食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

江戸時代の和菓子(2)-近世日本の食の革命(13)

2022-02-12 10:15:52 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の和菓子(2)-近世日本の食の革命(13)
現在、東京の立川市で、将棋の王将戦第4局が開催されています。もし、この対局で挑戦者の藤井聡太竜王が勝てば、最年少の五冠達成になります。

ところで、藤井竜王はどうも和菓子(餡子?)好きらしく、前回の対局でも、会場のホテルが準備したおやつの中から羊羹を選んで食べていたということです。毎度のことですが、この羊羹は大きな話題となり、ホテルにはたくさんの問い合わせや注文が相次いでいるそうです。

さて、羊羹には蒸羊羹(むしようかん)と練羊羹(ねりようかん)があり、現在では羊羹のほとんどが練羊羹になっています。ちなみに、藤井竜王が食べた羊羹も練羊羹です。

今回は、練羊羹をはじめとして、江戸時代に誕生した和菓子について見て行きます。


桜餅(ウイキペディアより:ライセンス

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練羊羹(ねりようかん)
練羊羹が登場する前に作られていたのが蒸羊羹で、これは小豆の粉にくず粉、小麦粉、もち米粉などを甘味料と混ぜて蒸したものだ。蒸羊羹は水分量が多いのであまり日持ちしない。現代でも「栗蒸羊羹」などがよく食べられている。

一方の練羊羹はくず粉、小麦粉、もち米粉の代わりに、寒天を使って作られる。寒天を砂糖と小豆の粉と一緒に練りながら煮詰め、冷やして固めると練羊羹ができ上る。練羊羹は、1800年頃の江戸で、紅谷志津摩もしくは喜太郎という人が作り始めたとされるが、真相は定かではない。

練羊羹は日持ちがよく、保存状態が良いと1年以上もつと言われている。また、味わいが深くて食感も良かったため、多くの人々に好評で、またたく間に全国に広まって行った。

桜餅(さくらもち)と花見団子
桜の花を見て楽しむ花見は平安時代に貴族を中心に始まった風習だが、時代とともに武士階級にも広がり、江戸時代中頃までには一般民衆も花見を行うのが一般的になった。

江戸では、徳川家の菩提寺となった寛永寺に桜が植えられ、花見の名所になった。しかし、庶民による歌や踊り、飲食は禁止されていた。

そんな中で、一般庶民が気楽に花見を楽しめる場所を作ったとされるのが8代将軍の吉宗だ。彼は、生類憐みの令以来廃止されていた鷹狩を復活させたのだが、鷹狩を行うと庶民の生活の場を荒らすことになる。そこで彼は、そのお詫びとして一般庶民が気楽に花見を楽しめる場所を作ったと言われている。

吉宗は1717年頃から浅草の隅田川堤防や飛鳥山などに桜を植えさせたとされる。また、品川の御殿山や玉川上水などにも桜が植えられ、桜の名所となった。

このように植樹された桜から生まれたのが「桜餅」だ。桜餅(長命寺桜餅)は、隅田川のほとりに建つ長命寺の門番が1717年に考案したとされる。桜から落ちてくる大量の落ち葉に困った門番が、小麦粉で作った生地でこしあんをはさんだ菓子を塩漬けした桜の葉で包むことを思いついたと言われている。

この桜餅は大人気となり、毎年大量の桜の葉が塩漬けされるようになった。1824年には77万枚もの桜の葉が塩漬けされたと記録されている。

また、大阪でも長命寺桜餅にならって桜餅が作られた。ただし、大阪の桜餅は、ツブツブとした道明寺粉の生地にこしあんを詰めたものを桜の葉で包んだもので、江戸のものとはかなり違っている。

一方、桜餅とともに花見につきものである桜色・白色・緑色の「花見団子」は、豊臣秀吉が1598年に宇治の醍醐で盛大な花見会を催したときに出されたものがルーツとされている。これが江戸に伝わり、江戸時代中頃からは花見でよく食べられるようになった。団子が甘くなったのもこの頃からと言われている。

余談だが、現代の日本でサクラの大部分を占めるソメイヨシノは江戸末期から明治初めにかけて生み出された品種で、江戸時代にはさまざまな品種の桜が植えられることが多く、開花時期がずれるため、長い間花見を楽しむことができたらしい。

大福餅
餅の中に甘い小豆餡がたっぷり入った大福餅は、現代でも人気の和菓子だ。餡の中にイチゴが入ったイチゴ大福や、小豆餡の代わりにマロンクリームが入ったモンブラン大福なども考案され、今でも進化を続けている。

大福餅の先祖は、鶉焼き(うずらやき)と呼ばれる塩味の小豆餡が入った餅だ。その形が鶉のように丸くふっくらとしていて大きかったことからそう名付けられたという。一つ食べると満腹になったため「腹太餅」とも呼ばれていたそうだ。

大福餅のはじまりはある貧しい未亡人の工夫にある。塩味の小豆餡の代わりに砂糖を入れた小豆餡を入れてみたのだ。これがとても美味しかったので、1771年に食べやすいように小ぶりにして売り出した。名前も「大福餅」にしてみたところ、美味しくて縁起が良いと大評判となり、現代にまで残る和菓子になったのだ。

さて、6月16日は「和和菓子の日」となっている。これは、西暦848年(嘉祥(かしょう)元年)の6月16日に仁明天皇が16個の餅や菓子を神前にお供えして、健康を祈願したという故事にちなんだものだ。

江戸時代には、6月16日の嘉祥の日に諸大名と旗本を江戸城の大広間に集め、将軍が神様にお供えした餅や菓子を配る儀式が執り行われた。大名と旗本は屋敷に帰ると、宴会を開き、その餅や菓子を家臣に配ったという。こうして将軍の威光を武士社会の末端まで知らしめていたと言われている。

江戸時代の和菓子(1)-近世日本の食の革命(12)

2022-02-09 13:23:06 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の和菓子(1)-近世日本の食の革命(12)
日本でも欧米でも、いわゆる菓子と呼ばれるものの多くは砂糖が入っていて甘いものです。もし、地球上に砂糖がなかったら、多くの菓子が現在のものとは別物になっていたと思われます。

砂糖の普及は菓子作りの進歩にとても密接に関係してきました。例えば、ヨーロッパでは、17世紀から18世紀にかけて砂糖が手に入りやすくなった結果、菓子作りの技術が大きく発展しました。同じように日本でも、江戸時代になって砂糖が広く普及するようになって、現在私たちが口にする和菓子が作り出され始めました。そして、江戸末期までに現在の和菓子の大部分が誕生します。

一方、このような和菓子の発展には、砂糖以外の材料が入手しやすくなったという背景もあります。例えば、和菓子には、米粉や餅粉、小麦粉などの穀物の粉が使われていますが、江戸時代になると一般庶民も石臼を所有できるようになり、和菓子作りに様々な粉を使えるようになったのです。

今回は、以上のような江戸時代の和菓子の発展について見て行きます。



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平安京以来、京都が菓子作りの中心だった。これは菓子の消費者が京都に多かったからだ。つまり、菓子は貴族の宴には欠かせなかったし、貴族は日常でも餅などの菓子を食べていた。また、餅は京都にたくさんある寺社でのお供え物としてよく作られていた。

鎌倉時代になると中国から帰国した留学僧や中国人の僧によって禅宗が日本に伝えられ、鎌倉仏教として武士や庶民に広がって行った。この禅宗が新しい菓子生み出すきっかけとなる点心をもたらした。

禅宗では眠気を覚ますために茶を飲んでいたが、その時の茶うけとして食べられていた簡単な食事が点心だ。現在は菓子となっている羊羹(ようかん)や饅頭(まんじゅう)は中国から伝わった点心で、菓子ではなく料理の一つだったのだ。なお、中国では羊羹や饅頭には羊肉が詰められていたが、肉食が禁じられていた日本では塩味の小豆餡が代わりに使われた。

16世紀に入ると、羊羹や饅頭は料理としてだけでなく、砂糖などで甘く味付けされて菓子としても食べられるようになった。この時代には裕福な商人や武将を中心に茶の湯が流行したが、甘い羊羹や饅頭は茶菓子として取り入れられることで、菓子として定着して行った。

また、茶人たちは新しい菓子を創作するとともに、金平糖などの砂糖を使った南蛮菓子も積極的に取り入れた。このように茶の湯で食べられた菓子はどれも高価で手が込んでおり、民衆の手に届くようなものではなかった。

一方、室町時代後半になると、京都の有名な寺社の門前などで茶と一緒に、団子・餅などの素朴な菓子を参拝者に販売する茶屋が登場し、民衆も気軽に菓子を食べられるようになってきたと言われている。

17世紀の江戸時代になっても同じような状況が続いていたが、元禄時代(1688~1704年)の頃になると、上方(京都・大阪)を中心に元禄文化が花開き、和菓子の世界は飛躍の時を迎える。

その原動力となったのが砂糖の輸入量の増加と、石臼の普及による新しい「米粉」の開発だ。この頃までに、下記のような「上新粉」「白玉粉」「みじん粉」「道明寺粉」などの米粉が作られるようになったのだ。

上新粉:うるち米を水洗いしてから製粉し、ふるいわけしたもの。
白玉粉:もち米を水洗いし、水漬けした後、水を加えながら製粉したもの。
みじん粉:もち米(又はうるち米)を烝煮後、乾燥し、焙煎して製粉したもの。
道明寺粉:もち米を蒸した後、粗めにひいたもの。

上新粉からは柏餅、ちまき、外郎(ういろう)などが作られるようになった。また、白玉粉からは和菓子の重要な素材である「求肥(ぎゅうひ)」が作られる。求肥は白玉粉に砂糖や水飴を加えて練り上げた柔らかい餅で、砂糖の保水効果によって時間がたっても柔らかさが失われないため、和菓子に広く利用されるようになる。

みじん粉は菓子の表面にまぶして装飾に使われたり、落雁(らくがん)の材料に使われたりする。また、道明寺粉はツブツブ・モチモチの食感が特徴で、次回でお話しするように関西風の桜餅に使われたり、おはぎの材料になったりする。

また、17世紀半ばには、トコロテンから「寒天」を作る方法が開発され、これも和菓子に利用されるようになった。テングサという海藻の煮汁を固めたものがトコロテンだが、これを凍結して乾燥させると、雑味が抜けた寒天の粉末ができる。これをもう一度水に入れて熱して固めたものは海藻臭さがなく、美しく透き通っていたため、和菓子の良い材料になったのだ。

こうして、京都を中心に洗練された新しい和菓子が作られていった。そのコンセプトは「五感を楽しませる」で、味覚だけでなく、視覚・嗅覚・触覚(食感)・聴覚(食べた時の音)のすべてを心地よく刺激する菓子が創作された。当時の記録からは、色とりどりの200種類以上の菓子があったことが推定されている。

このような京菓子は「上菓子」と呼ばれ、宮中(御所)に納められるとともに、公家や上級武士、裕福な商人たちが催した茶会などの集まり(サロン)で重用された。また、商人街や本願寺の門前町で和菓子を売る店が増えて行った。他の門前町の菓子も、砂糖の普及や新しい菓子の登場の影響をうけて、大きく進歩したという。

こうして一つの完成形を迎えた上菓子は全国に広がって行く。江戸では京都の和菓子屋が店舗を構え、一部の店は幕府の御用達となった。また、上菓子の作り方を習った職人たちも様々な土地で店を開いた。

このように各地に根付いた上菓子はそれぞれの土地で独自の工夫が施されて、現代に残る銘菓が生み出されて行く。特に江戸は京都に並ぶ菓子作りの中心地として発展して行った。

一方、江戸などで一般の民衆が食べる菓子も砂糖の普及とともに発展した。ただし、高価な白砂糖ではなく、精製度の低い黒砂糖が主に使用されたという。そうして作られた菓子は「雑菓子」と呼ばれ、これがのちに「駄菓子」になったとされている。

(次回は、江戸時代に誕生したいろいろな和菓子の話題です。)

江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)

2022-02-05 22:33:15 | 第四章 近世の食の革命
江戸時代の砂糖-近世日本の食の革命(11)
私は毎日、NHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』を楽しく視聴しています。このドラマでは「小豆の餡子(あんこ)」が重要なアイテムになっています。小豆の餡子は和菓子には欠かせないもので、小豆餡の誕生が和菓子のはじまりと言う人もいるほどです。

小豆餡は小豆を砂糖と一緒に炊くことで作られます。この砂糖には、単に甘みの元になるだけでなく、保存性を高めるという大事な役割があります。つまり、小豆餡のお菓子が比較的長持ちするのは、砂糖のおかげなのです。

砂糖には高い保水効果があります。砂糖は水にはおおよそ倍の量が溶けることができますが、これは砂糖の高い保水効果のためです。そして重要なことは、このように砂糖に結び付いた水は、細菌などには利用できない水であることです。このことが、砂糖が食品の保存性を高める理由の一つとなっています。例えば、ジャムには30%程度の水分が含まれていますが、大量の砂糖の存在によって細菌類が利用できない形になっているため、ジャムは長持ちするのです。

また、砂糖にはデンプンの劣化(専門的には「老化」と呼びます)を防ぐ効果もあり、これが食品の保存性を高める2つ目の理由です。このデンプンの老化防止効果も砂糖の保水性が関係しています。

穀物やイモ類などに含まれているデンプンはベータ型と呼ばれるパサパサとした消化吸収の悪い形ですが、水を加えて加熱することによって、しっとりとした消化吸収の良いアルファ型に変化します。

ところが、アルファ型のままで放置すると、水分が抜けることによってデンプンはベータ型に戻ってしまいます。しかし、砂糖が存在すると、水分を保持することで、ベータ型に戻るのを防ぐというわけです。餡子の柔らかさがしばらく変わらないのも、ようかん(羊羹)が風味を損なわずに長持ちするのも、このためです。

砂糖には保存性を上げる効果以外にも、水分量を高めることで食品にしっとり感を与えたり、プリンなどでタンパク質が局所的に固まるのを防ぐことでなめらかさを増したりする効果などがあります。

今回は、このような砂糖の江戸時代の様子を見て行きます。



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今では沖縄奄美などの南西諸島や、讃岐などでサトウキビが栽培されて砂糖が生産されているが、国内産の砂糖が流通し始めるのは18世紀になってからであり、それまでは外国から砂糖が持ち込まれていた。

室町時代までは砂糖は中国から輸入されていたが、その量は限られていた。ところが、16世紀半ばから南蛮貿易が始まると、まとまった量が継続して輸入されるようになり、砂糖の国内利用も広がって行った。

江戸時代初期には年間100トンほどの砂糖が輸入されていたが、輸入量は次第に増えて行き、18世紀半ばになると1000トンを超えるようになったと言われている。また、その頃には中国からの輸入量も増えており、合わせて2000トン前後の砂糖が輸入されていた。

なお、砂糖の値段だが、1690年頃の小売価格は、1キログラムあたり160文ほどと言われている。1文は現代の10~30円ほどなので、1600円~4800円の計算になる。これは現代の価格の数倍から10倍くらいになり、それほど高くない。

ところが、1697年からは輸入商品に対して高い関税がかけられるようになり、砂糖の小売価格は1キログラムあたり700文ほど(現代の7000円~20000円ほど)に高騰した。これでは、なかなか一般庶民には手が出ない。

一方、18世紀なると、国内で砂糖の生産が始まり、少しずつ国内に流通し始める。

琉球は1623年に中国に使者を送って砂糖の製造方法を学び、砂糖を作り始めた。この砂糖の製造は18世紀初頭にかけて奄美諸島などの南西諸島に広く伝わり、日本での砂糖生産の拠点となって行った。

沖縄を含めて南西諸島を支配していた薩摩藩は南西諸島の黒砂糖を独占することで莫大な富を得た。南西諸島の農民にサトウキビの栽培を強制するとともに、出来上がった黒砂糖を安く買い上げ、それを大阪で高く売り渡したのだ。

一方、それ以外の地域でも砂糖の生産が始まる。その立役者は暴れん坊将軍の吉宗だ。

徳川吉宗は様々な有用な植物の栽培を奨励した将軍として知られている。吉宗は1727年にサトウキビの苗を琉球から取り寄せ、諸藩に栽培を推奨するとともに、自らも浜御殿(浜離宮)の農場で栽培させた。そして、その2年後には砂糖の生産に成功する。

この成功をきっかけに日本の各地で砂糖生産の試みが続けられたのだ。その結果、1790年になって四国の讃岐で白砂糖の生産に成功する。そして18世紀の終わりには大阪での販売を開始した。

讃岐(高松藩)では新しい精糖技術の開発が進められた。そして、精糖作業を繰り返すことで、上質な白砂糖である「和三盆」の作り出すことに成功した。

なお、この「和三盆」の名前だが、中国の白砂糖の名前に由来している。中国産の砂糖には等級があり、上から三盆・上白・太白と呼ばれた。これに倣って、日本でも最上級の砂糖を「和三盆」と呼んだのである。なお、現代でも使われている「上白糖」と言う言葉もここから来ている。

以上のようにして砂糖の国内生産量が増えて行き、1840年頃には輸入量を上回るようになった。そして、小売価格も大幅に下落して行き、一般庶民も砂糖を思う存分使えるようになった。