食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

豊かな植民地バージニア-独立前後の北米の食の革命(2)

2021-09-12 18:33:31 | 第四章 近世の食の革命
豊かな植民地バージニア-独立前後の北米の食の革命(2)
初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントン(任期:1790~1793年)は、北米におけるイギリスの最初の永続的な植民地となったバージニアの出身です。

また、第3代大統領でアメリカ独立宣言を書いたトーマス・ジェワーソン(任期:1801~1809年)と第4代大統領ジェームズ・マディソン(任期:1809~1817年)、第5代大統領ジェームズ・モンロー(任期:1817~1825年)もバージニア出身です。

このように、アメリカ初期の大統領の多くがバージニア出身なのには、バージニアがとても豊かな土地で、入植者たちがきわめて裕福だったという背景があります。

今回は、豊かな植民地バージニアの食について見て行きます。

************
アメリカ合衆国をいくつの地域に分けるかについては明確な決まりは無い。歴史的にはイギリスの植民地の建設が東海岸から始まったことから、アメリカの東部を南北の2つに分けて、それぞれ「北部」と「南部」と呼び、1860年代から開拓された「西部」と合わせて、3つの地域に分けるやり方が伝統的に行われてきた。



バージニアは南部の中心とされてきた州で、この地のジェームズタウンがイギリス最初の永続的な植民地として1607年に104名の植民団によって建設された。植民の当初の目的は金や銀などの採取であったが、大した鉱山は見つからなかった。しかし、カリブ海からタバコを導入して栽培したところヨーロッパで人気を呼び、バージニアの一大輸出品に成長して行った。

1607年4月に建設されたジェームズタウンでは清潔な飲料水の確保が難しく、また湿地帯であったためマラリアなどにかかる者が多く、1年の間に60人以上が死亡した。植民地の最初期の指導者のジョン・スミスは銃で威嚇することでアメリカ原住民から食糧や飲料水を提供させ、生きながらえたと言われている。

ジョン・スミスが後に記した回顧録で「アメリカ原住民のポウハタン族に捕まり処刑されそうになったが、族長の娘ポカホンタスがその身を投げ出して彼のために命乞いをしてくれたために助かった」という話を書いた。これは美しい伝説となり、現在でも多くの教科書で取り上げられているらしいが、実際はスミスの作り話と考えられている。ちなみに、この伝説を元にしたディズニーのアニメ映画『ポカホンタス』が1995年に公開されている。

バージニアが植民地として軌道に乗るのは、1630年代にたくさんの人々がイギリスから入植してからのことである。彼らの多くは手に職を持った人たちで、新天地で生活すると土地をもらえるという話に魅せられてはるばるやって来たのだ。こうして1650年には約1万5千人もの人々がバージニアで生活するようになった。

金や銀が見つからなかったため、入植者たちはトウモロコシやタバコ、コメなどを栽培し、家畜を育てて生計を立てるようになった。ちなみに、北米でコメが最初に栽培されたのはバージニアで、その後稲作は南部全域、そして西部へと広がって行く。

バージニアは豊かな土地で、気候が温暖だったため作物が良く育った。そのため、タバコを始めとして農作物を大量に輸出できるようになった。そして、さらなる生産量の拡大を狙ってアフリカの黒人を労働力として利用するようになった。これが北米における黒人奴隷の始まりである。

さて、ここからバージニアなどの南部の伝統的な食について見て行こう。なお、南部は豊かな土地であったことから伝統的に料理が美味しい地域とされている。

南部の食材で代表的なものが「豚肉」だ。植民地を建築した頃のバージニアでは、スペイン人が放ったブタが野生化して群れをつくって生活していて、豚肉が簡単に手に入った。バージニアのブタは森の中で脂肪分たっぷりのピーナッツをたらふく食べるため、とても美味しくなったと言われている。このため南部は豚肉中心の食となった。

この美味しい豚肉を使って作られて来たのが「バージニアハム」だ。このハムは1640年頃から美味しいと各地で評判になった。中でもスミスフィールドという街で作られるバージニアハムが有名で、19世紀になると英国ヴィクトリア女王の御用達となった。

このハムは、ブタの肢を塩漬けし、ヒッコリー(クルミ料の木)の煙で燻製にしてから熟成して作られる。非常に塩辛く、食べる時には水で何度も塩抜きする必要があるという。塩抜きしたものは煮込んだり、フライパンで焼いたりして食べる。



バージニアなどの南部海岸近くの植民地では、海に出れば、様々な魚やカニ、エビ、貝などをたくさん捕まえることができた。このカニを使って作られる伝統的な料理に「クラブケイク」がある。これは、ほぐしたカニの身にパン粉とタマネギ、卵などを混ぜ合わせて丸め、ラードで揚げ焼きにしたものだ。バージニアの北隣のメリーランドの名物料理になっている。



南部の朝ごはんに食べるものとして有名なのが「ホットビスケット」だ。これは、小麦粉の生地にバターやラードなどの脂と塩・砂糖、そして重曹を加え、焼いて作った即席のパンのことだ。サクサクとした食感でハチミツなどをたらして食べることもあるそうだ。

TRANSIT53号 世界のスパイスをめぐる冒険

2021-09-09 17:07:38 | お知らせ
9月15日にトラベルカルチャー雑誌 TRNASIT 53号が発売されます。

本号は「世界のスパイスをめぐる冒険」と題して、スパイスについて様々な話題が掲載されています。


私はその中の「食文化」の記事に協力させていただきました。

興味のある方は、ぜひ手に取ってご覧ください。デジタル版もあるそうです。

感謝祭のはじまりの物語-独立前後の北米の食の革命(1)

2021-09-08 18:04:15 | 第四章 近世の食の革命
感謝祭のはじまりの物語-独立前後の北米の食の革命(1)
アメリカでもっとも大切な祝日の一つに、11月の第4木曜日の「感謝祭(Thanksgiving Day)」があります。感謝祭の翌日は「ブラックフライデー」と呼ばれ、ニュースでよく話題になるように、売れ残りの感謝祭のプレゼントが激安で売られる日になっていて、大勢の人がお目当ての品物を求めて殺到します。

感謝祭では「シチメンチョウ(七面鳥)」の丸焼きを食べるのが慣習になっています。また、丸焼きになるはずだったシチメンチョウにアメリカ大統領が恩赦を与えるセレモニーがホワイトハウスで開かれたりします。

感謝祭の起源は、1620年にメイフラワー号でイギリスから北米に渡ったピューリタン(清教徒)が1621年に開催した収穫祭だと言われています。
今回から、独立前後の北米の食のシリーズが始まりますが、初回は移住した清教徒たちの食生活について見て行こうと思います。


シチメンチョウ(ElstefによるPixabayからの画像)

************
イギリス最初の永続的な植民地となったのは大西洋岸の南部バージニア州のジェームズタウンであり、1607年に105名の植民団によって設立された。
1620年にメイフラワー号でイギリスを脱出したピューリタン(清教徒)102名も当初はジェームズタウンを目指したのだが、船に積んでいた飲料水代わりのビール(エール)が尽きたため、現在のボストンにほど近いプリマスに上陸したと言われている。ニューイングランドの植民地の始まりである。

ピューリタンの移住者はいわゆる中産階級の人々で、農業や漁業、狩猟の経験が無かった。また、食べ物に対する融通性に乏しく、食べたことが無い食べ物を口にすることに抵抗があった。つまり、船で運んできた食料以外に食べられるものは少なく、やがて飢えに苦しむようになったのだ。

そうして12月に上陸した102名のうち約半数は春を迎えるまでに亡くなってしまった。特に女性はイギリスの食に対するこだわりが強かったため、29名のうち4人しか生き残らなかったと言われている。

それでも約半数が生存できたのはアメリカ原住民のおかげと言われている。彼らは移住者たちに食べ物を分けてくれたし、食べられる食材も教えてくれたのだ。アメリカは豊かな土地であり、森には食料となる動物や野鳥がたくさんいるし、ナッツやベリーなどの木の実も豊富だ。また、海岸に出ればクラムやムール貝がゴロゴロ転がっていた。

2021年の春になると、アメリカ原住民はトウモロコシの育て方を教えてくれた。トウモロコシは単位面積当たりの収穫量がコムギの約3倍になるほどの優秀な穀物だ。また、アメリカ原住民は1年に3回の収穫ができる栽培法を確立していたため、移住者の食糧事情は一挙に好転した。

移住者たちは11月になるとお世話になったアメリカ原住民を招いて収穫祭を開いた。これがアメリカの感謝祭の始まりだ。宴にはシチメンチョウなどの野鳥やシカ、ハマグリの料理や、トウモロコシの粉で作ったコーンブレッドなどが並んだと言われている。

さて、感謝祭のメインディッシュであるシチメンチョウであるが、英語では「Turkey(ターキー)」言い「トルコ」という意味になる。その当時のヨーロッパでは、オスマン帝国から伝わったものにTurkeyの名を付けることが多かった。オスマン帝国からはアフリカ原産のホロホロチョウがヨーロッパに持ちこまれ、これをTurkeyと呼んでいたのだが、シチメンチョウとホロホロチョウの見た目が似ていたため、両者を混同してシチメンチョウもTurkeyと呼ぶようになったのである。

感謝祭でシチメンチョウを食べる習慣はその後イギリスに持ちこまれたが、イギリスではクリスマスにシチメンチョウの丸焼きを食べるようになった。これが日本にも伝わったが、日本ではシチメンチョウが出に入らなかったため、代わりにチキンの丸焼きを食べるようになったのである。

さて、生き残ったニューイングランドへの移住者たちは、イギリスから運んできたムギ類やキャベツ、リンゴなどをアメリカの大地に植えて行った。また、アメリカ大陸にはいなかったミツバチを持ちこんで蜂蜜づくりを始めた。

さらに、移住者たちは海に出て漁業を始めたが、近くにタラの良い漁場があったため、干鱈が有力な輸出品になって行った。

一方、森には以前にスペイン人が持ち込んだブタがいたが、1624年になるとイギリスから乳牛が届き、ミルクと乳製品を口にできるようになった。このミルクがアメリカの海岸に生息する二枚貝のクラムと出会って誕生したのが「クラムチャウダー」だ。このクラムチャウダーはニューイングランド・クラムチャウダーとも呼ばれている。



その作り方は簡単で、肉厚のクラムをゆでてから刻み、それをたっぷりのミルクを加えたゆで汁に戻して、さいの目に切ったジャガイモとタマネギ加えて煮込むだけだ。

とても簡単な料理なので、日々の労働に追われていた家庭でも手軽に作ることができた。

もう一品だけミルクとアメリカの出会いで生まれた料理を紹介しよう。「コーンプディング」という料理だ。

これは、そぎ落としたトウモロコシの実をクリームの入ったミルクに投入し、溶き卵を加えて、固まるまで遠火でじっくりと焼き上げた料理だ。これも簡単な料理で、手間暇をかけることができなかった当時の状況が思い浮かぶ。

こうして、1620年にピューリタンが上陸して始まったニューイングランドの植民地は、大成功をおさめるようになったのである。

ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)

2021-09-06 18:00:24 | 第四章 近世の食の革命
ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)
ドイツはビール大国です。ビールの年間消費量は、国民1人当たり約100リットルで、日本人のおよそ2.5倍になります(日本人は38リットル)。ちなみに、ビールの個人消費量第1位はドイツの東隣のチェコで、約190リットルのビールを飲んでいます(いずれも2019年の統計)。

ローマ帝国の後に西ヨーロッパを支配したゲルマン民族は移動前からビールを飲んでいたと言われています。フランク王国となってキリスト教を国教としてからはワインもたくさん飲むようになりましたが、ブドウを栽培できないドイツ北部ではワインの代わりにビールの醸造が盛んに行われていました。

しかし現在では、ドイツ南部の都市ミュンヘンが「ビールの都」と呼ばれています。ミュンヘンでは、毎年「オクトーバーフェスト」と言うビール醸造の開始を祝う祭典が開催され、16日間の祭りの間に500万人以上の人が訪れると言われています。

どうして南部の都市ミュンヘンがドイツビールを代表する都市になったのでしょうか。今回は、その理由を中心に、ドイツビールの歴史をたどって行きます。なお、近世のミュンヘンはバイエルン公国の首都であり、バイエルン公の居城がありました。


(StockSnapによるPixabayからの画像)

************
ミュンヘンはドイツビールの歴史を語る上で欠かせない都市だ。その理由の一つは、1516年4月23日に、この地を治めるヴィルヘルム4世(在位:1508~1550年)が「ビール純粋令」を公布したからだ。このビール純粋令はそれ以降改訂を重ねながら、現在のドイツでも遵守され続けている。

1516年に公布された最初のビール純粋令では、「ビールはオオムギ・ホップ・水の3つの原料以外を使用してはならない」とされた。そして1551年の改訂版では、3つの原料に「酵母(Hefe)」が加えられた。

ただし、顕微鏡によって酵母の姿がとらえられるのは1680年頃のことであり、ビール純粋令の改訂版が出された当時に、酵母の実体が明らかになっていたわけではない。実は、ビールを醸造すると次第に樽の底にたまって来る「粘着性のオリ」を「Hefe(酵母)」と名付けたのだ。これを次回の醸造に使用すると上手くビールが出来ることに気が付いて、改訂版で原料の一つとしたのである。この粘着性のオリが酵母の塊だったわけで、当時の人々が経験から導き出した真理と言える。

酵母が底にたまるということから、このビールは「下面発酵」で造られた「ラガー」だった。つまり、ビール純粋令は下面発酵のラガービールについて定められたもので、「上面発酵」で造る「エール」には適用されない。

ここで、ミュンヘンでラガービールが造られるようになった経緯について見て行こう。

中世のバイエルン地方ではワインが主に飲まれていた。上質のビールはバイエルンでは醸造されておらず、美味しいビールを飲もうとすると、北ドイツのハンザ同盟に所属する都市で造られたものを輸入するしかなかったのだ。これらの都市ではビール醸造業者のギルドがあり、高い技術が保持されていたのである。中でも、アインベックと言う街で造られたビールの評価は高く、バイエルン公も頻繁に取り寄せては楽しんでいた。そして、その代金は莫大なものになったそうだ。

節約と言う意図もあったと思われるが、バイエルン公は美味しいビールをたらふく楽しむために、バイエルンでアインベックに負けないようなビールを作ろうと考えたのである。そこで公布されたのがビール純粋令で、これによって劣悪な業者を締め出すことで、ビールの品質を向上させようとしたのだ。

このビール造りの情熱は、ヴィルヘルム4世の後の代にも引き継がれた。彼らもアインベック・ビールが大好きだったのだ。

ヴィルヘルム5世は、1591年にアインベック・ビール専門のビール醸造所ホーフブロイハウスを建設した。そして1612年に、その息子マクシミリアン1世がアインベックから醸造技師を招いたことで、やっと本家に肩を並べることができるビールを造ることができるようになったと言われている。

1618年になるとドイツを主戦場とした30年戦争(1618~1648年)が始まったが、これがミュンヘンのビール産業の一大転機になった。戦争の結果、ドイツ全土は荒廃し、バイエルン地方のブドウ畑も壊滅状態になったのだ。そして戦争が終わると、この地方ではブドウの代わりにオオムギが主に栽培されるようになり、ビールの醸造が盛んになる。ワインを造るよりも、ビールを大量に生産する方が儲かったからである。何と言っても、アインベックから連れてきた醸造技師のおかげで、高品質のビールを作ることができるようになっていたことが大きかった。

こうしてバイエルン地方は高品質ビールの一大生産地となり、その首都ミュンヘンビールの都と呼ばれるようになったのである。ちなみに、現代でもバイエルンの人々は他の地域の人に比べて2倍以上のビールを消費していると言われている。

ドイツワインの歴史-近世ドイツの食の革命(4)

2021-09-04 23:22:01 | 第四章 近世の食の革命
ドイツワインの歴史-近世ドイツの食の革命(4)
1980年代の半ば頃まで、日本に輸入されるワインでもっとも多かったのがドイツワインです。私が大学生の時に自分で買った最初のワインもドイツワインでした。その頃はワインの知識は全くなく、店頭で並んでいたものを適当に買っただけでした。

ドイツワインと聞けば白ワインを思い浮かべる人が多いですが、実際にドイツで生産されるワインの半分以上は白ワインで、また、その品質もとても優れているとされています。

ドイツの多くの高級白ワインに使用されているのが「リースリング」と言う品種で、ドイツでは他の品種をブレンドせずに、単一品種のブドウでワインを造るのが一般的です。

今回は、ドイツワインの歴史をたどりながら、ドイツワインの特徴について見て行こうと思います。

************
ドイツで最初にワインが醸造されたのは、紀元1世紀末から2世紀初頭にかけてのモーゼル河中流域と考えられている。当時はドイツの地はローマ帝国の一部であり、ローマ人がイタリアからブドウを持ちこんだと言われている。3世紀にはローマ皇帝プロブス(在位:276~282年)の命によってモーゼル河流域からライン河流域にかけてブドウ畑が拡張され、ワインが大量に生産された。



この「モーゼル地方」は現代でもワインの銘醸地であり、5大畑(オルツタイルラーゲ)の一つである「シャルツホーフベルク」を擁している。なお、オルツタイルラーゲとは、ワインの表記に畑名だけを入れることが許された5つの畑のことを言う(それ以外は地区名と畑名を記載する)。

中世に入るとドイツのいたるところでブドウが栽培されるようになったが、良いブドウができる地域は限られており、次第に特定の場所でしかワイン造りは行われなくなって行った。その理由がドイツの気候にある。これを説明するために、現在のドイツで行われているドイツワインの格付けについて説明しよう。

ドイツワインの格付けは他国のものと大きく異なっている点がある。それは、原料のブドウ果汁の糖度によって格付けを行うことだ。

ドイツでは法律で、ワインを大きく4つのクラスに分けている。日本に入って来るのは上位2つのクラスのワインで、「プレディカーツヴァイン」と「クヴァリテーツヴァイン」と呼ばれる。

最高級のプレディカーツヴァインはブドウ果汁の糖度によって、さらに6つのクラスに分けられ、糖度が高いほど高級ワインに分類される。ただし、ブドウ果汁の糖度が高いからと言って甘口のワインになるわけではなく、甘口と辛口の両方のワインが造られている。

このようにドイツで糖度が重視される理由は、ドイツでは糖度の高いブドウを作るのが難しいからだ。ドイツは気候が寒冷で、また緯度が高いために太陽の光が弱く、光合成が起こりにくい(光合成量は、光の強度・温度・二酸化炭素濃度によって決まる)。光合成が起こりにくいと糖ができず、ブドウが甘くならないのだ。

酒を造る酵母は糖を原料にアルコールを生み出すのだが、糖度が低いブドウ果汁を原料にすると十分なアルコールができずに、低品質のワインになってしまうのである。

このような理由から、ドイツでは糖度が高いブドウができる地域がワインの銘醸地として選択されて行ったのだ。

ドイツの多くのブドウ畑は、川沿いの南向きの急斜面に位置している。これは、日中に川の表面によって日光が反射するからだ。このような畑では、太陽から直接来る光と反射光によって光の強度が高まるとともに温度も上昇する。また、夜になって気温が下がってきても、川からの放射熱によってそれほど寒くならない。

ドイツでブドウ栽培に最適の地とされてきたのが「ラインガウ地方」だ。ラインガウには 「シュロス・ヨハニスベルク」「シュタインベルク」「シュロス・ライヒャルツハウゼン」「シュロス・フォルラーツ」という、5大畑(オルツタイルラーゲ)のうち4つの畑が存在している。

ラインガウでは、ライン河とマイン河の分岐点近くの北岸にある南向きの斜面にブドウ畑が広がっている。ラインガウでブドウが作られ始めたのは8世紀のことで、それにはフランク王国のカール大帝(742年~814年)が関わっている。

カール大帝がフランクフルトの西の町インゲルハイムの居城に滞在していた時のことだ。この城はライン川の近くにあったのだが、季節は冬の終わりということで城の周りは一面雪におおわれていた。ところが彼がふと川の対岸に目をやると、丘の上の雪が融けかけているのが見えた。カール大帝はその丘がブドウの栽培に適した暖かい地であることを見抜き、ブドウ畑をつくるように命じたという。

その丘こそ、ドイツで最高級の白ワインを生み出し続けている「ラインガウ」だ。ラインガウの北にはタウヌス山がそびえ、北風を防いでくれる。また、ゆったり流れるライン川によって太陽の光が反射し、大地を温める。さらに、夜になるとライン川が生み出す霧が寒さからブドウを守るのだ。

ラインガウ地方で重要なブドウの品種がリースリングで、栽培面積のほぼ90%を占めている。リースリングは白ワイン用の品種で、しっかりとした酸味と上質な芳香を特徴としている。香りが強いことから樽での香味付けは一般的に行われず、リースリングワインではブドウ本来の香りを楽しむことができると言われている。また、辛口から極甘口のアイスワインや、さらには発泡性があるものまで多様なワインを造ることができるという特徴を持っている。

ラインガウ地方のヨハニスベルクはドイツにおける貴腐ワインのはじまりの地とされていて、次のような伝承がある。

1775年のことだ。ヨハニスベルクでブドウ栽培を行っていた修道士たちは領主からのブドウ収穫の許可をソワソワしながら待っていた。毎年収穫時期になると領主からブドウの収穫を許可する伝令が届くのだが、その年は到着が遅れていてブドウがダメになりそうだったのだ。結局、伝令は14日遅れてしまい、干しブドウのようになったブドウを収穫することになった。ところが、ダメもとでそのブドウでワインを造ってみたところ、素晴らしいワインができたのだ。実はこの時ブドウは貴腐化していて、水分が抜けて糖度が高くなるとともに、芳醇な香りの元が作られていたのである。

ドイツのワインの銘醸地には、モーゼルとラインガウのほかに、ナーエやファルツ、ラインヘッセン、バーデンなどがある。

なお、格付けの一番上のクラスはブドウ果汁の糖度でさらにクラス分けが行われていたが、2番目以降のクラスでは、ブドウ果汁に糖を加える「シャプタリザシオン」という工程が認められている。

また、近年では温暖化のためにブドウの糖度が上がるようになり、ワイン造りに適したブドウが作りやすくなっているとも言われている。