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元たばこ屋夫婦のつれづれ

つれづれなるままに

ぶらタモリ・地下鉄スペシャル後編

2011-12-16 | ぶらタモリを見て
     今回は日本の地下鉄の安全運行を支える舞台裏の秘密に迫るぶらタモリ、興味津々である。舞台は、中野区と杉並区の境目にある中野区富士見町の中野車両工場。そのなかにある研修施設である。

     最初に地下鉄の秘密を知り尽くしたスペシャリスト・梅垣氏の再登場。その案内にしたがい、初公開という地下鉄業務の研修施設に潜入である。ここは、東京メトロで働く2000人を超える駅職員が年に一度、接客サビースを研修する設備である。最新の自動券売機、自動改札機などの取り扱いをマスターさせるなど、日常の業務に支障が起こらぬような研修をするところ。新入職員は、まずここからスタート、研修完了の後に現場に配属されるのである。

    ここをステップアップステーションセンター(SSC)と称する。その内部には四つの駅が再現されている。銀座線の上野駅、日比谷線の上野駅、東西線の落合駅、有楽町線の辰巳駅。このなかで上野駅が二つあるのは別路線への乗り換えを再現するため。落合駅、辰巳駅は、他社線への乗り換えを想定するためなのである。実際の研修状況を再現、タモリ氏が飛び入りして挑戦する。応対する言葉使い、場所や方向を示す場合の手の上げ方など、チェツクは意外と細かい。
  
    この後、もう一つの研修施設に向かう。ここは更に一段と厳しい施設である。
それもその筈、新人の運転手、車掌の育成の施設。現役の運転手も車掌も定期的に訓練を受ける場所でもある。すごいのは、特注で造られた巨大なシミュレーター機材。ここであらゆる災害、事故などに対応する運転技術の訓練を受けるのである。 

特に本格的な運転のシミュレーターが特別に公開された。興味津々のタモリ氏は、許されて取り組む。映像を見ながら決められた駅のホームの停車位置にきちんと停車できるか、簡単な事ではない、だがこれが基本中の基本でもあるのだ。

    続いて地下鉄の整備工場に入る。車の車検のように地下鉄車両も定期的な検査がある。4年に一度、走行距離が60万キロを超える前に必ず、台車と本体が完全に分解され整備される。バラバラに分解された機器を、一つ一つ精密な点検検査の上、再び組み立てられ路線に戻るには20日間を要するという。台車専属のエンジニア、電気系統・制御制動系統など担当も専門別、それぞれで念密な点検整備が行われている。

    分解された機器が組み立てられていく作業がCGで映し出される。黙々と作業する一人にタモリ氏の質問が出る。この裏方に徹する気持ちを問うが、「縁の下の力持ちです」と微笑をたたえて応える姿に使命感に満ちた技術者の気概を見た。

    続いて案内されたのが、初公開という、来春に銀座線にデビューするというハイテク新型車両の雄姿。名古屋工場で製作されたもので、まだ届いたばかりだという。
その輸送大作戦、愛知県から東京までの300キロに及ぶ輸送に密着取材した貴重な映像が公開された。浜名湖の上を通り抜け沼津、川崎、東京では深夜、大型の専用車に乗せられて運ばれる映像は圧巻だった。この車両はすべてデジタル、LEDがふんだに使われている。ボデイは黄色、塗装ではなくフルラッピングという今までにない方法で作られている。メインの前照灯、車両内の照明もすべてLED、これにより40%の節電を実現するという。

    この後、地下鉄の総合司令所、特別なセキリテイ部門を外から見る。カメラだけが入ることを許される。地下鉄の安全運行のすべてをコントロールする心臓部の一部だけが公開である。さすがの巨大システム、部外秘が保たれるべきところでもある。日本の世界に誇れる特殊な機能を診るようでもあり、深く感動した。

















     


    






















































ぶらタモリ・日本最初の地下鉄「銀座線」から

2011-12-10 | ぶらタモリを見て
     ぶらタモリ、今回は「日本最初の地下鉄・銀座線」の秘密を探りながら地下鉄の歴史の一端をひもどいていく。

スタートは浅草からである。日本に初めて地下鉄が通ったのは今から84年前の昭和2年、上野から浅草までの2.2キロ。浅草・田原町・稲荷町・上野の4つの駅からなる地下鉄銀座線の誕生である。最初に登場したのは、梅垣次郎氏(東京メトロ広報部広報課)と山本努氏(同工務部土木課)の二人。東京メトロ所有の当時の工事現状を映した古い写真を始め、この工事を請け負った大成建設所有の地下鉄工事のフイルムが映像化された。

     初めての地下鉄工事は、またも人力による。道路を掘り起こし、川の水とたたかいながらの難工事を克服しての建造物であったが、現在に至るまで使われているという堅牢さ、先人の残した高度の技術と情熱の深さに感動する。(トンネルは手掘りであり、鉄骨と鉄筋をふんだに使ったもので、ここにしかないといわれている)

     上野駅近くに日本の地下鉄で地上にある車両基地は、ここにしかないという場所に案内される。20台の車両を収納できるという、この車両を出す時に交通遮断機が下りて一般車両を止める。地下鉄の地上の踏み切りが見られるのはここだけ、その現場を紹介する。(乗車人員の急激な伸びに併せて車両数も大幅増加、昭和43年にはさらに地下部分に車両基地は増設されている)

     もう一つ、実はここから銀座線の車両を地下に入れたのだという。地上の基地から勾配のある坂を下るように地下に吸い込まれるのである。ここで実際に車両に乗せてもらい運転席からの気分を味わい、喜びの声を上げるタモリ氏の無邪気な姿に共感
する。

     このあと、上野の検車区・地下車庫に入る。全車両の安全走行の検査・整備をする基地、地下鉄の動脈部分である。レールと枕木をつなげる犬釘、その釘を打ち込む「くい打ち」などの大事を紹介する。

     大正から昭和にかけての人口増加に併せて、交通網の整備充実を図り地下鉄の誕生となったとも言われている。ここで、その誕生当時のままの地下鉄の入り口が残こされているのが「浅草駅の入り口」雷門の朱色と同じ外装でひときわ目立つ存在である。このあと、日本初の地下鉄の駅、しかも始発駅。すでにあった自動改札機、それを利用するのに使われた10銭硬貨など、この当時の情景を古写真で偲ぶ。

    当時の地下鉄の鉄骨鉄筋の組み合わせによるトンネル構造、開削工法などの技術は現在の技術者が脱帽するというものだという。このあと秋葉原の末広町、万世橋の下を流れる神田川の横断工事が、大難事であったこと、川の下を通る電車ということで当時の子供新聞まで取り上げられたという。ここで、この地域の道路に蓋のように被されている換気口が開けられ、初めてカメラと一緒にタモリ氏一行がそこから梯子で下ると、突然視界が開けて現れたのは、地下駅に降りる階段であった。

     ここは昭和5年に作られた万世橋の仮停留場、末広町駅と神田駅の間にある。昭和5年1月から昭和6年11月までの2年間だけ限定的に使われたという。今は眠っている幻の駅である。続いてやってきたのが、新橋駅、9ヶ月だけ使われたという駅である。渋谷から新橋まで乗り入れていた東京高速鉄道会社が昭和14年に造った駅。鉄道統合で、今では幻の駅になったが、現在は留置線として再利用されているという。地下に眠る謎が次々にカメラに映し出される。ぶらタモリによってつぎつぎに脱がされる地下鉄の秘密。初めてというカメラの潜入は、胸が躍るものである。次回もこの地下鉄スペシャルだという・・・今から楽しみである。 

     

荒川と柴又をぶらタモリ・北区浮間から 

2011-12-06 | ぶらタモリを見て
     都会を流れる大河の秘密の後編でもある。最初に前回の人工の川「荒川」の歴史的経過をたどった後、訪れたのは北区の浮間。ここは土地の起伏が多い所で、荒川氾濫・洪水の時には、この地域が水のなかに浮いているように見えたということから「浮間」と名付けられたという。

      洪水のたびに低地であるために長い年月に亘り悩まされ続けたところなので、一帯の住民は、その防水策を講じて「水塚の家」と呼ばれる、特殊な家屋を作り上げていたという。

     JR埼京線の浮間舟渡駅前の一角に、現在もその家屋を見ることが出来る。
自らの手で1㍍から2㍍位の土を盛り上げ、その上に家を建て増していた。その「盛り土」を「水塚」と呼んでいる。その盛り上げた土台をさらに土崩れを防ぐために芝などの根が張る植物を植えて工夫をしていた。その昔、氾濫が繰り返されていた当時は、洪水時の状態により避難することも考慮して、どの家の軒下にも避難用の小船が吊るされていたという。

     実際に当時を知る高木はつさんが登場。ご主人の土運びを見ていた証言をする。荒川放水路誕生まで、自らの手で洪水と戦って来た低地の人々の苦悩を深く偲ぶばかりである。

     ここから駅前の浮間公園に入る。昭和42年に開園したこの公園のなかにある「浮間の池」が話題となる。実は、荒川を整備した時の川の一部を池として残したもので、荒ぶる川の流れを伝える貴重な痕跡なのだというのである。

     人の記憶ばかりではない、土地にも深く刻まれた記憶が残るのである。ここから観光スポットで人気の葛飾区の柴又に向かう。前回に引き続き、葛飾区の学芸員・橋本さん谷口さんの二人が、古地図を手に同行である。ぶらタモリを案内しながら、実はところどころで未体験の冒険を加え、新たな発見もしているようで、私たち以上に満喫しているのではないか・・・。

     柴又というと、渥美清の映画「男はつらいよ」の舞台となったところとして一躍全国的に有名になった地名である。柴又は1丁目から7丁目まであり、人口は約2万3千人を超える街である。

      江戸川の西岸に位置し、対岸の千葉県松戸市・矢切地区と結ぶ「渡し舟」も広く知られている。演歌に歌われる「矢切りの渡し」の渡し場がある。おおむねは住宅地だが、駅周辺には農地も現存する。克っては水郷の街として農業も盛んだったところでもある。だがここも洪水と戦って来た低地なのである。

      戦後の昭和22年のカスりーン台風による荒川流域の被害は甚大で、この柴又地域も水に溢れかえった。古い写真を手がかりに巨大台風のこの当時の災害を知る人々を求めて取材するなかに、実際に体験した人が、自分が幼児の頃、家の前で舟に乗せられている写真を持ち出して「これがそのときの洪水の様子」と示してくれた。

      このあと、水郷の街と言われ、農業が盛んだったころの柴又を、昭和12年頃の柴又の地図を片手に、その当時の田園風景を探り始め、幻の水路の痕跡を追跡する。その記憶は土地に刻まれ、小さいながらも畑を守り育てる人にぶつかる。下町の人情にふれて、心が温かくなった柴又であった。 

都会を流れる大河「荒川」をぶらタモリ

2011-12-05 | ぶらタモリを見て
     11月24日と12月1日の二回に亘っては、都会を流れる大河「荒川」の秘密を探るぶらタモリ。板橋区の高島平在住なので、大宮に向かう途上通り抜ける笹目橋から、特別な意識もなく眺めていた荒川。年に数回だが河川敷も散策、少年野球を見物したり、土手に座って弁当を開く楽しみも味わっている。

     その「荒川」がテーマーである。それなのに人並みに諸事繁多に追われてテレビを見ることも出来ない日々が続き、見逃してしまった。慌てて再放送を捕まえて、やっと見ることが出来た。ただし深夜の放映で、終了は午前2時を回った。メモをとりながらなので眠気は吹っ飛ぶが・・・翌朝でコントロールである。

     さて本題である。都内を流れる川のなかでも特に大きいのが荒川、だがこの川の一部が「人工の川」だったことを知る人は少ないのでは・・・荒川は甲武信ヶ岳を水源として173キロの流れをくだり東京湾に注いでいる。その流れのなかに、実は都内北区より海までは22キロあるが、この22キロは洪水対策のために掘削して造られた人工の川だったのである。
 
     最初に葛飾区郷土と天文の博物館学芸員の橋本直子さんが登場。人工の荒川誕生の秘密をひもどいていく。大正5年(1881年)の一万分地形図・東京近傍2号の古地図を手にし、海が内陸まで入り込んでいる克っての地形を指差し、さらに当時の江戸川、中川、隅田川の流れ、蛇行の多い荒川の流れを示した。

     さらに「荒ぶる川」の異名をもつ当時の荒川の暴れぶりを明かす。川幅が小さくしかも蛇行の多い問題の川は、大雨、台風のたびに氾濫を繰り返し、この河口付近に住んでいる人々を長い間苦しめてきた。洪水が人や家を流すことはなかったが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。
 
     明治43年(1910年)8月、関東地方に非常な長雨が続き、荒川(現隅田川)及び、ほかの主要河川も軒並みに氾濫。東京、埼玉などで大きな被害が生じた。家屋流失1500戸、浸水家屋27万戸、死者223人、行方不明245人、堤防決壊300箇所、橋梁被害200箇所に及んだ。

     この甚大な被害に、翌年の明治44年(1911年)政府は根本的な首都の水害対策を緊急として、荒川放水路建設を決定。逐次工事に着手したのは二年後の大正2年(1913年)であった。

     国家プロジェクトとしての一大工事は、内務省による調査、設計を経て、土木技官を責任者として動き始めた。用地買収は実に1000ヘクタール。家屋1300戸に及んだ。これにより3村が廃村、周辺の町村へ編入されるなど、着々と足固めが出来上がり、体制整い次第逐次着工となった。

     だが工事は、大変であった。大半が人力による手作業。蒸気掘削機やトロッコ、浚渫船も実用化されていたが、現代のような重機器は全くなく、予定の工事期間10年を大幅に超え、完成まで17年の歳月を要した。総予算も2.5倍になり、総数300万人を工事に動員。工事期間に何度も台風に襲われ、そのつど多大な損害を受けながらも工事の手は緩めなかった。(30名近い犠牲者、出水、土砂崩れ、工事用機械、船舶の
流失、加えて関東大震災で工事中の堤防の亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落などなど
工事関係者の苦悩はいかばかりであったか・・・)
 

     隅田川と荒川が分かれる場所に出来上がった岩淵水門。大正13年(1924年)完成により、荒川放水路への注入が開始され、さらに浚渫工事などの関連工事が完了したのは昭和5年(1930年)。以来東京は洪水に見舞われることが無くなったのである。いうならば、荒川放水路(人工の荒川)と岩淵水門は、首都圏を水害から守る二枚看板なのである。 

     国土交通省・荒川下流河川事務所の門屋博行さんの登場で、思いがけない事態に進行。タモリ氏一行が岩淵水門の内部に潜入することになり、初めてカメラが入った。螺旋階段を97階も上がり水門最上部に出て、水門の開閉を実地体験。1分間に30センチの速度で動き、スイッチを入れてから45分で水門がしまる。などの秘密を知ることになる。
 
     このあと、荒川をくだり木根橋で下りたところで葛飾区郷土と天文の博物館学芸員の谷口栄さんが顔を出す。また古地図から話は2万年前に飛んだり、その地図に隠れていた古東京川の地形と現在を重ね合わせたりして、長い歴史に隠されていた川を甦らせて、「土地の持っている記憶」を語る。またこの人工の荒川誕生によって移転を余儀なくされた徳川家の祈願所であった浄光寺を追いかけた。当時は3万坪もあったといわれる由緒ある寺院。ここで徳川家康よりの書状を拝観、家康の自筆を確認するなど荒川から一挙に徳川開府にまで飛んだ。これだから面白いのである。次回は荒川と柴又である。どんな秘話が明かされるか・・・











 




















 

     

ぶらタモリ江戸の動物と上野動物園

2011-12-03 | ぶらタモリを見て
     江戸の動物の続き、後編である。ぶらタモリでは初めての前後編の放映である。まずやってきたのは浅草雷門。東京の観光名所として名を轟かす場所。多くの人々が行き交うなかで、学習院女子大学教授の今福里子さんが登場。この雷門からあまり離れていない所にある江戸時代から続く老舗の有名店・焼き肉や「ちんや」に案内される。

     「ちんや」の「ちん」とは犬のこと、江戸時代はお金持ちや遊女達が好んで飼っていたという。この「ちんや」は、今で言う「犬のブリーダー」だったが、明治時代に入って食文化の大きな変化に合わせて「すき焼や」に転身したのだと言う。この屋号がその当時の痕跡なのである。

     戦乱が治まった江戸時代は、庶民の生活も大きく変化、ペットブームが広がり、その究極には「花鳥茶屋」まで出現した。海外からは象・オランウータン・ラクダなど珍しい鳥獣類・植物などが次々に持ち込まれていた。なかでも人気があったのが「ラクダ」・・・穏やかでゆったりとしている姿を、家庭円満に重ねていたという。

     明治5年に博覧会が開かれ、これを契機に常設の博物館が誕生。これが引き継がれ、やがて明治15年に日本最初の「恩賜上野動物園」が開園された。上野動物園の小宮輝久園長が登場、園内を歩き始めると、一般の人はお目にかかれない、園内の裏側が次々に明かされる。

     飼育されている動物の数は、500種類、約3000頭。園内の広さは14ヘクタール。最初は1ヘクタールではじめられたが、やがてどんどん拡張されて現在にいたっているという。

     園内を回ると、突然現れたのが、土塀にかこまれた一角にある藤堂家の墓所。信長・秀吉・家康のそれぞれに仕えたことで知られる名大名・藤堂高虎を初めとする藤堂家代々の墓所である。この場所は、江戸時代初期・藤堂家の下屋敷があったところ。1652年、上野寛永寺が造営されたとき、この土地を幕府に寄進。明治以降、寛永寺の敷地に動物園が出来、その規模が次第に広がりを見せたが、この藤堂家の墓所だけはここに残されたのである。

     飼育係・黒島英俊さんの登場で、動物飼育の想像を絶する姿を知る、年一回は必ず訓練をする「脱出時の捕獲訓練」そのときに使われる用具の数々が公開された。実際に昭和11年黒豹脱出事件が起きたという。さらに舞台裏の秘密が明かされるが、注目は世界初の「熊の冬眠施設」・・・熊が冬眠状態に入った姿を観察できる施設は凄い。また「猿山」は昭和6年に作られたが、これは左官職人の結晶であるという。

     最後は動物園の西園と呼ばれる「子供動物園」。ここには日本在来の貴重な動物が飼育されている場所。超穴場であるという。野間馬(野間馬)を初めとする木曽馬や
口之島牛、尾長鳥、トカラ山羊,アグー(沖縄在来の豚)、などなど野生の動物を見ることが出来るのである。ここにも日本の貴重な文化遺産が残されているのである。

     動物園の歴史を知るとその存在価値が輝きをます。あらためて上野動物園に足を運ぼうと考えている。パソコンの故障で、投稿が出来ず大分遅れてしまったのを反省している。続けてぶらタモリをまとめる。

ぶらタモリの再開、江戸時代にペットブーム

2011-11-25 | ぶらタモリを見て
     このところ雑事に追われて、ぶらタモリの放映日すら忘れ、再放送で見る有様である。しかし続けたものをとぎらせるわけにはいくまいと、再び「記録する」ことに挑戦。
  
     約半年ぶりの新作・第三弾は、現代の都会の街並みに隠された「江戸時代の人々と動物のかかわりを探る」もので、題して「江戸の動物でぶらタモリ」である。古地図や古文書をひもどきながら次々に浮かび上がる事実は驚きの連続であった。

     登場した都会とはJR中野駅から歩き出した中野区中野3丁目、「学生時代ここで下宿していた友人がいたんだよ」若き時代を偲ぶタモリ氏の前に突然登場したのは法政大学教授・根崎光男氏。人間と動物のかかわりを研究しつづけている先生である。早速、古地図・古文書をひもどきながら、江戸時代に今で言う「ペットブーム」が起きていたことを明かす。

     徳川政権によって戦乱は治まり、平和が続いた江戸中期、人々は生活の潤いを求めて、身近な小動物・犬、猫、小鳥などをペットとして可愛がるようになり、やがてペットの競い合いが始まり、珍しさを求めて海外から輸入もはじまるなど、ブームが巻き起こっていた。中国、オランダ、ジャカルタ、などからの洋犬も登場してくる。さらに大きな馬、牛、象等をはじめ猛獣も登場、見世物としての動物も生まれたのである。だが動物が増えるに連れて色々な問題が生じ、やがて登録制度をもって、社会の安定を図るなどの工夫も生まれたという。

    江戸幕府5代将軍綱吉によって貞亨4年(1687)生類憐れみの令が出されたが、これは犬、猫のみならず小鳥、魚をはじめ生物の殺生を禁じたもので,時には「お犬様」事件のような、人々を苦しめた悪法として名を残しているが、見方によると日本最古の動物愛護の精神であるとの見解も起こっているという。面白い話では、この当時もカラスとトンビなど弱いものを傷つけるものは駆除の対象になっていたというのである。
  
    中野区に隠された意外な秘密とは、街々にさまよう野良犬10万匹を集めて大切に飼育していた巨大な施設があったという。その施設は「お囲い場」と呼ばれ、捨てられた犬を集めて飼育していたのである。古文書に寄れば、野良犬は旅犬と呼ばれていてここに集められたという。

    この施設の大きさは、「犬小屋御囲場絵図」によると、今の東京ドームが20個分がそっくり入るくらいであったという。グラフイック映像によって江戸時代のお囲い場に集められた10万匹の様子が再現されたが、今では想像も出来ない凄い施設であった事が判明する。

    このお囲い場の痕跡を発見、笠井さんというお店の方が登場、この裏手一帯がその場に当たるといい、その犬に与えていた飲み水を提供していた井戸が現存していることが紹介された。この先代の祖父も顔を見せ、「ここらには野生のイノシシ、ブタもいたし、ここから10キロ先の荻窪・四面道まで見えたよ」と当時を偲ぶ語りも入った。

    昭和6年から41年まで、現在の中野4丁目は「中野区囲町」といわれていたという。またこの近くの商店街の中にもお囲いの痕跡がある。ビルの上にNPO・救助犬協会が存在しているなど「DNA」は生きているのである。そこでこの「お囲場」周辺で高低差をたどると、「お囲い桃園公園」を発見。桃の花の名所としてかなりの賑わいがあったという。更にこの公園には、8代将軍吉宗に献上の象が遠いところから歩いて運ばれてきた記録もあるなどが明かされる。ここで江戸時代を偲ぶCGが鮮やかに彩を添えて出てきたのが印象的であった。



     
     

横浜の港でぶらタモリ(港湾編)

2011-11-04 | ぶらタモリを見て
     ぶらタモリの再放送の第三弾であり、このシリーズの最終回である。約5ヶ月前、港町横浜で育った友人に案内されて、港町を散策していた妻は、ことのほかこの放映をまちわびていた。
 
     すべての家事を終わらせて、テレビの前に座った。もちろん私も同様である。鉛筆を片手にメモ用紙を揃えてスタートを待つ。今回のテーマは横浜港湾の秘密を探るである。

     横浜というと、思い浮かべるのは港と山下公園と中華街。そして多くの人が足繁く通うところは中華街であり山下公園、そして元町公園であろう。港町と言いながら、実際にはどんな働きをしているのか、どんな施設があるのか、それを知る人は少ない。そこにカメラが入るのである。わくわくする。

     メインスターの二人、タモリ氏・久保田さんが、港の巨大施設・コンテナ船・構内施設に触れての会話をしながら、その目的地に歩き始めると、まるで歓迎するかのような「ポーオー」という長い汽笛が響いてきた。ォオーといいながら立ち止まると、横浜を研究し尽くした横浜博士と呼ばれる志澤政勝さん(横浜みなと博物館副館長)が待っていた。

     横浜港に入る前に「開港当時を偲ぶ遺蹟が見られる」という本町公園に案内される。(外国人墓地の隣、山手本通りに面した公園)少し歩いたところで「このあたりの下を見てください。」と、いくつかのマンホールを指差した。その一つのマンホールを開けて、梯子を降りたカメラマンが映し出したものは「満々とたたえられている水面の情景」また「レンガ造りの水槽の一角」であった。
    
      ここを「水屋敷」といわれた謎は、これだったのである。横浜港を開いて間もない頃、この地に湧き出る良質の天然水を発見したフランス人のジェラールが、居留地の住人や、港に出入りする内外の船舶に飲料水としてここから供給していたのである。こんなことから当時は、ここを水屋敷とよんでいたという。(関東大震災の時に埋もれてしまったが、昭和63年に発見されている)

      ここでタイムスリップ、昔の港の情景のグラフイック映像が流れる。このあと本牧埠頭(ほんもくふとう)BCコンテナターミナルに入る。ヘルメットに身を固めた小林タケシさんが、迎えに出てくれた。普段は立ち入り禁止の場所、特別な許可を得て潜入。国内最大級・最新鋭のコンテナターミナル内を車で移動する。

      車も人もまるで「ガリバー」記のように小さく見える巨大コンテナ船の前に到着。見上げるタモリ氏「どでかいー」と驚嘆の声。(現在国内に入ってくる積荷90%はコンテナという)ここから、BCコンテナ、荷役作業の中に飛び込む。すべて特別な計らいである。キリンのような形をした巨大なカントリークレーンに乗り込みを許される。一気に地上50メートルに上がり、コンテナの林立を見下ろす。さらにこのコンテナの移動作業の実地を見学。パソコンの活用、コンテナオペレータ中村氏の目視で進める緻密な作業、その熟練の技に驚嘆。(このコンテナ活用のシステムを生み出したのはアメリカで、物流の大変革を実現したのである)

      積荷の管理、集積所での分類、舟積みの順序、航海路にしたがい、作業が統一され、一つの無駄も許されない物流の進化に驚く。このあと裏手に廻って「横浜市本牧漁港」をのぞく。巨大コンテナターミナルが出来上がる前から存在する漁港、時の流れに揺さぶられながらも、20数軒が結束、元気な水揚げをしている現場に入る。働く人々の声をひろいながら、さらに移動を続け、本牧埠頭駅に出る。横浜市中区本牧埠頭にある臨海鉄道本牧線の終点の駅。(貨物駅である)
  
      作業服に身を固めた村井駅長の出迎えを受け,コンテナの鉄道輸送もある
駅の仕事に潜入、コンテナ輸送の特殊列車154に乗車を許される。運転席が左右を見渡す中央にある特殊機関車。カニのように横に走る感じである。五分ほど走行してたどり着いたのは、横浜本牧駅。

      ホームだけが残っているが、昔は日本の表玄関であったところ。海外への渡航者は、ここで列車を降り、港に停泊の豪華客船に乗り込んだのである。往時を偲ぶタモリ氏の語りが印象的であった。このあと、鉄道フアンでもあるタモリ氏が驚喜する出来事が待っていた。駅長のお宝の披瀝。それは何と幻のC56139・蒸気機関車であった。倉庫に隠されていて、すでに自走は出来ないが、ピカピカに磨かれていた。そして部品のすべてにC56139の刻印が標されている。運転席の乗車を許されたタモリ氏の感動はいかばかりであったろうか・・・。

      コンテナ船とコンビナート作業の時間をぬう戦い。さいごは、鉄道。すべてが連動された港横浜の眠りのない現代社会の姿を、まざまざと見せてくれた。これを機に横浜を見直してみたいとの思いに駆られた。

鷹狩で目黒・浜離宮をぶらタモリ

2011-10-29 | ぶらタモリを見て
     アンコール放送の第二弾は、「鷹狩」がテーマー。鷹狩とは、飼いならした鷹を野山に放って野生の兎や鳥などを捕らえる狩りのことを言う。定説はないが、4千年前ぐらい中央アジア乃至モンゴル高原を起源とする考えが多いようである。

     日本では5世紀あたりから始まり、天皇・貴族などの位の高い人びとだけの行いで、言うならば「究極の遊び」である。なかでも日本を治めた徳川300年の歴史に残る将軍の鷹狩りは、単なるゴラクを超えたある秘密があったという。

     はじめに、鷹狩博士と言われる根崎光男氏(法政大学教授)が登場。鷹狩りというが、その規模はどれほどであったのか、13㍍に及ぶ絵巻物をひもどいて、その大きさを表す。供揃いは二千人、沿道1・5キロを連なる大行列。将軍の威光を見せつけるものであったという。

     ここで使われた古地図は「駒ヶ原絵図」。狩リ場は6つのエリアがあったが、今回は目黒筋にその痕跡を探り始める。江戸城からの道筋、渋谷道玄坂を通り抜け古地図にも、絵図にもでている「遠江見橋」の痕跡を発見。その石碑には「とほとふみればし」と刻まれていた。かっては、ここには「空川」(そらかわ)が流れていた。現在は暗渠、貴重な痕跡である。

     将軍の鷹狩は、狩場付近の農民にとっては大迷惑であった。その証拠を「狩場御法度手形」の内容をひもどいて示す。ここで川井康男氏(網差・権兵衛氏のご子息)宅を訪ねる。網差のお役とは、鷹場の管理。鷹の獲物になる鳥等の飼育、鷹狩の脇役を演ずるのである。

     ここから目黒筋で最も頻繁に使われた狩場に入る。そこは東京大学・駒場キャンパス。およそ16万坪もある広大な敷地。大部分がキャンパスになったので、地形も自然もきれいに残されているという。当時は駒ヶ原(駒野場)と呼ばれ、ウズラ、キジ、などの野鳥をはじめウサギ、イノシシなどが沢山生息していたという。ここで長谷川寿一・東京大学教授が愛犬を連れて登場、構内の見所を案内してくれた。


     駒ヶ原絵図にもほぼ同じ形で描かれているのが、一二郎池付近。1800年代は田んぼであったが、後には養魚場となり、現在は細長い池になっている。本郷キャンパスの「三四郎池」に対して「一二郎池」と称されている。

     ここで「御立場」高いところから狩場を見る場所を見たり、狩場の舞台を観察する。このあと東大キャンパスを出て隅田川を船で浜離宮に行く。ここは癒しの鷹狩の場だという。11代将軍の家斉は実に281回もここに足をはこんだという。

     浜離宮の「御上の場」(おあがりのば)歴代の将軍のみが使っていた川からの浜離宮への入り口。ここから鴨場に入る、都内に唯一の鴨場であり、ここには二箇所の鴨場があるという。なかにある池は、「潮入りの池」といって海水である。水門から海水を取り入れる情景を特別な計らいで見せてくれた。

     ここには狩の為の特殊な仕掛けが作られている。元溜(もとだまり)という大きな池には獲物となる鴨をおびき寄せる細い堀が何本も引かれていている。この引き堀の先には、鴨の動きを探る「小覗木」があり、さらにその奥には「大覗き」という小屋がある。ここでは池全体の様子を見渡すことが出来る仕組みになっている。

     鴨場のなかで突然、八代将軍吉宗が、長崎県から歩かせて取り寄せた象を、ここで飼っていた事もあるというユニークな話しが飛び出した。ぶらタモリならではの面白さである。

     最後は庭園の一角に出たところに、鷹匠・田籠善次郎氏が本物の鷹を手にして登場。その調教振りを披露し、タモリ氏を調教師の仕事の一端を担わせる。緊張した腕に鷹が羽ばたきながらとまる。初めての経験にもひるまずトライするタモリ氏、面目躍如の瞬間である。日本では世界に先駆けて、この鷹狩の環境を鷹の飼育体制を作っているとのことである。

     将軍鷹狩の秘密については、掘り下げ不充分であったが、逆にこの問題を探って見ようとの興味がわいてきた。ぶらぶらと鷹狩の資料を探すことにしてこの項を締めとする。

 

ひさびさブラタモリ・「都市の水の玄関口・新宿」の再放送

2011-10-21 | ぶらタモリを見て
     今夜ひさびさの「ぶらタモリ」があるよ・・・学友の村山君から電話があった。万が一をきずかっての連絡。ありがたいことである。

     第3シリーズは、11月から始まるが、それに先立って再放送が3回入るという。その第一回目である。副都心・新宿といえば都庁をはじめ高層ビルが林立する街並を想起するが、実は、東京の都市機能を支える命綱とも言うべき水の管理流通の拠点を守る街でもある。

     「なじみの深い新宿」とつぶやくタモリ氏、それを聞きつけた久保田さん、思わず「タモリさんの地元?」との会話でスタート。ここら一帯は大名屋敷の跡地だという。その大名とは高遠藩の内藤駿河守。その下屋敷があったところ。だから地名に内藤が多い。多武峰内藤神社(とうのみねないとうじんじゃ)・内藤町児童公園などが出てくる。

     実はこの神社の本殿脇に馬が飾られ、その横には駿馬塚という碑もある。これには伝説がある。この土地を家康から頂いた時、家康が「お前の馬が一息でまわれるだけの土地を与えよう」との言葉を受けて、内藤の殿様は、白馬にまたがるやムチを入れ、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷と駆け抜けた。家康はその通り広大な土地を与えたという。このとき白馬は走り終わったと同時に息絶えたという。その馬の功をねぎらい塚を作って後々までその功を称えたのである。(実際の内藤家の屋敷は今の新宿御苑の東北側半分ほどである)

     このところはテレビには出なかったが、付け加えて見る。ここで新宿御苑に入り、2010年4月にオープンした「玉川上水を偲ぶ流れ」が取り上げられる.太宰治の事件で一躍有名になった玉川上水だが、その歴史的価値をきちんと知る人は少ないので、その大事を後代の人たちに継承していくためにこの散策路がつくられたという。

     玉川上水は、かって江戸市中の飲料水を供給する重大な上水道であり、現在でも東京水道局の一部区間では現役の水道施設として活用されているという。東京都の羽村市の取水堰で多摩川から水を取り入れ、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷4丁目交差点付近)に付設された「水番所」を通り市内に分水されていくのである。(東京都水道局はこの水番所の跡地にある。)
    
     *承応元年(1652)11月、幕府より江戸の飲料水不足を解消するため、多摩川からの取水開削が計画され、工事総奉行に老中の松平信綱(川越藩主)・水道奉行に伊奈忠治が命ぜられた。工事請負は、庄右衛門・清右衛門の兄弟。資金として公儀6千両が拠出された。羽村から四谷までの工事は、地質の問題・岩盤の回避など想定外の流路変更が続出し難事を極めた。高井戸まで来たところで、資金は尽きたが、兄弟は家を売ってまでその費用にあてたという。この功績により兄弟は玉川の姓が許され、後に玉川上水役を仰せつかったといわれている。完成は翌年・承応2年(1653)とのことである。(羽村から大木戸までの約43キロは露天掘り、それからは木櫃や石櫃を用いての地下水道であった。)
     
       新宿四谷の大きなカーブは、当時の上水流、川の流れに沿って出来た道路。かつての水の流れが、現在は車の流れに替わっている。ここから玉川上水の流れの痕跡をたどり始める。その途上で都立新宿高校の構内に飾られている「石のとい」を発見。何故ここにあるのかは不明だという。このあと、新宿御苑と新宿内藤町の境にある「余水ばけ」の跡を探る。玉川上水の水量が多すぎた場合、余分な水を渋谷方面に流した、これが渋谷川の源流の一つにもなっている。 

     ここで西新宿の高層ビル街にも足をのばす。昭和40年代から再開発され高層ビル街として生まれ変わった土地は、かつての淀橋浄水場があったところである。東京で初めて造られた巨大浄水場。東京の命である水源を守るため戦時中は、空からの偵察を隠す工夫がなされ、一見大きな公園のように見せかけていたという。その巨大な跡地を利用しての街つくりのため、このビル街を歩くと3次元の迷路に踏み込んだような錯覚を起こすといわれている。地下を歩いていたのにいつの間にか一階にいたり、地上を歩いていたのに実はビルの3階にいたりという経験をする。

     さらに都庁裏にある淀橋給水所に立ち寄る。その地下に25メートルプールが240杯分の水を溜めているという巨大なプールがある。都内の浄水場から送られてきた水道水は、ここで水圧の調整を受けて、各家庭に送られる給水拠点。極めて大事な施設である。

     また水路があれば、水の流れに沿って景勝地もあったということから、新宿12社(じゅうにそう)の池の跡が、グラフイック映像で再現される。茶店が並び賑わいを見せる在り日が浮かび上がる。江戸時代ここに大小二つの池があり、多数の茶店が出て、賑わいを見せていたというのである。第二次世界大戦中に小さな池は埋め立てられ、戦後の昭和43年には大きな池も埋め立てられ、現在の街に変貌したのである。

     このあと、新宿副都心水のリサイクルセンターに足を踏み入れる。高層ビル街の西北部にある新宿国際ビルの地下4階にある。ここでは、高層ビル街のトイレの水を供給している施設。ここから下水を浄化した再生水を高層ビルのトイレへ送られていくのである。華やかな大都会を支えているのは、実は水なのである。当たり前のように水を使用しているが、私たちの生活は水で保たれているのをかみしめるべきである。

   






















 

復活・渋谷をぶらタモリ

2011-04-01 | ぶらタモリを見て
     ぶらタモリが復活、3月31日の夜放映された。だがこの「渋谷」が第二シリーズの最終回だったのである。「たくさんのご声援 ありがとうございました。ブラタモリ第二シリーズの放送は終了いたしました。毎回の放送を楽しみにしていただいた皆さまに感謝しております。たくさんのご意見ご感想もいただきました。本当にありがとうございます。再放送等、今後の放送については現在のところは未定です。」とのコメントが終了後のインターネットに出ていた。

     渋谷というと若者の街。そして忠犬ハチ公を思い浮かべるが、今回のブラタモリは意外な渋谷の姿が明かされた。実は「若者の街ではなく、その名・渋谷を示す通り谷に出来た街、高低差の街だというのです。」とくに高低差の点では世界屈指だという。

     久保田アナと立ったタモリ氏のスタートは、テレビでおなじみの渋谷の象徴とも言えるスクランブル交差点。実はここが渋谷の谷底に位置していて、ここを中心として周辺の道路が放射状に伸びているのである。駅から出てくる大勢の人々はここから各方面に分かれて散っていき、また各方面からここに集まってくる。地形のもたらすスクランブルなのである。

     ここで駅の南側に出て、その渋谷川の痕跡発見に歩き始める。この地域のエキスパート田原光泰氏(白根記念渋谷区郷土博物館文学館学芸員)が加わり、古地図を手に先に進む。二つのビルの間を指して、「この隙間の下に渋谷川があるが、すべてここらは暗渠が続いていて、その痕跡も見られない。でも明治時代はこんな立派な川が流れていたのです」と当時の写真を見せてくれた。昭和の中ごろにすべての姿は消えたという。

     駅より北に歩いて10分、キャットストリート(若いものの街)を通りぬける川の跡は商店街になっている。やがて穏田橋に出る、小さな下水道のような川を発見。渋谷川の下流は途中で古川と名を変えて東京湾に流れているが、上流は大分部がふたをした形で下水道として活用されているという。江戸から明治にかけては、この渋谷川の水を利用する水車が川沿いに多く点在していたが、大正の初めにはほとんど姿を消したそうである。

     ここから、源流をたどり歩き始める。渋谷と新宿の区境いにあるとの事、たどり着いたのは新宿御苑内、明治になって作られた池。この池から流れ出た水は、御苑を出ると同時に暗渠に入ってしまうので、その清流が見られるのは此処だけである。

だが、古地図には、渋谷川の水源はそのそばにある「天竜寺」を指しているので、そこをたどると、現在でも地下水は豊富のようで、湧き水が出ている。案内された境内に水琴窟があり、その底に竹竿を耳にあてて澄ますと川の流れる音が聞こえてくる。話によれば最近まで境内に三つの井戸があったという。また江戸時代には、この寺にある鐘が"時の鐘"として知られ、江戸三名鐘の一つといわれたという。グラフイック映像が出る。

     ここから駅前に戻り、交差点から青山通りに至る宮益坂を上がる、ここは富士見坂とも呼ばれる。古地図に載る歴史的な坂、駅付近で江戸時代からの街道は、この宮益坂から道玄坂に至る道につながる。これは大山街道にあたる(現在の神奈川県の大山に参詣する旅人が行き交う街道)など、坂が多い地域。この坂上の中に1,000年以上の歴史を誇る神社・金王八幡宮がある。社伝によると、源氏によって1,092年に八幡宮が勧請されたとあり、東京でも有数の古社である。現在でも青山から渋谷、松涛あたりまでの幅広い地域の人たちの氏神となっている。社殿は江戸初期の建築様式を伝える貴重なもので、渋谷区指定有形文化財になっている。「中世のお城がこのようになったのでは」とタモリ氏のつぶやき。ここでも高低差を指摘、防守の働きを示唆する。

     再び駅前に戻り、今度は視点を上に向ける、この渋谷で一番高いところを走る地下鉄銀座線を指差す。鉄道のエキスパート小野田滋氏(鉄道総合技術研究所)が登場して、まず地下鉄なのに渋谷では地上3階を走る銀座線。一日を通して2・3分に一本運行。日本鉄道の中でもその頻度はトップクラスという。それを支える鉄筋コンクリートの高架橋の堅牢さを語る。(整列乗車の起源もここから・・日本近代化に大きな役割を果たしたという事で「近代化産業遺産」に認定されている。)

     
     ここから西側に移動、道玄坂一丁目にある渋谷運転手・車掌事務室に案内される。普通の人は入れない執務室の内部に侵入。更に道を隔てた所にある銀座線の車庫・地上3階にも入る。想像もつかない情景である・・・勤務交代のやり取りを見て、この車庫から銀座線に特別乗車を許された二人は興味津々の面持ち・・。更に現在の地下のそのまた地下に、最新の技術を生かした地下鉄の工事が進められている現場に潜入する。これが完成すると副都心線とも連結するという。また駅横に建設中の巨大ビルにも侵入。渋谷一帯を360度見渡せる上まで案内され、その現場から渋谷川の地底の深さを推し量る。高所恐怖症のタモリ氏の必死の姿が印象的。

     立体都市・渋谷の現在を様々な角度から見つめたあと、一転して昭和のレトロを味わえる「のんべい横丁」に歩を進める。戦後ほどなくして駅周辺で屋台を出して飲食を提供していた人たちが集まって作った飲み屋街・・・現在40店ほどが営業している。立ち寄った店の二階からの二人の会話がなんともいえぬ味わいがあった。「どんなに変化しても土地は覚えているのだ」「時間を凝縮すると歴史の素顔が見える」・・・
当分放送の予定がないとのこと・・・寂しくなるが、再放送を熱望して締めくくりとする。(古地図は東都青山絵図・内藤新宿千駄ヵ谷辺図)



          

     

     

東京タワー、芝をぶらタモリ

2011-03-11 | ぶらタモリを見て
     江戸のゴミ坂から飛んで、現代の東京のシンボル・東京タワーがそびえる芝を歩く「ぶらタモリ」である。いきなり望遠鏡で上を見上げる二人、完全防備の姿、タワーパフェを食べる二人。何が始まるのか・・・

     大門に立つタモリ氏、「今日は芝に来ている、芝といえば増上寺と東京タワー、この二つはセットになっている」「東京のランドマーク(その地域の目印となる地理学上の特徴)の芝とはどんな街なのか・・・この地は花のお江戸の展望台、目印の街であったのだ・・・」とひとくさり、指差す先に増上寺の大きな山門が見えてきた。

     ここで、芝に詳しい方・建築家の伊坂道子さん(武蔵野美術大学非常勤講師)が古地図(芝愛宕下絵図1861年)を手に案内に立つ。最初は増上寺の山門。「江戸時代の初期の大建造物が、大震災や東京大空襲の戦火をかいくぐり、残ったという事は奇跡に近い事です」と語る。この山門は三解脱門(三解脱門)という、むさぼり・いかり・おろかさ・を解脱させるの意。(1611年建立、1622年再建・重要文化財指定を受く)
  
     この山門の上階は非公開であるが、今回特別に公開。ここに二人が立ちその眺望を示す。江戸時代はこの山門は展望台で人気のスポット、ここから東京湾まで見渡せたという。丘陵地帯だったこの高台の地形を生かし平地に山門、中腹に大本堂を造営している。(ここで12000分の一の3Dマップが登場、地形が鮮明に浮かび上がる)

芝の増上寺は、江戸時代に徳川家の菩提寺として造営され、二代将軍・秀忠を始め歴代将軍6人が葬られている。また秀忠の霊廟があったところは、現在ザ・プリンスパークタワー東京の敷地となっている。(増上寺の建立は元和八年・1622年、家康の助成を受けて出来上がった。)
     
     地方から江戸を目指してくると抜群の目印になるところ、「東京の芯・江戸の芯みたいな処」タモリ氏のつぶやき。昭和33年の大規模開発により発掘された丸山古墳(11基の円墳をしたがえていたとされている)を見る。まだ残っているといわれている。「ここらの地は、一帯が神霊の場所なんだ」またつぶやきが・・・。ここから信じられない処に行くと歩き出す。

訪ねた所は、松蓮社・弁天洞(しょうれんじゃ・べんてんどう)、何と洞窟である。探検の構えで明かりを持ち、奥に奥に進むと、三代将軍家光の長女・千代姫の位牌所にたどり着いた。江戸時代に掘られた洞窟。不思議な寺である。このあと、江戸の古地図を出して、高低差を探る。実はこの近くは海だったというので、江戸の海岸線をさぐり始める。追いかけると歩道と路面の差が目視でわかるほど大きくなっていく。

日本初の鉄道開業駅・新橋の誕生は1872年の事、その当時の鉄道の路線敷設は海岸線ぎりぎりで、潮の満ち退きの合間を縫って工事を進めた情景がグラフイック映像で再現された。鉄道が海岸線を走っていた時代を伝える痕跡を発見。明治13年以降の橋脚を見る(古川・明治時代のレンガ造り)

     このあと一転して、高台に移る。まず愛宕山、1925年日本初のラジオ放送が発信されたところ。山上にある愛宕神社は、江戸の防火のため家康の命で建てられたもので、"天下取りの神〟"勝利の神〟といわれた。男坂といわれる急な階段は「出世の石段」と呼ばれる。江戸の錦絵にも出ている、馬術の名人・曲垣平九郎の物語が始まる。
増上寺参拝の折、将軍家光が山上の梅ノ木を指して、"誰か梅ノ木を馬で取ってくるものはいないか〟との声に応えたのが、讃岐丸亀藩の家臣・曲垣平九郎。見事に馬で石段を駆け上がり、梅の枝を取って来た。これにより馬術の名人として全国に名を馳せたという逸話が示され、これは実話であり、現在まで明治、大正、昭和と成功した達人を含め四人という。(昭和の成功者の録画が示された)

     更に、現在の東京のシンボル・東京タワーに向かう、真下から見上げる二人。その大きさに感嘆の声。東京タワーは、昭和33年開業以来、自立鉄塔としては世界一の高さを誇る。333メートルの塔は日本の電波塔であり、そのほか、てっぺんの避雷針、航空障害灯、風向き風速計などを備えている。放送技術の格納庫とも言うべき部屋を紹介する。NHKの技術者・広報担当の沢田健氏の説明を聞く。その後、大展望台ではなく、地上から170メートルの地点に出る。ヘルメットを初め安全ベルトを着用して外階段を上がる。アンテナ整備の時だけ出る所、風にあおられ足のすくむ状態を体験した二人の顔は緊張気味。生夜景に悲鳴をあげたが、「これで東京のランドマークのすべてを制覇した」との満足げ名な言葉が残る。お二人のご苦労に感謝。(まとめている途中で大地震がありストップしたが、これで終わった。)
     
     
 

江戸のゴミでぶらタモリ

2011-03-04 | ぶらタモリを見て
     今回のぶらタモリは、突然がらりと変えた視点からの江戸歩きなので驚いた。広大な大名屋敷、壮麗な庭園、絵巻物語を見るような思いで江戸を見つめてきたが、その華やかな裏に隠された「ゴミ」が出てきたのだ。考えてみれば江戸は100万都市とも言われていたのであるから、その生活からのゴミ処理は当然大きな問題となっていたのであろう・・・

出発地は、華やかな神楽坂、坂好きな方には格好な場所。ここからちょっと離れた所に江戸時代「ごみさか」と呼ばれたところがある。そこにむかってのぶらタモリ。初めに法政大学・人間環境学部教授の根岸光男氏が登場、手にした古地図(小日向・小石川牛込北辺絵図・元禄江戸図・本所深川絵図)をもとに「ゴミ坂」探しの歩きが始まった。

     ゴミは人間の生活環境にとってきわめて大事な問題で、江戸時代も現在も全く変わりない。江戸時代の記録をたどると、このゴミ関連の「お触れ」が200以上も出ている。    

     第一の「ごみさか」はJR飯田橋駅に近い筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)の丁度裏手にあたるところ。特別な標識はない、あくまでも古地図よりの検証。大名は広い敷地の中で穴を掘り、そこで処理されていたようで、その当時の写真が残されている。ここでの"ゴミさか〟は街の人たちのゴミ処理場。平坦な所ではなく崖下のところが選ばれて、生活のゴミを捨てていたという。

     ここから10分のところにも幽霊坂(ゆうれいざか)と呼ばれているところが、古地図では五味坂(ごみさか)と呼ばれたところ、それに並んで小さな袖摺坂(そですりさか)がある。現在の住人たちはほとんど知らないが、地元で物を良く知っている方として鳥居氏が話の輪に加わる。この坂上に有名な尾崎紅葉の自宅があり、その大家さんがこの方。(取材途中、尾崎紅葉宅に向かう婦人の一行に出会う)
 
     ひょんなことから色々な歴史が浮かび上がる。この坂には諸説あり、定かな事は不明。この坂下の公衆トイレに浮世絵があり、その浮世絵に描かれた公衆トイレの落書き内容は今も昔も変わりないと苦笑する。

     このあと第三のごみさかに向かう、芥坂(あくさか)ここに唯一江戸のゴミの痕跡が残されていた。この地は、江戸時代、悪罪を犯した者を市中引き回しのときに通ったところだという。(タモリ氏が明かす)この傍の歩道橋の欄干に平仮名で「ごみさかほどうきょう」と記されていた。

     1655年当時、ごみに関する町触れが多く出ていた。ごみの捨て場所。ごみの捨てる日時。それを回収し、埋立地に運ぶという流れが示されていた。ごみ取り舟、その捨て場所が永代島。更に汚物の焼却、隅田川の浚渫(しゅんせつ)水底の土砂をさらって深くする。土砂とゴミを混ぜ合わせての造成など、今と変わりない体制がすでにとられていたのだ。グラフイック映像で当時の様子を再現。

この後、飛んで飛んで、現代のゴミ処理施設の最前線に潜入。江東区の夢の島の新江東清掃工場から中央防波堤埋立処分場に立つ。東京23区から出るゴミを最終的に埋立処分をしているところ。広さは東京ドームの160倍。その巨大施設での作業工程は想像を超える。ゴミ集取車・1500台の回収ゴミ。大変な分別作業、一日一万トンの処理、1千度の高温による連続の焼却炉。

     埋立による造成、人口の島の誕生。そこにいたるまでの作業工程を知れば知るほど、この処理場の使命の重大さを思う。東京都の埋立できる海域は、あと50年で満杯となるという。大都会のすぐ横で黙々と休まずゴミ処理続ける姿をどう胸に収めるのか・・・ぶらタモリの提起した問題の深さ重さをかみしめている。