静かに紅葉を堪能したいなら ここ無鄰菴(むりんあん )をお勧めします。
もとは明治の元勲、内閣総理大臣の山縣有朋の別荘。
当時の名造園家、小川治兵衛が作庭した和洋折衷の庭が明るくのびやかに広がっています。
もとは明治の元勲、内閣総理大臣の山縣有朋の別荘。
当時の名造園家、小川治兵衛が作庭した和洋折衷の庭が明るくのびやかに広がっています。
東山を借景とし、芝生を敷いた池泉遊式の庭で、琵琶湖疏水を引き入れて遣り水をくねらせ、水音がどこからも聞こえる趣向。
緑の木立に、つつじ、杜若、秋は紅葉、庭内の樹木も種類が多く、四季折々の風情が楽しめます。
木造の母屋と茶室があり、庭を前にお抹茶がいただけ、傍らの洋館は、日露戦争前の明治36年、有朋が伊藤博文らとわが国の外交方針を決めた歴史的な場所といわれています。
明治27年山県有朋が小川治兵衛に京都の別荘として作らせたた無鄰菴の庭園。
名前の由来は山県有朋地元の草菴が隣家のないということから。
茶室・洋館・母屋がある。
明治36年に無鄰菴会議が行われる。
小川治兵衛
[七代目]小川治兵衛事源之助(1860~1933)山城国乙訓郡神足村(今の京都府長岡京市)に生まれる。
山県有朋邸(無鄰菴),平安神宮,円山公園,西園寺公望邸(清風荘),市田弥一郎邸(對流山荘)といった国定名勝指定庭園を作庭.住友家,三井家,岩崎家,細川家,古河家(現・東京都旧古河庭園),藤田小太郎邸(現・洛翠),並河靖之邸(現・並河靖之記念館), 稲畑勝太郎邸等の庭園も手がける。
無鄰菴会議
1838-1922.萩藩(今の山口県)の藩士の子として生まれる。
吉田松陰の松下村塾に学び,尊皇攘夷運動に参加。
奇兵隊に参加し,第2時長州征伐で活躍,戊辰戦争では参謀を務める。
維新後は,陸軍で兵制改革に携わる。
陸軍卿,参議,参謀本部長を務め,佐賀の乱や西南戦争にも参加した.明治16(1883)年に参議・内務卿となり,内政に携わるようになる。
明治22(1889)年12月~明治24年5月と,明治31年11月~33年10月に二度総理大臣を務めた.日清戦争後,伊藤内閣と自由党の提携に対峙し,伊藤系と山県閥(系)と争うことになる。
伊藤博文の死後は,首相決定の主導権を握り,政党政治に立ちはだかった。
日露戦争直前の明治36(1903)年4月21日,元老・山県有朋,政友会総裁・伊藤博文,総理大臣・桂太郎,外務大臣・小村寿太郎の4人によって,日本の外交方針を決める会議を,無鄰菴の洋館2階で行われた。
その会議が行われた場所では,その当時の家具がそのまま展示されている.
日露戦争は,明治37(1904)年から明治38(1905)年に,韓国および満州(今の中国東北部)の領有権をめぐって,日本とロシアの間で起こった戦争である。
日清戦争でえた朝鮮半島であったが,ロシアの進出により徐々に勢力を後退させていた。
また,満州もロシアによって占領された。
これに対抗して日本はイギリスと日英同盟を結び,ロシアとの交渉を行ったが決裂。
2月仁川に上陸し,仁川・旅順港のロシア艦隊を奇襲攻撃し,2月10日に宣戦布告.第1軍は,韓国を北進.鴨緑江(オウリョウコウ,今の中国・北朝鮮の国境)の戦いに勝利。
第2軍は,遼東半島に上陸するも,南山の戦いに苦戦.第3軍に旅順攻略を任せて,第4軍とともに北上.第1・2・4軍は,遼陽の会戦で勝利するも,黒溝台の戦いなどで苦戦。
旅順攻略も犠牲者が増すのみであった。
ちなみに,乃木希典で有名な203高地は,旅順攻略での激戦地の1つである。
ようやく翌年1月に旅順占領。
そして奉天においてロシア軍を撃破。
しかし被害も甚大であり,兵力・武器もほとんどなく,アメリカ仲介による講和を模索する。
5月,有名なバルチック艦隊との日本海海戦に勝利するや,T・ルーズベルトアメリカ大統領の仲介で,9月5日ポーツマスで講和条約が締結された。
これにより,日本は韓国を保護国とし,南満州の領有が認められた。
現在、無鄰菴 は昭和16年(1941)に京都市に寄贈され、京都市の管理になっています。
また昭和26年(1951)には、庭園が国の名勝に指定されています。
1階部分は展示室です。
洋館 完成明治31年(1898)。
アクセス
地下鉄蹴上駅から徒歩5分
営業時間
9:00~16:30
休業日
無休
料金 410円
小学生未満無料
予約方法
入園は予約不要。
和室・茶室の使用申込みは市文化芸術企画課(222-4105)へ。(受付は2箇月前から)
駐車場
なし
住所
京都市左京区南禅寺草川町31
詳しくは:TEL 075-771-3909
詳しくは:http://murin-an.jp/