おっちーの鉛筆カミカミ

演劇モノづくり大好きおっちーのブログです
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近年のTUBEについて話し合った時考えた、どうすればいいものを創り続けられるのかということについて。

2008年01月14日 00時43分41秒 | コラム・批評・エッセイ
 結論から言うと、それは常日頃の心の向き、心掛けです。
 それがきちんと前を向いているか、上を目指しているか。…これは自戒を込めた発言になりますねえ。
 それから自分にとって新しいもの、面白いと思えるものを見つけ、吸収することも大切なことです。
 前回のコメントに、桑田圭祐うんぬんということを書きましたが、彼は「遊び」を忘れていないのだと思います。そんなに目に付いて新しいフィールドに飛び込んだり、冒険をしているようには僕には見えません。それでもファンに飽きられないものを提供し続けているというのは、きっと遊びに貪欲であること、好きなことに素直なこと、それをし続けているのだと思います。自分が面白がっていれば、ファンも付いて来るんですよ。
 僕は、自分が面白くもないのに、勉強のためだ、と思って経験することを良しとはしません。それはものすごく大雑把に言うと、時間の無駄だと思います。それは何故か。
 人は自分の興味を持っているものに接している時に、一番吸収する力を発揮します。集中力が持てるということです。
 こういうと当たり前なことなんですが、その事実を生かしていない人はものすごく多いとは思いませんか? 実際僕もそのひとりでした。けれども最近は、自分にとって為になるものを探すよりも、興味を惹かれる物を探します。興味を持ってそれに接せば、吸収できるものが多い、それはすなわち時間の短縮に繋がります。短い時間で、多くのことを勉強できるのです。その結果、多くのものが吸収できれば、思ってもいなかった部分―かつて自分が見に付けたいと思っていた他の分野―まで実際に身に付けることができるのです。
 付け加えておきますがもちろん、楽しむ、ということはとても生きていく上で大切なことです。そのためにも、ということです。
 人間元気でないと何もできません。そのためには、興味のあるもの、楽しませてくれるものにいつも触れていることです。

 それからもうひとつ、ここでは、いつだったかおさかさんがおっしゃっていた「業」という言葉を使います。
 少し厳しい言い方になりますが、人は、業をこなさねば生きていく資格がありません。
 それは物を創るということを生業とする人間にとっても同じことです。
 業を行うことをさぼっていては、天はいいものを創る資格を与えてくれないのです。
 これは難しい問題です。
 僕もかつて「ものを創る」ということ、それだけで生きていた時期がありました。けれども僕はその頃、業をこなすことを忘れていたのです。
 だからある時、破綻が起きました。それは取り返しのつかないことであるように、当時は思えました。
 けれども僕は現在、そこから復活しつつあります。それには7年以上という長い年月が必要でした。
 業をこなすからこそ心の中に生まれてくるものがあるし、意識しないうちに見えてくるものがあるのです。

 最後にもうひとつ、大切なことを書きます。
 それは謙虚になることです。これは決して言い古された訓示などではありません。僕の経験(まあ拙いものですが)から結論付けた、自分を良い状態に保っていくための知恵です。
 謙虚にならないと、物事を本当の意味で(身体全体で)吸収することが出来ません。それは物を創る人間にとって大変な損失です。
 やはり、ふんぞり返ってどっかと座ったままでは、いいものは創れないのです。頭を、足を、手を、体を使って快活に活動し続けなければならないのです。
 自分に自信を持つことは大切です。そうしないと作品に迷いが出ます。
 けれども自分はまだ知らないことが沢山ある、ということを忘れても、いい作品を創り続けることは難しいのです。

 とりあえずあまり長くなるのもどうかと思うので、今日はこのへんでお開きとします。
 次は「多くの人がひとつのものを創るということ…僕の拙い演劇論」と題してお送りします。よろしければまた懲りずにお越しください。それでは。

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いいこと書きますねぇ! (ヴァッキーノ)
2008-01-14 08:10:01
チューブをそんなに知らないボクとしては、今のチューブと昔のチューブって、どんなに違うくなっちゃってるんだろうと、心配になりました。

ファンが心配になったり、会社で会議するくらいだから、結構グダグダなんでしょうね。

自分じゃ自分の全身は見えないもんですからねー。

やっぱ、なんでもそうなんですけど、去り際の見極めが大事なんでしょうね。

ボクはいつも思うんです。

どういう状態になったらやめようかって。

それで、一番いいのは絶頂期ですね。

なんでも絶頂期にパッとやめるのがいいと思いますよ。

それを過ぎたら、余力がなくて、次にやりたいことがあっても、なんかダメになっちゃうんですよ。

何をやるにしても、みんなに惜しまれつつやめるってのがいいです。

チューブは多分、やめなきゃいけない時期にやめれなくて、結局、ズルズルとやめられなくなっちゃったんでしょうね。

謙虚じゃなくなったり、遊びがなかったり、業についても、去り際をズルズル過ぎてしまったらそうなっちゃうんだろうなあ。

ちなみに去り際って、終わりじゃないんですよ。

車でいえば、オイル交換とか、車検みたいなもんですかね。

また、変なコメントしちゃいましたー(笑)

ぶらんぶらん

チューブらりん。
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Unknown (いや、誤解ないようにしておきたいんですけど ヴァッキーノさんへ)
2008-01-14 10:04:23
 事務所で次に出す曲の方向性を話し合うアーティストは、結構いると思いますよ。決してそれで、今TUBEが駄目になっているということにはなりません。
 それからこの文章は確かにTUBEの話をしてから考えた事を書いたわけですけれど、これに書いてある項目のすべてについて、今のTUBEが欠けているというわけではありません。あしからず。誤解なきようによろしくお願いしますm(_ _)m

 確かに絶頂期を過ぎてもまだ現役の椅子にしがみついている(この言い方には語弊がありますが)アーティストはたくさんいます。
 けれども僕は、その方々を否定的な気分で見ることはほとんどありません。
 前回の文章で登場したDREAMS COME TRUEもいちど絶頂期を過ぎたきらいがありました。
 けれども今また、皮肉にもメンバーの旦那さんの不幸のために注目されることになりました。
 そしてドリカムは、その場面を最高のアルバムを発表するという行為によって周囲に応えてくれました。
 僕はそれに感動したわけです。

 正直僕はTUBEが『終わらない夏に』(1994)を発表した後、解散するんじゃないか、と心配になりました。
 それだけあのアルバムはそういう感じを受けるメッセージ性が高かったし、完成度も最後じゃないか?と思わせるくらい高かったのです。

>去り際って、終わりじゃないんですよ。
>車でいえば、オイル交換とか、車検みたいなもんですかね。

 ああそうなんだー。目から鱗。勉強になるなあ。
 確かに節目を付けないとズルズルいっちゃいますよね。
 気持ちの向きを保つための、箸休め・スパイスみたいなものなのかもしれませんねえ。
 さすが。

 全然変じゃないですよ。ありがたいといつも思っています。
 ではまた。
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名前にタイトル書いて、 (鉛筆カミカミ)
2008-01-14 10:05:35
 名前書くの忘れちゃいました。
 ↑は僕のコメントです。あしからず。
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Unknown (儚い預言者)
2008-01-15 13:32:45
 この世の目に付くのは、本当だとしても、その見えない部分の余りに無限とも思える事。人間の視覚の範囲は、光の0.0001未満の波長域だといいます。それをもって全部とすることの何たる偽証。しかし人間はその範囲の中で、生きているのだから、それが全部でないと知ることは、悲しみでしょうか、喜びでしょうか。昔イエスが言いました。すべての人に、神がいると。そして私はそのことを祝福しにきたのだと。
 全部でない人間が全部を表現しているという逆説。どう見たって神でない人間が、ちょっと範囲を広げて見える人には、同じ存在であることの不思議。
 業というのは、幻想の最たるもの。想いの凝縮でしょう。それはこの世の仕組みになっている。それは良いも悪いもなくて、この世の存在理由でしかない。理由をなくしてしまえば、自分という塊のこの世の存在さえ分かれば、見えない範囲の夢にも無限に飛翔できることになります。
 そしてそれをまた人間として現せるという禅でいう大死一番速やかに蘇る、ってことになるのでしょう。
 キリストの復活とはこのことだと思います。そうです愛以外に真に存在するものはないということです。

 祝福がいつもあなたにありますように。
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なんだろう、預言者さまへ (鉛筆カミカミ)
2008-01-15 22:33:48
 僕はなにが書きたかったのだろう。
 人は枠を作りたがります。そうするとわかりやすいからです。
 よく言う話ですが、「分かる」という言葉自体、分けて、くくって、囲いを作ることで、判別するという意味があると、昔教科書で習いました。
 けれども、預言者さまの「わかる」はそれと違いますよね。
 わかるというよりも、体現する(?)というべきか。そのものになる、いやまったくならない、何ものにもならない、というべきか。
 人の魂は光だと思った時期がありました。
 存在するのだが、見えない。いや見えるのだが、見えた途端、それは遠くにいなくなる。実質、存在していないのだ、それは。
 光の入れ物は、加速度的に増大するのでは、とも考えました。
 だからいつかそれは光の速度を超え、あらゆるものは見ることもできなくなり、人は触覚しか頼るものがなくなる。そういう世界がいつか来るのではないかと本気で考え、恐れたこともありました。そんな経験から生まれたのが拙作『大切なものを挙げるとしたら』でした。
 見えないものを感じるのは大切なことです。
 けれどそれは自分が動かないと見えない、世界のいろんな動きを身に浴びせないと見えないのではと、現在の僕は考えています。
 ムーブムーブです。
 預言者さまの考え方は、いつか身に付けたいと思っています。
 今後ともどもよろしくお願いします。
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