気まま勝手に

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アサヒビール北海道工場見学 その3

2015-01-24 13:21:08 | まち歩き

 

 

 

 

 

 

ドラマではマッサンとリタが二人で帰国したことになっていますが、

国際結婚を心配した摂津酒造の阿部社長がスコットランドまで来て、

三人一緒に帰ってきています。

 

当時、世界恐慌の中で摂津酒造はウイスキーを造る余裕がなくなり、

ウイスキー造りに夢を持つマッサンはやむなく辞表を出して退社。

その後、寿屋(現在のサントリー)の鳥居信治朗に招かれて、山崎蒸留所を

造るが最初の約束である10年が経過したため円満退社。

 

昭和9年(1934年)マッサンはウイスキーづくりの理想郷と考えていた

北海道余市町に蒸留所を建設

リタが英会話を教えていた縁で知り合った大阪の数名の出資者が

支援することになった。

リタなくしてニッカウヰスキーは存在しなかったと言われている。

 

ウイスキーは5年~10年ねかせなければならないので、その間の

資金確保のためリンゴ果汁の製造も手掛けることになった。

そのため当初は、社名も「大日本果汁株式会社」としていました。

しかしマッサンが無加水にこだわったため、1本造るのにリンゴ5個も

必要としたため高価なものになり、なかなか売れず苦労する。

 

昭和15年(1940年)ついに念願の第1号ウヰスキーが誕生しました。

当時は手づくりのミニクリスタル瓶で、ふたはその瓶しか会わなかった。

いまでも、ごく稀にススキノや銀座に置いているお店がある。

 

昭和27年(1952年)に社名をニッカウヰスキー株式会社に変更する。

この社名は前の社名「大日本果汁」の日(ニッ)と果(カ)を取っている。

 

昭和36年(1961年)、リタは64歳で亡くなった。

マッサンは日本に連れてこなければ、こんなに早く死ぬことはなかった

と自分を責め、悲しみにくれ2日間部屋を出てこなかったそうです。

そのため通夜には出ていない。

 

昭和54年(1979年)マッサンは順天堂大病院で85歳で亡くなっている。

亡くなる直前にキリスト教に入信し、妻のリタと共に北海道余市町に

埋葬されている。

 

世界のウイスキー品評会で、2012年に「竹鶴17年ピュアモルト」は

世界最高賞を受賞しています。

世界で一番ウイスキーを飲む国御存じですか。

インドだそうです。

 

 

 

 

 

 


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