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京の一枚

京都 祇園祭・山鉾一覧(月鉾 郭巨山(かっきょやま)


月鉾(つきぼこ)



鉾頭に新月型(みかづき)。




屋根裏の草花図・前懸のメダリオン絨毯・錺金具など装飾品の絢爛豪華さから動く美術館の筆頭とも言われている。


32の山鉾の中で最重量を誇る。

住所:下京区四条通新町東入月鉾町


ちまきの値段:\1,000


鉾に登るには:グッズを購入




装飾・踊り:屋根裏の金地著彩(きんじちゃくさい)草花図は天明4年(1784)円山応挙(まるやまおうきょ)(1733~95)の筆。


天井の金地著彩源氏五十四帖扇面散図(せんめんちらしず)は天保6年(1835)町内の住人岩城(いわき)九右衛門の筆。


破風蟇股(はふかえるまた)の彫刻は左甚五郎作と伝えられる。


軒桁貝尽くし(のきけたかいづくし)の錺(かざり)金具は松村景文(まつむらけいぶん)(1779~1843)の下絵、四本柱の錺金具や破風散しの金具などはいずれも華麗で山鉾のなかでも最高のものである。


上水引の刺繍双鸞霊獣図(ししゅうそうらんれいじゅう)は天保6年(1835)円山応震(まるやまおうしん)の下絵、下水引の蘭亭曲水宴図は文化13年西村楠亭(にしむらなんてい)(1775~1834)下絵という。前掛、後掛は華麗なペルシャ緞通(だんつう)、胴掛はコーカサス緞通などを用いている。


近年、下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も月華作の草花図にかえている。


また、平成12年(2000)には前懸のインド絨毯も復元された。







由来・歴史:鉾頭に新月型(みかづき)をつけているのでこの名で呼ばれる。


真木のなかほどの「天王座」には月読尊(つきよみのみこと)を祀る。


古い鉾頭と天王の持つ櫂(かい)には「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門(おおかざりやかんうえもん)」の刻銘がある。


鉾頭に正徳4年(1714)の刻銘のものもあるが、昭和56年から田辺勇蔵寄進の十八金製の鉾頭にかえている。

町内イチオシグッズ:手拭\1000 ゆかた\5000 他








郭巨山(かっきょやま)



ご神体は、貧困ながら母に孝養をつくしたい郭巨が自分の子供を山に捨てに行ったところ黄金の釜を掘り当てた中国の史話二十四孝の古事に由来する。

住所:下京区四条通西洞院東入郭巨山町
 
ご利益(お守り等):母乳の出を守る 金運開運


ちまきの値段: \500




装飾・踊り:山に飾る人形(御神躰)の郭巨と子供は寛政4年(1792)金勝亭九右衛門利恭作といい、前掛は天明5年(1785)作の唐美人遊楽図(とうびじんゆうらくず)の綴錦、胴掛の刺繍呉道子と陳平図は石田幽汀(いしだゆうてい)(1721~86)下絵で天明5年(1785)松屋源兵衛の作、見送は、文化12年(1815)作円山応震(まるやまおうしん)(1790~1838)下絵の山水人物図綴錦もあるが、近年「漢詩文」のものが用いられ、また、19世紀ペルシャ絨氈(じゅうたん)もある。


古見送として別に紺地金絲縫賀寿之文(こんじきんしぬいかじゅのふみ)一幅を蔵している。


この山に限って金地彩色法相華文の乳隠し(これは山の胴掛がまだ幔幕風(まんまくふう)であったころ幕の乳を固定したところを覆い隠す板であったという)が用いられ、また屋根覆いをかけている。



由来・歴史: 「釜掘り(かまほり)山」ともいわれる。


中国の史話二十四孝の一人郭巨釜掘りの故事にちなんで造られているのでこう呼ばれる。


後漢の人郭巨は貧困のため老母と三歳になる男子を養えなくなり、悩んだ郭巨は遂に「家貧乏にして児を養育する事難し、是を育てんと欲すれば老親への孝の妨となる。


又、老母が食を割いて孫に給与せらるる事も孝のさまたげとなる。


故に今、汝と共に子を捨て、母を養わん。


児は再び有るべし、母は再び得べからず。」と決心を妻に告白した。


夫の悩む姿を見続けていた妻もその言葉に服したので、郭巨は児を埋めるべく地を掘った。


郭巨が鍬を振り降ろすと地中より黄金一釜(六斗四升、五升の説も)が出てきた。


一札あって、母に孝養を尽くせたという。

町内イチオシグッズ:御守 寸志、手拭¥500
























祇園祭マップ:http://www.e-kyoto.net/saiji/161




※写真は全て過去のものです。



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