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元たばこ屋夫婦のつれづれ

つれづれなるままに

春の到来を告げる桜前線の歩み

2012-04-01 | 日々雑感
    東京の桜、ソメイヨシノの開花宣言が昨日(3月31日)気象庁より発表された。2月3月の寒さが影響して平年より5日遅いと言うが、今日4月1日の暖かさで木々の蕾が一段とふくらみを増したようである。そしてこれから桜前線の予報が春の到来の話題の華となる。

    そのさきがけのように読売新聞3月30日の朝刊にドナルド・キーンさんの「束の間の美だからこそ、日本で愛される桜」の一文が掲載されていた。桜を愛する日本人の心情を見事に表しているので、ここに引用させて頂く・・・。

    「桜はどうして、これほど日本人に愛されているのでしょうか。もちろん美しいからですが,もう一つの理由は花が長続きせず、束の間の美であるからです。日本人が愛するのは、桜の儚さにあると思います。花は散り、形あるものは壊れる。何事も永遠には続きません。まさに無常ですが,日本ではそうして物事が変わり続けることが受け入れられてきました。その中で、早く散る桜が美の象徴として崇められるに至ったのは不思議ではありません。」

    「西洋では永遠の美を求めて、大理石で宮殿を建てました。しかし、日本では
大理石どころか煉瓦の建物さえ多くありません。とにかく、桜は日本中で愛されており、毎年の春に"桜前線〟が予想されるのは、世界中で間違いなく日本だけです。桜は日本人にとっては、ただの花ではないのです。春の訪れを告げて、わずか数日の栄光に彩られた後、あっさりと散ってしまう桜こそは、日本においては、すべての花を代表する花と言えるでしょう。」

    短い囲み記事であるが、心に染み入るのである。また今年は、アメリカの首都ワシントンのポトマック公園に咲く"日米友好の桜〟が100周年になると言う。1912年、高名な科学者でニューヨーク在住の高峰譲吉博士と東京市長・尾崎行雄氏の働きかけと写真家エリザ・シドモアの希望によって実現。日本の桜の苗約3000本がポトマック河畔に植樹され、以来ワシントン市によって大切に育てられ、数年後には美しい桜並木で彩られるようになり、やがて毎年、全米桜祭りが華やかに開催されることとなり、今では満開時には100万人以上の人出があるという。今年は特にその100周年にあたり、盛大な記念行事が開催されたニュースが届いている。

    日本の桜祭りは、これからであリ、心待ちの日々が始まるのである。


    

ままならない人生にめげてなるものか

2012-03-30 | 日々雑感
     3月は我々夫婦の誕生月。70歳と76歳の節を乗り越えたが、周囲の環境は祝福どころか、次々に難題が起き上がり、それとの戦いでいささか疲れた。ブログの手も止まり続けたが、なにくそ負けてなるものかと奮起、ふたたび開始である。

     成増の店の問題も未解決、契約寸前までになったが、白紙に戻して再スタート。これで良かったと思う反面、けじめのつかぬままの新年度に入るのに、ふっきれないものが残る。だがこれも何かがあるからだと、新たに店の存在を見直している。

     96歳の誕生日を無事通り過ぎた義母の介護をめぐり、病院のベットから介護老人保険施設への入所と転換して、一歩前進したが、ここにいたるまでの交渉事に費やした時間は・・・病院もやすやすとは受け入れてくれない、通院していた院長の好意で道が開けてから今日に至るまで、心を砕いた妻の心労は深く重い。

     その苦労を支えてくれたのは、同じ道を歩んでいる先輩知人、その都度に何くれとなく声をかけてくれ、励ましてくれているのが救いである。勝手気ままな発言を繰り広げている暢気な人に振り回されてはいけないとの助言を背負って、これからも続くであろう介護への取り組み。

     これに加えて、店で触れ合った親しい友人の思いがけない突然の不慮、入院から死去までの、あまりにも短い時間にショックを受けたのもこの3月の前半、60代の若さ、元気印を謳歌していた婦人で、妻とは特に心を通わせていただけに・・・残された家族の悲嘆は心に響く。

     そのほか手を差し伸べなくてはならぬ親族の病、自分の問題もままならないのにと思うが、乗りかかった舟の進路だけは責任を果さねばと、考えれば考えるほど心は晴れぬが、これも二人の背負った宿命と開き直るしかあるまい。

     だが、こんな中にも明るい話題が孫から飛び込んだ来る。目指していた高校受験を見事に突破。レベルの高い県下で有名校だけに、これからも大変な勉学が要求されるが、当人のやる気満々の意気込みを知り、わが事のように心が躍る。

     趣味の碁吉クラブは依然好調、30名近くの会員のほとんどが参加して教室は熱気に満ちている。教室の準備には山口、須田の両氏の協力体制が敷かれて一安心。4月の教室には、さらに新規の参加者も見える予定との事、会員の熱意が熱く胸を叩かれるようである。

     30,31日の両日は、一昼夜にかけてうなり声をあげる悪風が吹きまくり、まんじりもしない嫌な日々を送ったが、これですべてが吹き飛んで、4月から新しい希望の幕開けと、心に言い聞かせている。

     

絆の文字がかすむ震災瓦礫処理の受け入れ拒否

2012-03-11 | 日々雑感
     東日本大震災による瓦礫処理が全くというほど進まず、一年経過した今日もそれがネックになって復興事業も遅々として進まない状況なのだという。

3月11日の読売新聞朝刊は、思わずこれはどうしたのかというほど一面の編集が大きく変化。トップ記事が編集手帳であった。大震災の丁度一年目の当日に寄せての読売の総意を表したものと受けとめた。

     その記事の中に「口にするのも文字にするのも、気の滅入る言葉がある"絆〟である。その心は尊くとも、昔の流行歌ではないが、"言葉にすれば嘘に染まる"(ダンシング・オールナイト)。宮城県石巻市には、市が自力で処理できる106年分のがれきが積まれている。すべての都道府県で少しずつ引き受ける総力戦以外には解決の手だてがないものを、"汚染の危険がゼロではないのだから〟という受け入れ側の拒否反応もあって、がれきの処理は進んでいない。羞恥心を覚えることなく"絆〟を語るには、相当に丈夫な神経が要る」とある。

     大震災の苦境のなかにみせた東北地方の人たちの分かち合う姿に、日本民族の絆の素晴らしさを世界で賞賛しているとの報道が駆け巡ったが、あれは艱難辛苦に立ち向かう東北地方の素朴な人情の絆を指していたのである。悲しい事に、それからの全国挙げての復興支援に入ると、次々にほころびが出始め、とどのつまりは、復興事業の入り口ともいえる被災瓦礫の処理が暗礁にのりあげたのである。

     気の遠くなる膨大な震災瓦礫、これを取り除かなければ、すべての事案が進まない、政府の要請により全国から選ばれた地方自治体にがれき処理の協力を求め、これに応じて快い受け入れ態勢の姿が見られると期待したが、どっこい、想像もしなかった拒否反応が出始めた。それが次々に恥ずかしげもなく同調する自治体が出て、全く進まなくなったのである。

     一度は快諾をしながら豹変したように拒否をするところも出始めるとなだれをうつように拒否の表明をわるびれもせずに手を挙げる責任者。良心の呵責のかけらも見えない。その理由は、"瓦礫の汚染の危険がゼロではないから"をあげるのである。こころみに住民の反対を挙げるが、自治体のなかの一部の人たちの動きに反応しての責任者の逃げの姿勢である。千年に一度の国難といいながら、その危機をともに乗り切る戦いを放棄していると見えるが、言い過ぎであろうか・・・

     ちなみに、拒否を表明した自治体を順不同で列挙すると、愛媛県、石川県、香川県、大分県、静岡県、京都府(受入れ撤回)、兵庫県、三重県、宮崎県、熊本県、鹿児島県、岐阜県、佐賀県、滋賀県、福岡市等である。もちろん一部の人たちの心無い反対が、こんな形になっているのである。いつもは数の多さを競い合い多数決を基にするのに・・・これが今の日本とは情けなさ過ぎる。愛国心のカケラもみえない・・・。
 

日本国籍取得のドナルド・キーン氏の叫び

2012-03-09 | 日々雑感
     日本文化研究者のドナルド・キーン博士は、大震災後に日本国籍の取得に行動を起こされていたが、その念願が叶い日本国籍が認められた。3月8日、居住先の東京都北区の区役所での記者会見で、その喜びと日本人名"キーン・ドナルド〟とともに新たに"鬼怒鳴門〟(キーン・ドナルド)を雅号とすることを表明した。
  
     この雅号は、栃木県の鬼怒川の鬼怒と四国の鳴門からとって、この漢字を当てたと説明。そしてこのあとの記者会見で、この雅号通り、震災後の日本の状況にあえて苦言を呈された。

    会見では終始朗らかなキーンさんだったが、話題が震災に及ぶと、表情が引き締まり「日本人は力を合わせて東北の人を助けると思っていました」・・・さらに「東京は電気が明るい。必要のない看板がたくさんある。東京だけではない。忘れているんじゃないか。まだやるべきことは、いっぱいあると思います」・・・と語ったという。
 
    何を指しているのか心ある人なら分かるはずである。国会中継を聞くたびに腹が立つ、これが日本国の舵取りを託した国政議員の論争である。国難・国難と叫びながら、復興に身を挺している議員が見当たらない。地方行政も然り、大震災で発生した災害廃棄物の処理すら、いまだに進んでいない。一部の心無い反対に振り回されて約束した事すら言を左右にしてけじめをつけられない。決断できない情けないリーダーばかりを見る思いである。

    マスコミが取り上げる一部には群がるが、救済を待つ人たちから見れば置き去りにされながらも必死で生活闘争している人の姿が消えているという声もある。大震災から一年も経過しての現状は、見る人から見れば「何をやっているのか、ともに国難に対処しての戦いがあるのでは、日本人の団結した姿はどこにあるのか・・・という声が痛いほど耳に届くのである。

    だが黙々と声もあげずに真心だけを支えとして、復興支援の手を休めず活動している人々も大勢いることを知っている。微力ながらお手伝いの真似事をしているが、残念だがそれを救いとしている情けない日本人の一人である。    

北海道は何故県ではなくて道なのか

2012-03-06 | 日々雑感
     第1章の冒頭の何故が、この問題である。
    「日本の最北端に位置する北海道は、江戸時代には蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた。それが明治2年(1869)、北海道という名称に改められた。その名は蝦夷地の探検家・松浦武四郎の提案に基づく。」

    「明治2年、開拓判官に任命された松浦武四郎が蝦夷地の新たな名称として、日高見道(ひたかみどう)、北加伊道(きたかいどう)、海北道(かいほくどう)、海島道(かいとうどう)、東北道(とうほくどう)、千島道(ちしまどう)の6つの案を提示した。道としたのは律令制下の地方行政区画、五畿七道(ごきしちどう・東海、東山、山陰などの七道)に倣ったものである。その6つの案のなかから北加伊道が選ばれ、それが北海道と修正された。」

    「松浦が北加伊道という名称を考えたのは、先住民族であるアイヌの人々が自らをカイと呼び、また蝦夷をカイとも読むところから、その名(カイ)を残しておきたかったからだという。明治2年8月15日、開拓使が新しい地名・北海道を正式に採用。その日が開道記念日となった。」
 
    「当初、北海道は11カ国・86郡に分割されていた。そして明治15年、開拓使の制度が廃止され、道内に函館県、札幌県、根室県の3つの県が置かれた。北海道にもかつて県があったのである。函館県は渡島半島(おしまはんとう)の全域、根室県は現在の根室、釧路、網走、十勝の一部、そして千島列島、札幌県はそれ以外の地域を範囲とした。この3県制度は4年足らずで廃止となり、北海道庁が新設された。」

    ここまでの紹介である。これを読みながら北海道の歴史を遡ると、さらに面白くなる。室町時代には渡島半島の南端に松前藩が拠点を設け、やがて先住民族・アイヌとの戦いが起こる、立ち上がった酋長コシャマインと武田信広の激戦は松前藩・武田の勝利で終わる。さらに時の流れは明治維新の戊辰戦争の最後とも言うべき箱館戦争につながり近代に至るのである。

面白い地名の話に日本の歴史が見える

2012-03-04 | 日々雑感
     埼玉県のある大型スーパーの3階で営業する書店の一角にバーゲンブックのコーナーがあり、知人との待ち合わせ時間の調整中に"日本人として知っておきたい地名の話"と言う本に出会い、衝動買いをした。

     著者は、1948年、福岡県生まれ。早稲田大学文学部を卒業した文筆家、日本雑学研究会の主宰でもある。著者には、「大雑学/数字で知る人体」「大雑学/海外ブランドの秘密」「大雑学/お天気のミステリー」(毎日新聞社)そのほか、幻冬舎、PHP研究所、学習研究所、グラフ社などから雑学を取り上げた多数の執筆がある。

     その書き出しを挙げてみる。「日本の地名の数は小地名まで含めると、1千万とも2千万ともいわれている。その中には1千年以上もの昔から生き続けているものもある。それぞれの地名には、その土地の風土や歴史や人々の暮らしが刻まれている。地名が貴重な文化遺産とか、無形の文化財とか言われる所以でもある。日本全国いたるところ地名が存在する。無数の地名、さまざまな地名に埋め尽くされている。」

     「地名もまた生きものである。近年、平成の大合併によって町村名が消滅している。自治体の大合併はこれが最初ではない。以前に2度行われている。明治21年(1888)に市制・町村制が公布され、それに先立ち町村合併が進められた。この明治の大合併によって約7万の町村が5分の1に減り、古い村名が大量に消えてなくなった。
2回目の大合併は、昭和28年(1953)の町村合併促進法のもとに行われ、同年に約1万あった市町村が昭和31年には約4千になった。以後も町村の数は減少を続け、平成15年(2003)には市町村の数は3190となり、平成の大合併によって、1800までに減ってしまった。(平成19年11月現在)合併の是非を問題にしているのではない。合併によって、由緒ある町名・村名が失われていくのが何とも残念なのである。」

    「本書は地名について、その由来を中心に記したものである。都道府県名、難読地名、珍地名、不思議な地名などを対象に、どのようにしてその名が生まれたかを探ってみた。由来を知ると、地名は生き生きとしてくる。地名を楽しんでもらうことを目的に書いたものなので、気軽に読んでいただき、少しでも地名に興味を持ってくだされば幸いである。」と扉を開いているので、目次のなかから面白いものを取り上げてみる。

    「47都道府県名のルーツ・北海道なぜ県ではなくて道なのか・青森県果たして、どんな森なのか・岩手県、岩と手はどう結びつくのか・福島県、島ではないのになぜ福島なのか・群馬県、どんな馬がいたのか・埼玉県、一体どんな玉なのか・千葉県、葉とは何の葉なのか・東京都、明治の昔はトウケイともよばれた?」などなど、次からその中身をのぞいてみる。日本人として是非知るべきだと思うからである。


    

古写真から見える歴史の道に感動

2012-02-29 | 日々雑感
     さる2月25日(土曜日)中学時代の学友・村山次雄氏に誘われて千代田区一番町25番地JCIIフォトサロンで開かれた"古写真に見る明治の東京・浅草区編"に参加した。東京メトロ半蔵門線の半蔵門駅下車4番出口から徒歩で数分の所にある。

     この写真展のメインは"石黒敬章・井桜直美トークショー"である。一枚の古写真から一速飛びに明治にさらにたぐると幕末にまでタイムスリップする楽しさは、たまらない。セピア色の写真に魂が吹き込まれると、多くの先達が歩んだ歴史の道が開かれ、その息ずかいまで聞こえてくるのである。

     今回は29日に完成する東京スカイツリーにちなんで、大日本東京写真名所一覧表の浅草区を取り上げたとの井桜直美さんの挨拶で始まった。
     
     「当時の浅草区は、現在の台東区の一部で、日本橋区と分ける神田川と東側は隅田川に囲まれ、西側には上野がある下谷区を境として区画されていました。田畑や低湿地帯が多く在った所ですが明暦の大火以降に、江戸の中心地にあった寺院や吉原が移され、さらに天保期には芝居小屋等もこの地に移り、次第に栄えてきました。明治年間になると、浅草寺の広い境内が公園地に指定され、ここに見世物小屋や飲食店が並び立ち、一段と賑わいを呈するようになったのです」と、セピア色の古写真を、舞台に大写しにして、その一枚、一枚を取り上げて、江戸時代の名残をとどめる中に維新の時代を支えながら浅草の賑わいを生み出していった当時の人々の活力を明かしてくれた。

        古写真では、吾妻橋から眺める浅草の街並み、本所側の川岸から吾妻橋の眺め、吾妻橋の本所側から見た浅草方面、江戸町一丁目の大文字楼とその奥の尾彦楼、新吉原の遊郭、厩橋から浅草方面の眺め、浅草寺の仁王門、仲見世通りから仁王門の眺め、新吉原の仲之町通りの朝などなど、が特に興味を持った。それにしても日本カメラ財団の古写真研究員として解説する井桜さんとは、どんな方なのか、セピア色の写真に魅せられたように語り続けるその情熱を知りたくなった。

    ネットでの紹介は型通りで、その一部を垣間見た。「平成3年より幕末・明治、大正期の写真収集及び研究に興味を深め、平成5年頃より古写真研究家として雑誌や書籍などの執筆活動に入る。また、古写真専門の販売と貸出をする"桜堂"を設立。平成12年には"セピア色の肖像"を出版。平成16年より日本カメラ財団より古写真研究員として嘱託勤務。年二回の古写真開催の担当者になる。」とあった。

    この日、厩橋からの二枚の写真の中に人の顔の映像が薄っすらと映るのを取り上げて、(神霊写真との声が聞こえる中)その写真が撮影された時代背景、社会情勢、特に地域の持つ特性、などから気球説を上げ、なお追求を続ける姿勢に、一枚の古写真に対する洞察力の並々ならない深さ、そして歴史の道に彩りを添える古写真の存在感を想い、これからに期待を大きくして帰途についたのである。


























     
     

「自然死」のすすめ・現役医師の提言

2012-02-11 | 日々雑感
    新聞広告の中に、こんな面白いタイトルを見た。「大往生したけりゃ医療とかかわるな」現役医師・中村仁一氏の「自然死のすすめ」、幻冬社新書の広告である。
  
    とにかく高齢社会は、医療の問題が多すぎる。医者とのかかわりに振り回され過ぎる。三人、五人と集まれば、病の話が必ず出る。どの人も病院通い。集いの予定を組むのに障害となるのが通院日。この日ダメです。その日もダメ。それではと時間調整するが、診療時間が長すぎて一日棒に振る話になる。治療はわずか五分なのに、診察の順番待ちで大半がつぶされるている。

    かくいう私自身も内科、耳鼻科、歯科に通院しているが、幸いにして時間調整はスムーズであり、今のところ大きな障害はない。人のことをとやかく言える立場にはないが、親族の付き添いで通った大病院での待ち時間には、我慢の限界を超えるものが多かった。予約時間の30分前に手続きを済ませ待機に入る。それから予約番号が表示されるまで3時間、さらに次の待合室でまた20分。さらに調剤薬局での薬の受け渡し時間が加わる、長いときは一時間。短い時で30分、これで一日の大半が費やされる。

    一年半も通った結果は、片目失明である。本人の薬の飲み忘れが主な原因とはいえ、疑問符はつく。ところで本題は、現役医師の提言の書である。6章に渡る小見出しを拾うだけでも、うなづけるものが列記されている。

    「大往生したけりゃ医療にかかわるな」「死ぬのはガンに限る。ただし、治療はせずに。」社会福祉法人老人ホーム・同和園・付属診療所所長・医師である中村仁一氏の提言である。

    第1章「医療が穏やかな死を邪魔している」では「・医療に対する思い込み・あなたは確実にこうなると断言する医者はとんでもないハッタリ屋・本人に治せないものを、他人である医者に治せるはずがない・ワクチンを打ってもインフルエンザにはかかる・解熱剤で熱を下げると治りは遅れる・鼻汁や咳を薬で抑えるのは誤り・自然死の年寄りはごくわずか・介護の"拷問〟を受けないと、死なせてもらえない」

    第2章「できるだけの手を尽くすは、できる限り苦しめる」では「・お前なんかそうやすやすと死ねんからな・極限状態では痛みを感じない・自然死の仕組みとは・家族の事情で親を生かすな・長期の強制人工栄養は、悲惨な姿に変身させる・鼻チューブ栄養の違和感は半端じゃない・老衰死コースの目安は7日~10日・植物状態での水分、栄養補給を中止した米国の2つの事例・食べないから死ぬのではない、死に時がきたからたべないのだ・分娩台での出産は、実は不自然・死に時をどう察知するか・"年のせい〟と割り切った方が楽・"看取らせること〟が年寄りの最後の務め・死ぬ時のためのトレーニング」

    第3章「ガンは完全放置すれば痛まない」では「・死ぬのはガンに限る・ガンはどこまで予防できるか・ガン検診は必要か・ガンはあの世からのお迎えの使者・"早期発見の不幸〟"手遅れの幸せ〟・ガンで死ぬんじゃないよ、ガンの治療で死ぬんだよ・超高齢者のガンは長生きの税金?・余命2,3ヶ月が一年になった自然死の例・手遅れのガンでも苦痛なしに死ねる・医者にかからずに死ぬと"不審死〟になる・ホスピスは"尻拭い施設〟?・最期を医者にすがるのは考えもの・ガンにも"老衰死〟コースあり・安易に"心のケア〟をいいすぎないか」

    第4章「自分の死について考えると、生き方が変わる」では「・"自分の死を考える集い〟は16年目に突入・"あなたもお棺に入って、人生の軌道修正をしてみませんか〟・救急車乗車拒否の実演に出っくわす・死生観に大きく影響した父の死にっぷり・"生前葬〟を人生の節目の"生き直し〟の儀式に・延命の受け取り方は人によって違う・死を考えることは生き方のチェック・"自分の死を考える〟ための具体的行動とは・意思表示不能時の"事前指示書〟はすこぶる重要」

    第5章「"健康〟には振り回されず、"死〟には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がける」では「・生きものは繁殖を終えれば死ぬ・医者にとって年寄りは大事な"飯の種〟・健康のためなら命もいらない・生活習慣病は治らない・年寄りはどこか具合の悪いのが正常・検査の数値は微妙なことで変わる・基準値はあてになるのか・病気が判明しても、手立てがない場合もある・年寄りに"過度の安静〟はご法度・人は生きてきたように死ぬ」

    終章「私の生前葬ショー」では「・モダン婆ちゃんとの出会い・親父の死・クイズにはまる・仏教とのご縁・自分史のまとめ・私の"事前指示〟その1・24時間ルールの誤解・私の"事前指示〟その2・私の"贈る言葉〟」
 
    これが、広告に出ていた、全容である。一つでも落とすと中途半端になると思いつつ、全部を映し取った。内容の要点が見出しになるというのが常識とすると、中身が少し透けて見えるような気がする。高齢者社会の歪があちこちにあらわになってきているだけに、興味は高まる。
     
    

生涯を孤児救済に捧げた石井十次氏の偉業

2012-01-28 | 日々雑感
  福沢諭吉翁の心訓のなかに「世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕し決して恩にきせない事です」との一文がある。これを胸中にしながら、もう一つ亡き母の言葉を常に思い出している。「受けた恩は忘れるな、人にしてあげたことは忘れなさい」である。

     さりげなく、あまり重くないことと耳に留めたが、実はそれが容易ならざることなのだということを、75年の歩みの中で何度も味わいつくしている。年初は新しい挨拶の集いが続く、ことに地元の議員先生の忙しさは、並みではない。集会の名称を取り違えて、慌てて訂正するひとこまもあるほど。一日に何箇所も時間刻みで顔を出すからである。

     ご苦労様である。だがその都度の挨拶のなかに、気にかかることがある。耳慣れてしまっているので当然と受け止めている人が多いと思うが、自慢げの活動報告である。「○○は、私がやりました、わが党でやりました。」「ことしも○○をやりますかならず実現します」などなど・・・盛んな拍手に包まれて納得顔である。

     課題も提案事項も、社会生活の中から必然的に起こってきた問題、それを取り上げ、多くの賛同を受けての事柄は、「私がやりました」というべきことではあるまい。心無い世辞が振り回される集いは、何か虚しい。

     そんな思いのなかに、読売新聞夕刊1月28日号のよみうり寸評に目を留めた。まさに人のために生涯を懸けて奉仕した石井十次氏の生き様が取り上げられていた。その生涯を調べれば調べるほど、頭がさがり胸が熱くなる。
 
     よみうり寸評「明治から大正にかけ、その生涯を孤児救済に捧げた石井十次は、"児童福祉の父〟と呼ばれる。岡山や宮崎に受け入れ施設を作り、多くの子供を育てた。」「20代初めの頃、幼い男の子と女の子を連れた貧しい巡礼の母親に出会う。"二人を抱えて生きていけない〟と訴えられ、男の子を預かったのが、救済事業を始めるきっかけだった。明治末期の東北大凶作では、800人を超す子供を引き取った。」「当時に比べ、物質的に豊かになったはずの現代日本。にもかかわらず、親からの虐待や養育放棄で居場所を失う子供が後を絶たない。」
     「そんな10代の子供たちを保護する民間団体の一つが、八年前に発足した"カリヨン子どもセンター〟だ。」「都内のシェルター(緊急避難場所)で個室や食事を提供し、担当弁護士が親との交渉や自立支援にあたる。これまでに200人以上が巣立っていった。」「神奈川、愛知、岡山、広島・・・。各地の弁護士らの手でシェルター開設が進む。傷ついた心が癒やされ、明日への希望が見つかることを願う。」

   この石井十次氏は、若くして高鍋出身の医師に進められ、岡山県の甲種医学校に入学、医師の道を歩み始めた。その学生時代に一冊の本に出会い(新島譲の同志社大学設立趣意書)国家の盛衰は教育にあることを学び、教育を自分の生涯の使命とする。明治20年(1887)社会全体が貧しく福祉というような考えも無い時代、22歳の若さで孤児救済と教育事業に着手。岡山県大宮村に孤児教育会を設立。以来48歳の生涯をかけて、孤児救済に奉仕。名古屋大震災、日露戦争の戦争孤児、東北地方の大凶作による孤児などなど3000人を超える救済を成した。その教育理念は、"社会に出て社会に貢献する活力ある人物を輩出せしむる〟であったという。このような高い志を持つ人物は、今も野に伏しているのかも知れぬ。 

     

       






























     



エビングハウスの忘却曲線と記憶法

2012-01-26 | 日々雑感
     1月20日の読売新聞朝刊の"くらし教育〟の欄に記憶法として「復習は1時間後に」と題して、人間の記憶力について面白い話題が提供されていた。囲碁の学習でぶつかるのは、記憶力の問題。教えを受けて理解したつもりだが、実戦になるとつまずく。すなわち覚えていないのである。若い時には、やすやすと覚えられた事が、今はすぐ忘れている。これが老いの悲哀なのであろうか、この話題には大いに興味を覚えて紙面を切りぬいた。

     「人間がいかに忘れやすい存在であるかを明らかにした、エビングハウスの忘却曲線。教育プロデューサーの出口汪(ひろし)さん(56)は、実験結果を示しながら、効果的な学習計画の立て方を教えてくれました。」

     「20分たつと人は覚えたことの42%を忘れ、その後は緩やかに忘却していくー。データで注目すべきは、最も忘れるのが、実は記憶直後だということ。忘れやすいものを棒暗記しただけでは、定着が難しいことは明らかです。"だから2度目の学習は、1時間後を目安に行うのが鉄則。"出口さんはそう強調します。」

     「1年後まで記憶を維持するには、4~5回の反復が必要と言われています。出口さんが推奨する学習計画を、英単語で説明すると次の通り。最初の日に100語を覚え、1時間後にチェックします。記憶できていないものだけを抜き出し、もう一度学習し直します。翌日、もう一度おさらいしますが、多分10分とかからない。これで3回繰り返したので、もう当分は忘れないはずです。次のタイミングは、1週間後で十分。さらに半年後、ダメ押しで復習すれば、5回繰り返したことになり、記憶の定着が図れます。」

     これをかみしめた記者の保井隆之氏は「棒暗記を防ぐには、文脈の中で意味をとらえるよう心がける。辞書を引かずに文脈から推論すれば,論理力も鍛えられるそうです。記憶と論理は表裏一体。論理を切り離した記憶法は、決して理にかなった勉強ではありません」と述べています。とあった。

     これは、対象が若き学生さん。高齢者が相手ではない。英単語ではなく囲碁定石を身に着けるため。少しばかり取り入れてみる事にする。長い間使わなかった、何かが甦るかもしれない。期待込めて実践あるのみ・・・。

     注釈ー創造・計画・思考・判断など人間の高次脳機能を駆動する中心的な精神機能が記憶とされているが、その人間の記憶機能と復習の有効性について、19世紀のドイツの心理学者・ヘルマン・エビングハウスが発表した忘却を表す曲線をエビングハウス曲線という。 


主要企業の8割が認める「産業空洞化」

2012-01-15 | 日々雑感



     昨年の暮れのこと、数人の知人から、長年勤めた会社が倒産して息子夫婦が
大変なことになっている。就職先が見つからない、身内の自慢をするようにとられかねないが、息子が就職する当時は、将来性のある優良企業で、入社決定の報告を受けた時は感激と息子の優秀さに鼻が高くなったもだったが、その息子が、特技を持っているにもかかわらずお呼びがかからないので、今は国内の就職をあきらめて、海外まで広げているという。

     さらに大学を出ても就職先が無くて、足を棒にしている。あんなに希望を持って卒業を目指していたのに、なんだか寂しい。でもくじけずに最後まで希望を持ち続けて頑張るしかありません・・・心なしかないつも明るい表情がこわばっていたの知る者として、国の中が、ガラガラ音を立てて組みかえられている気配を感じていた。

     だから産業空洞化については、ずいぶん前から感じていた。その事例らしきものは、実は、きわめて身近なところでも動いていたのである。、埼玉県和光市と板橋区成増の境界線上に当たる白子川の周辺に軒を並べるように活況を呈していた中小企業が、ここ10年位のあいだに、まるで潮が引くように倒産、廃業で姿を消してしまった。
 
     同時に、ここで働いていた社員、従業員の数千人の姿も消えた。その人たちを常連のお客として、賑やかに栄え、人々の交流に花を咲かせ、地域の商店街のイベントにまで発展したものも多々あったが、それも一つ減り二つ減りでついに跡形もなく消えた。

     成増北口商店街で46年の営業を続けた当店でも、多くの人たちとの別れがあった。なかには親族のように心を許しあった常連客との別れに、涙したことも・・・
今でも耳に残る悲痛な叫び「遅延していた給料を、ようやく頂き、これで一息と思ったら翌日、もし許せるなら一日だけ半分でもいいから、手形決済があるので貸して欲しいと懇願され、長い間心を寄せ合って働いてきた会社と社長を信じて、給料を返して今日出社したら、社長が蒸発して社内にあったものもなくなり、もぬけの殻だった。どうしたらいいのか途方にくれている。」泣き出しそうな表情で訴えるの聞いた事を昨日のように思い浮かべる。

    人としての最低限の道義をかなぐり捨てて逃亡した社長は、今どこで何をしているのだろうか、そこの従業員として最後まで働き、ぎりぎりまで誠を貫いて裏切られたあの人は、その後立ち直ってけなげに人の道を歩んでいるだろうか・・・。

    多くの中小企業は大手企業の下請けで、製品の仕上がりでも、納期の無理な要望にも、何を措いても応えていたのを聞いている。だが電話一本で、仕事が無くなる、流れが無くなる。会社の経営問題の浮上、同時に待ったなしの従業員の生活保障の問題がある、身銭を切って無給で奔走する。

    そんな経営者は、押しなべて善人であった。その姿を目前に見て、国内の主要企業の海外移転が加速され、国内の働く場や技術などが海外に流出する産業の空洞化を心配していたものであるが、タイランドの未曾有の大洪水で、東洋のデトロイトという現状を知り、ここまで日本企業が海外に拠点を移していたのかを知る事になった。すでに空洞化は日本経済、いや日本の将来の方向を問う問題にまでに進展していることに愕然としている。

    そんな正月の3日に産経新聞に「主要企業116社アンケート」と題した2面記事に吸い寄せられた。「産経新聞社が主要企業116社に実施したアンケートで、工場や技術などの海外移転の加速に伴う“産業空洞化”について、すでに起こっていると回答した企業が27%に上がった。業績の圧迫材料では約6割が円高を上げた。平成24年度の海外事業計画を拡大するとの回答は68%に上り、収益の糧を国外に求める企業の姿が鮮明になっており、日本企業が国内の事業環境悪化に伴い海外市場の進出を加速させ、結果として日本に空洞化が生まれつつあるという悪循環の実態が浮かび上がった。」とある。

    詳細は多岐にわたり細かく出ていたが、問題は、この現実を直視して、どう梶を取っていくのか、政権担当者と国政をゆだねた全議員の英知を信じて、見届ける以外に手の打ちようがないと観念している年金受給者である。     

今もあるマスコミの言論統制

2012-01-12 | 日々雑感
     言論統制等というと、すぐ思い浮かべるのは、一つのイデオロギーに結束した団体、あるいは国家である。とにかく一切の批判を許さない、自分たちの理念を絶対として他を認めない。自らが掲げる理念から外れた行動をとっても偽装理念を生みだして是とする。

     その団体、その国家にどっぷり浸かった人たちは、その矛盾も気づかなくなるようである。最近の報道では、中国、北朝鮮の動向・国情がこれに重なる。だがこの言論統制は、この日本にも、この民主主義国家にも、しかも現在も生き、うごめいているのである。

     それを、自らの体験をもとに堂々と明かした勇気ある作家がいる。昨年12月23日の産経新聞の一面「小さな親切、大きなお世話」の囲み記事に投じられた作家の曽野綾子さんである。

     題して〝イエスマンの国〟「先頃、オリンパスの元社長、ウッドフォード氏が、日本人の経営陣には〝イエスマン〟ばかりだったから、あのような結果になった、と発言した。彼は会社にとっては新参で外国人だったので、唯一思ったことを述べられる立場にいたのであろう。」

     「私は人生のほとんどを、一匹狼で通す作家という仕事に就いていたのだが、時々出版の世界にも〝イエスマン〟がいたことを思い出す。私は昭和も30年近くなってから作家生活に入ったのだが、、それ以来ごく最近まで闘ったのは、新聞雑誌テレビなどのマスコミの言論統制であったことを、普通の人は知らない。初期の頃、新聞は創価学会に対する批判は一切許さなかった。広告収入の第一のスポンサーだったからだろう。」

     「第二の波は、中国におべっかを使った時代である。中国の批判記事は署名原稿でも書き換えを命じられ、それを拒否するとボツになった。産経新聞以外の全マスコミが、足並み揃えて中国や時には北朝鮮礼賛もしたのに、それを謝罪したマスコミは一社もない。」

     「第三の波は、特定の人に対する盲目的尊敬を強要し、その人に対するいかなる批判も許さなかったことだ。司馬遼太郎氏に対する批判記事には、新聞社の幹部までが異常な反応を示し、その部分の訂正を求めてきた。しかしこれは司馬氏の責任ではない。」

     「第四の波が、差別語に対する長い年月に及ぶ執拗な言葉狩りだった。一例をあげると、らいという病気は〝らい〟が正確な病名だが、ハンセン病と表記しないと許されない。最近でこそ、かなり多くの新聞と、ほとんどの雑誌がそうした圧力をかけなくなったが、私の作家としての半世紀は、この差別語狩りと闘うことも大きな心理的な仕事だった。差別の心理は、個々に批判されてしかるべきだ。しかし現世では差別語も必要なのである。なぜなら作家は善ばかりではなく、悪も書くのだから、悪を表す表現も残しておかねばならないのである。」

     「戦後、日本の官庁にも会社にもマスコミにも、そして家庭にも、イエスマンばかりが、はびこった。理由は、はっきりしている。人々が物質的な安定を生涯の希望とした結果、教育も勇気ということを全く教えなくなったからだ。つまり正しいことを意識し、自分の思想を持ったら、結果として言うべきことは言い、時には出世はもちろん命の危険にかえても自分の思想を通すべきだ、などと誰も言わなくなったのだ。」

     「イエスマンはどこの分野にもいる。もちろん芸術家にもいる。学界にも、学閥を泳ぎ切るために、世にも醜悪なイエスマンが増えた、と私に教えてくれた人がいた。かって中国は〝批孔〟と称して孔子の思想の一切を否定する社会運動を起こした。それ以来、半世紀も経たないのに、今ノーベル平和賞に対抗した〝孔子平和賞〟なるものを作り、しかもそれを政治的に使おうとしている。魂から、香気ではなく臭気が匂うというものだ。ただ、イエスマンになるのを防ぐには、組織をクビになっても何とか生きていける道を、常日頃用意していなければならないだろう。私の場合それは畑作りで、今も細々とやっている。」と。

     胸のつっかえが取れるような明快なる発言である。美辞麗句を臆面もなく並び立てる政治家に、この勇気がひとかけらでもあるなら日本の将来は必ず開けるであろう。・・・


 
  
 





東洋大学学長の・ドナルド・キーン名誉博士への称賛

2012-01-11 | 日々雑感
     読売新聞朝刊1月9日号に東洋大学・白山キャンパスで、同大学学術顧問を務めるドナルド・キーン氏が、「名誉博士称号授与・記念講演」を昨年の11月26日に行ったことが明かされていた。

     当日、東洋大学・竹村牧男学長は授与式に望み、学長あいさつで次のようにキーン氏を称賛された。
     「ドナルド・キーン先生は、日本のあらゆる時代の多様な文芸作品を深く研究され、日本文学の通史を完成されるなど卓越したご業績を上げてこられ、2008年には文化勲章を受章されました。」

     「さる3月11日、日本が東日本大震災に見舞われた際には"日本にどのような恩返しが出来るだろうか"と自問され、ついに日本人とともにいたいと日本永住を決意されました。そのご厚情に私たちは心から勇気づけられ、日本の復興、再建への決意を新たにしたことでした。」

     「東洋大学では08年以来、キーン先生に学術顧問をお願いし、学生への特別授業をはじめ、多大な貢献をいただきました。加えて先生の日本文学研究の世界的なご業績を称え、東洋大学名誉博士の称号を授与させていただきます。」

     「東洋大学は日本文学・文化の国際的な研究拠点、発信基地を構築してまいります。キーン先生には今後ともご指導を賜りますよう。お願い申し上げます。」

     このあと、キーン博士の記念講演「王朝の美意識」が次のように行われた。

     「紫式部の源氏物語が日本で書かれた11世紀、ヨーロッパには女性が書いた文学はまだありませんでした。ヨーロッパ貴族による美術は、金や銀が多用された男性的なものでした。平安時代の社会は男女平等ではなかったけれど、女性が物語を書いた点で世界的にも稀有と言えます。」
   
     「平安朝の人々は、いつも、美しい物を求めていました。その象徴が源氏物語の主人公、光源氏です。彼は女より美しく、体から見事な匂いが香り立ち、絵画も舞も得意です。そして美と恋のためだけに生きていました。女性に近づく際には手荒なまねをせず、手紙を書く際は紙の質感まで配慮した。西洋文学に出てくるラブレターより、ずっと麗しくみえます。ロシアの文豪プーシキンの〝エブゲーニイ・オネーギン〟には、女性が年上の男性に向かって長文の手紙をつづる場面があります。情熱的な内容ではありますが、その紙質や字の濃淡、ましてや手紙に花を添えるなどは全く考えていないのです。」

     「さらに、当時の貴族や姫君たちの手紙は、単に〝私は愛しています〟と散文で書く代わりに、優美な短歌をしたためました。光源氏は明石の君にこのような歌を贈っています。<をちこちも知らぬ雲居にながめわびかすめし宿の梢をぞとふ>(ここかしこもわからず、はるかにうわさを聞くのみに、思いあぐねて入道がほのめかされた家のこずえを目指してお便りします)」

     「一方、源氏物語とともに平安時代を代表する文学作品は、清少納言の〝枕草子„です。冒頭の文章は、おそらく世界文学で一番美しいものでしょう。<春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎはすこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる>文章だけでなく、内容も機知に富んでいます。〝枕草子〟では<ものづくし>と称して<うつくしきもの><めでたきもの><すさまじきもの>などと様々なリストを挙げていきます。簡単そうに見えて、これは難しい。自分で挑戦すると、ニ、三個ですぐ行き詰まってしまいます。」

     「平安朝の美意識には、まず源氏物語に描かれる″あわれ〟―自然の美しさ、人と人との関係など、細かなことに敏感であることがありました。もう一方に、枕草子の<をかし>―人間の生活に悲喜劇を見いだし、機知を交えたユーモアでそれをつづることがありました。源氏物語の<あわれ>と枕草子の<をかし>を合わせれば、日本の一番すばらしい文学と言えます。平安朝はまさしく、日本文学の黄金時代だったのです。」

     優しく語りかけるような記念講演、日本文学の黄金時代は平安朝にあり、世界的にみても稀有なことと言う称賛が、深く脳裏に吸い込まれた。キーン先生の日本文学への並々ならぬ造詣と温情にふれ,日本人としての誇りをもって生き抜く決意を新たにした年頭である。

     
    


新春の新聞記事・ドナルド・キーン氏の言葉

2012-01-04 | 日々雑感
     年末から年初にかけて雑事に流されてブログに手が回らなかった。恥ずかしいことだが今日になって、元日からの新聞に目を通し始めた。こんな正月は初めてであるが、実は何か吹っ切れないもやもやがあるからパソコンを開くのをためらったのである。

     言い訳はここまでにして、主題にはいる。産経新聞の元旦号一面トップは「Theリーダー」・・・「平成の竜馬どこに」と題しての連載のはじめである。「年のはじめに」の論説委員長の「日本復活の合言葉〝負けるな〟」にうなずきながら、2面を開くと、下段の広告欄に引き寄せられた。「新潮社2012年賀正」の囲みなかにある「日本人よ、勇気をもちましょう ドナルド・キーン」の言葉である。

     「かつて川端康成さんがノーベル文学賞を受賞したとき、多くの日本人が、こう言いました。〝日本文学が称賛してもらえるのは嬉しいが、川端作品は、あまりに日本的なのではないか。〟日本的過ぎて、西洋人には〝本当は分からないのではないか〟という意味です。分からないけど、〝お情け〟で、日本文学を評価してくれているのではないかというニュアンスが含まれていました。」

     「長年、そう、もう七十年にもわたって日本文学と文化を研究してきて、私がいまだに感じるのは、この日本人の、〝日本的なもの〟に対する自信のなさです。違うのです。〝日本的„だからいいのです。」

     「昨年、地震と津波に襲われた東北の様子をニューヨークで見て、私は、”ああ、あの「おくのほそ道」の東北は、どうなってしまうのだろう”と衝撃を受けました。あまりにもひどすぎる原発の災禍が、それに追い打ちをかけています。しかし、こうした災難からも、日本人はきっと立ち直っていくはずだと、私はやがて考えるようになりました。それは、〝日本的な勁(つよ)さ〟というものを、心に沁みて知っているからです。」

     「昭和二十年の冬、私は東京にいました。あの時の東京は、見渡すと、焼け残った蔵と煙突ががあるだけでした。予言者がいたら決して〝日本は良くなる〟とは言わなかったでしょう。しかし、日本人は奇跡を起こしました。東北にも同じ奇跡が起こるのではないかと私は思っています。なぜなら、日本人は勁いからです。」

     「私は今年六月で九十歳になります。〝卒寿〟です。震災を機に日本人になることを決意し、昨年、帰化の申請をしました。晴れて国籍がいただけたら、私も日本人の一員として、日本の心、日本の文化を守り育てていくことに微力を尽くします。新しい作品の執筆に向けて、毎日、勉強を続けています。勁健(けいけん)なるみなさん
物事を再開する勇気をもち、自分や社会のありかたを良い方向に変えることを恐れず、勁く歩を運び続けようではありませんか。」との呼びかけ、優しい語りかけの中に見る日本国への深い思いを感じたのである。

     ドナルド・キーンという方を私は知らなかったといった方が当たっている。どこかの紙上でそのお名前を何度か目に止めた覚えががある程度、誠に愧ずるばかりである。正式名はドナルド・ローレンス・キーン氏。アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク市で1922年6月18日に誕生。本年6月で90歳の卒寿を迎える。現在日本国籍取得の申請中とのこと。

氏は日本文化を欧米に積極的に紹介、数々の業績を残している。日本在住の東京都北区では、名誉区民の称号を受け。また、米国のケンブリッジ大学、セント・アンドルーズ大学、ミドルベリー大学。日本では、東北大学、早稲田大学、東京外国語大学、慶応義塾大学、敬和学園大学、杏林大学、東洋大学などから名誉博士を受けている。そのほか栄典では、1993年に勲二等旭日重光章。2002年に文化功労者。2008年に文化勲章を授与されている。

     日本での著書も多い、論説、評論、随筆、歴史小説などなど、代表作では日本文学史、明治天皇、日本人の西洋発見、日本との出会い、日本を理解するまで、日本人の質問、百代の過客・日記に見る日本人、日本語の美、日本文学は世界のかけ橋、などなど多数。1962年の菊地寛賞を始め、国際出版文化賞、読売文学賞、日本文学大賞、全米文芸評論家賞、毎日出版文化賞、などなど他に多数の授賞あり、調べれば調べるほど日本人として知らぬではすまされないと・・・至らぬ浅学に反省しきりの正月である。

     
     

      






北朝鮮の権力者・金正日総書記の死去

2011-12-21 | 日々雑感
     年末最大のニュースが世界を駆け巡った。どちらかといえば国際社会から孤立していた北朝鮮の最高権力者・金正日(キムジョンイル)朝鮮労働党総書記(69)が12月17日に国内の列車内で急性心筋梗塞により逝去したとの発表である。

     北朝鮮の報道は19日の発表。国内外に2日間も秘されて上での公表である。北朝鮮の内部動向に最も敏感であるのは38度線で対峙する韓国。読売新聞の報道によると、その韓国当局者は「発表まで2日かかったのは、暗殺などの事件死の疑いを内外に持たせないため、死因を慎重に見極めたからだろう。死去が国内の混乱を招きかねないことに、それほど神経質になっている」と分析したとある。

     また、北朝鮮メディアは死去公表と同時に、三男・正恩(ジョンウン)氏を"偉大な継承者〟"卓越した領導者〟と位置づけ後継移行にトラブルはないことを強調。直後に葬儀日程や国家葬儀委員会名簿も発表するなど、権力内部の混乱説を払拭するための周到なる準備がうかがえるとも伝えている。

     28歳の三男が、卓越した領導者、偉大な継承者というが、何をさしているのであろうか、その手腕は未知数であることは明らか。それを皮肉って読売編集手帳にこんな例えが出ている「薄暗い夕暮れどき、行き会う人の見分けが付かない。あれは、さて誰だろう?誰そ(たそ)、彼は--“たそがれ”の語源といわれる。民を飢えさせ、国際社会から孤立したたそがれの金王朝は“誰そ彼”の人に引き継がれる。北朝鮮の国営メディアは最高指導者の金正日・朝鮮労働党総書記(69)が死去し、三男・正恩氏(28)の統治に移行すると伝えた。正恩氏なる人物の人となりも、信条も、いまだに謎である。嘘八百とは言わないが、〝軍事、語学、コンピューターの天才〟といった嘘七百九十九ほどの官製宣伝が聞こえてくるのみで、何ひとつとしてつまびらかでない」後略。と。・・・言いえて妙である。

     一面の下にまた、こんなニュースも出ている「金正日総書記の死去が発表された19日、北朝鮮当局が中国との国境に近い地域に住む北朝鮮住民にたいし”追悼の花束を供える時以外は、むやみに5人以上で集まるな”と指示したことがわかった。2007年に韓国に亡命した脱北者の男性が、19日、本紙の電話取材で明らかにした」
と、これからどんな報道が飛び交うか、闇と謎に包まれた国だから、少し様子を見る以外になさそうである。