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京の一枚

京都 縁切り神社


言葉の響きは良くありませんが、「悪縁を絶って良縁を結ぶ」という発想なのです。




安井金比羅宮




大物主神(おおものぬしのかみ)


源 頼政(みなもとのよりまさ)




ご利益


悪い縁を切り、良縁を結ぶ


主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は断ち物の祈願所として信仰されてきました。


また、戦によって心ならずも寵妃烏丸殿とお別れにならざるを得なかった、崇徳帝の悲しみのお気持ちは、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ちきって下さいます。


男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただいて、良縁に結ばれて下さい。


良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありませんのでご安心を。




海上安全


崇徳天皇とご一緒にお祀りしています大物主神は、古くから道開きの神様として信仰されています。


特に讃岐(香川県)の金刀比羅宮は海上交通の守り神とされてきました。


当宮は京都市内唯一の金比羅さんとして、釣り人やマリンスポーツを楽しまれる方の信仰を集めています。




交通安全


海上安全と同じく、大物主神のお力によるご利益です。


毎年5月10日の春季金比羅大祭に合わせて、交通安全祈願祭が斎行されます。






縁切り縁結び碑(いし)




高さ1.5メートル、幅3メートルの巨石で、中央の亀裂を通して神様のお力が下の円形の穴に注がれています。


「○○君と幸せに結婚できますように」という可愛いお願い事から、「夫と浮気相手との縁を切って下さい」といった事まで、様々なお願い事を書いた形代(かたしろ、身代わりのおふだ)が張ってあって、碑が見えないほどです。


まず、形代に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結びます。


最後に形代を碑に貼って祈願します。




金比羅絵馬


私たち日本人の先祖は古くから、神霊は馬に乗って降臨されるという信仰をもっていました。


そこで、神事や祈願の時に馬を神霊に捧げる生馬献上の風習が生まれたといわれています。


この風習が経済的な事情によって、生馬→土馬・木馬→板立馬→板絵と変化していって絵馬が発生したと思われます。


当金比羅絵馬館は日本独特の信仰絵画である絵馬を保存・展示するため、古い絵馬堂の建築美をなるべく損なうことなく改築して、昭和51年に開館した日本初の絵馬ギャラリーです。


ともすると絵馬は忘れられた文化財として見られがちなだけに、当館が日本固有の絵馬美術を見直すきっかけとなれば幸甚です。




ガラスの部屋




ここには19世紀のアール・ヌーボ(エミール・ガレ、ナンシー・ドーム)デコ(ルネ・ラリック)パート・ドベール(アマリック・ワルター、アルジー・ルソー)等の小品がユニークな配置で展示されています。


なかでも圧巻は3m×4mのガラスの床を透かして見る現代アメリカの工芸作家デイル・チフーリの大作「海の神」(この部屋のために製作されたもの)です。


巨大な貝状のガラス作品が重なり合い、不思議な美しさと迫力に圧倒されます。


デイル・チフーリについては下記のホームページをご覧下さい。


http://www.yasui-konpiragu.or.jp/






鉄輪社(命婦稲荷神社)


鉄輪の井戸(かなわのいど)


鬼と化すほど狂おしい恋


京都駅から地下鉄烏丸線、「五条駅」より約5分、鉄輪の井戸(見学自由)へ。


ここを舞台に夢枕獏氏が『陰陽師(おんみょうじ)・生成り姫』を書いている。


元となった伝説が、謡曲『鉄輪(かなわ)』に出てくる、鬼女の話。


『夫に浮気をされ、恨んだ末に頭に鉄輪を頂いて丑の刻参りをし、挙句、鬼になってしまう。


夫は晴明に依頼して呪いを解き放つ。


そしてとうとう女は家の近くの井戸のほとりで息絶えた・・・。』


その井戸がここ、鉄輪の井戸。鬼女になるほど狂おしい恋をした女性、仕事とはいえ、その呪いをはね返した晴明。


そこにはビジネスライクでクールな顔がかいま見える。


井戸の場所は少々分かりにくいが格子戸の前に石碑があり、その奥にある。


自由に入れるが、民家の敷地内なのでお静かに。


そして鴨川に架かる松原橋の東詰。


晴明が没した時、塚が築かれ、ここに埋葬されたと言われている。


(残念ながら、今は何も残されていない)






菊野大明神(法雲寺境内)


[霊石「菊野さん」]


悪縁を切る神様。


ここに水を供え、灯明をあげてから、社殿を回って祈ると効果があるそうです。


小野小町に恋焦がれて百夜通いをしていて、あと一夜で思いを果たせなかった深草少将が腰掛けたと伝わる石がご神体で、少将の無念の思いがこもったこの石の側を通ると男女の縁が切れるといわれています。


また、別の説では、1788年の大火で全焼した法雲寺を、その15年後に再建する際に山伏が現れ「霊石があるのを知っているか」とその石を祀るよう提言しました。


そこで当時の住職が霊石を探したところ、この「縁切り石」が出てきたといいます。


1988年の改装までは、願掛けに髪の毛を供える風習があったといい、祠に髪の毛が巻き付けてあったり、五寸釘が打ち込まれた藁人形が置かれるなど異様な光景だったそう。


「婚礼の際には菊野大明神の傍らを通らない」は京都の習わしとなっています。


お礼参りや、住職の助言を聞いて帰った後に心願成就し、その報告に来る人も多いそうです。




一条戻り橋(一条堀川)


「嫁入りの時に通ると出戻る」という伝承は京都っ子の常識。


『平家物語』での渡辺綱と鬼女の物語や918年の『撰集抄』で文章博士・三善清行が一時蘇生したという説話に由来しており、第二次世界大戦中には召集された兵士とその家族が無事の帰還を願ってこの橋を渡っていたといいます。


付近の晴明神社には、平成7年まで使用されていた旧一条戻り橋の親柱で造ったミニチュアが架かっています。






撰集抄(せんじゅうしょう)とは・・・


撰集抄(せんじゅうしょう)は、西行に仮託された作者不詳の説話集。


跋文に寿永二年(1183)讃岐国善通寺において作られたとあり、江戸時代まで西行の自作と信じられたが、後人の仮託であることは研究によって明白である。


鎌倉時代後期、興福寺関係の僧が製作にかかわったという説がある。


仮託とはいえ漂泊の歌人としての西行像を形成するのに貢献し、御伽草子・謡曲の素材となったり、松尾芭蕉・上田秋成ら江戸時代の作家に影響を与えたりした。


成立年次には諸説があり、13世紀中葉、建長二年(1250)頃か、少なくとも弘安十年(1287)頃までに成立。


九巻からなり、神仏の霊験譚・寺院の縁起譚・高僧譚・往生譚・発心遁世譚など121話(略本は58話)を載せる。


あたかも西行が語り手として自らの諸国行脚の途中見聞を記したかのような体裁をとり、西行が第一人称で名乗り出る場面もある。


理想的な遁世者の生活を感想・批評を交えて描き、無常観が濃厚である。


玄賓・増賀ら高僧にとどまらず、貴族・武士・遊女ら上下の階層から出た遁世者が登場し、鎌倉時代における遁世思想の受容を今日に伝える。


啓発を受けた『閑居友』と共に隠者の文学として重要である傍ら、撰集抄の話の信憑性自体は低く、何らかの伝承を手掛かりとして存分に脚色を加えたものがほとんどで、年代錯誤の甚だしさは歴史知識の欠如としか言いようが無い。


※写真は全て過去のものです。































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