である英語の勉強を強調されている"とあった。

     齢75では、遅きに失しているが、語学力の大事は共感できる。言葉は色々なものを生み出しもするし、また色々なものを失わせる働きもする。少し言葉について追いかけてみる。

 



北京 頤和園にて

2011-09-25 | 日々雑感
       
  
     

     9月17日 長城見学が終わり、頤和園に向かう。
             
             頤和園(いわえん)  中国最大級の皇室庭園。
                        公園全体の4分の3が昆明湖で占められており、人工の山水や楼閣が織りなす
                        美観が有名。清の乾隆帝が造園し、のち英仏軍の焼き討ちなどで荒廃。
                        西太后に再建された。
                        写真は頤和園の中心的建造物で仏香閣(ぶっこうかく)

             午後から、息子の会社で通訳として知り合ったという若い中国女性が頤和園の案内をしてくれるという
             ことで合流。日本の大学にも留学し、日本通の才媛である。

             陽も少し傾きかけたころ、頤和園に入る。
             でも人はここでもいっぱいであった。目の前に広がる湖の対岸に仏香閣がそびえ風光明媚な所である。
             そのまた先に「せいあんぼう」と呼ばれる船型の建造物があるとのことだが、歩いてはたいへんな距離
             だと彼女に言われた。
             「蒼穹の昴」のなかで西太后が湖を眺めながら食事をしていた風景を思い出す。
             実際には動かない石造物だがヨーロッパの船に似せた部分があるそうだ。

             話ながら湖の岸に沿って歩き出す。
             入口のそばの案内図に「耶律楚材」の碑があると書いてあったので、この辺だと言いながら探す。
             どこを見てもないし、彼女もわからない。耶律楚材は元に仕えた契丹人である。
             中の案内者に聞いてもらうと、今は公開されていないということであきらめた。

             景色を見ながら歩き、全長728mという長廊に出たので沿って歩く。
             トウモロコシ売りがゆでたてであろうものを売っていて中国人の観光客が食べながら歩いている。
             白い色のトウモロコシ 食べたいな・・・・・
             そのあくる日、ホテルでおなじものを食べたが甘味もなくおいしくなかった。

             遠いと言われた石の舟まで着いてしまった。
             そこからは私たちが入った対岸までの観光船が出ていてまた人の列が続いていた。
             でももう歩く気はしないから乗ろうとして列に並ぶ。
             そこでも中国流というか日本のように並ぶにも秩序がなく、彼女に途中の団体にまぎれてしまうのが
             いいと言われ、なんとスイスのグループに紛れ込んでしまった。

             夕食は彼女と運転手の人と日本食・寿司を取った。
             結構、生類もたべるし、鰻重も食べる。日本の鰻と違いベタベタとしているそうだが。美味しそうに
             食べている。味覚も違うのだ。大陸的なのだ…いよいよ明日は帰国である。
            
           
             

万里の長城へ(八達嶺長城)

2011-09-23 | 日々雑感
北京入りして早くも3日目、明日は帰国なので1日回れるのはきょうだけで万里の長城を目指し朝8時にホテルを出発する。
迎えの運転手は柳さん。日本語はダメ。中国語はあまり話せない息子と双方とも片言で意志を確認している様子。
昨日、地元の人から8時にでたのでは渋滞にはまるから、もっと早く出るように助言されたので心配だったが市内を抜け高速道路に
出たとたんに車は混み合ってきた。
北京オリンピック当時、観光に来た友人から道路沿いにあったという小さい民家群なるものは整理されたのか大きな建物ばかり。
遠くに山脈が見えるようになると車は走れるようになった。
山脈がどんどん近づき、やがてその間を縫って進む。
山の頂上あたりにあれが長城かなと思うような建築物が見え始めたが八達嶺はかなり奥であった。   万里の長城は全長6350キロ㍍にも及ぶ人類史上最大の城壁。それは北方異民族の侵入を防ぐために歴代王朝が、弐千五百年もの長きにわたって築き上げてきたもので、数々の戦いと興亡を繰り広げ、多くの物語や詩歌を生み出しています。ひもどけば中国歴史が刻まれている城壁です。
新中国が成立する以前、長い間の放置で荒れ果てていたが、1,952年に八達嶺は修復され、1,987年には世界文化遺産として登録された。

 八達嶺長城直下の駐車場はすでに満車、柳さんは待っていてくれるからと私たちだけでロープウエイに並ぶ。息子曰く、まるでディズニーランドのようだ。列に並ぶ人々は外国人より中国国内の団体さんが多く、きっとはじめて観光に来たのではないかという雰囲気。それほどは待たず6人乗りのロープウエイに乗り、着いた所はまた大勢の人。

 北京の朝はひんやりするほど涼しく、ここへくるとまた一段と寒いくらいだ。空は澄み、遠くまで見渡すことができ、来てからの曇り空とはうって変り晴天。1番幸せな時だとおもった。

 もっとも混んでいて高そうな城楼を目指しGO!
はるかに続く階段は人の波々。押し分けかき分け。というとすごいけれど。ついているてすりには疲れた人々がいるのでしかたなし。ここでも息子曰く、登りたいという意志がなければ無理だね。段差が激しく10センチくらいのところも30センチくらいのところもあり。でももっとすごいのはハイヒールの女性がいた!

登ってみると思ったほどの距離はない気がした。まわりの景色は山から山へと城壁が続く。でも行けるところは限られているようだが、よくこんなものを機器のない時代に作ったものだと唖然とした。昔の人は本当にすごいの一言。
‘百聞は一見に如かず’というが、こんなところに来られたことに感謝しきり。