食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(7)

2021-09-28 20:34:15 | 第四章 近世の食の革命
紅茶とボストン茶会事件-独立前後の北米の食の革命(7)
ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」はアメリカ独立戦争(1775~1783年)のきっかけとなった出来事としてとても有名な事件で、多くの教科書や書籍に取り上げられています。

この事件は、1773年12月に、マサチューセッツ植民地のボストンで先住民の格好に扮した植民地の人々がイギリス東インド会社の貨物船を襲い、積み荷の紅茶を海に投棄したというものです。翌朝たくさんの茶葉が海に漂っていて、それがティーポットのように見えたため、昨夜「茶会」が開かれたというジョークが生まれて「ボストン茶会事件」と呼ばれるようになりました。

今回は、紅茶が飲まれるまでの歴史とボストン茶会事件を中心に独立戦争が始まるまでのいきさつについて見て行きます。



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まずは茶(紅茶)の話から始めよう。

茶は中国が原産地で、最初は上流階級の飲み物だったが、唐代(618~907年)には知識人にも普及し始め、宋の時代(960~1279年)には一般庶民の間でも広く飲まれるようになった。一方、日本には遅くとも平安(794~1192年)の初期までに伝えられ、最初は貴族や寺院だけで飲まれていたが、室町時代(1336~1573年)になると茶屋などが発達し、一般庶民も茶をよく飲むようになった。

なお、今も昔も、中国や日本において一般的に飲まれる茶の大部分は「緑茶」だ。これは、摘み取った茶葉をすぐに熱処理したものだ。こうすることで茶葉に含まれる酵素が働かなくなる。一方、摘み取った茶葉に傷をつけたり、良く揉むなどしたりして酵素が働くようにすると、次第に独特の風味と渋みが生まれて来るとともに色が黒くなる。こうして作られたのが「烏龍茶」や「紅茶」だ。

16世紀になっていち早くアジアに進出して来たポルトガルは、中国や日本で「茶」に出会うことになり、その様子を本国に報告している。実際に最初に茶をヨーロッパに持ちこんだのはオランダの東インド会社で、1610年のことだ。茶と一緒に茶道具も中国や日本から輸入され、ヨーロッパにおける茶を飲む文化が始まった。なお、中国や日本にならって、この頃の茶はほとんどが緑茶だったと言われている。

オランダ東インド会社が運んできた茶は1650年代になるとオランダに加えてフランスやイギリスなどにも持ち込まれて、コーヒーハウスなどで飲まれるようになった。そしてコーヒーと同じように、砂糖を入れて飲むようなやり方も始まった。サフランを添えることもあったという。

1662年にイギリス王チャールズ2世に嫁いできたポルトガル王女キャサリンは、茶と砂糖、茶道具を持参し、イギリス王宮に茶を飲む文化を紹介した。こうして上流階級でも茶を飲む風習が広がって行った。この高まる需要に応えるために、1669年になるとイギリス東インド会社は独自に中国から茶の輸入を始めるようになった。

イギリス人が中国人と直接茶の取引を行うようになると、茶には緑茶の他に紅茶などの別の種類のものがあることが分かってきて、これらも飲まれるようになった。すると、タンニンが多くて濃い味の紅茶の方がイギリス人の嗜好に合ったようで、次第に紅茶の方が多く飲まれるようになって行った。そして、それとともに茶の消費量も増えて行った。

こうしてイギリスの上流階級(ジェントルマン)では、紅茶は無くてはならないものになって行くのである。もちろん、紅茶には砂糖をたっぷり入れて飲むのが英国流である。

海外のイギリスの植民地でも、上流階級の人々は本国のジェントルマンを真似て紅茶を飲むことを習慣としていた。紅茶だけでなく、その他の食事や飲み物、服装などの生活スタイルをジェントルマンに似せることがステイタスとなっていたのである。このため、イギリスから多くの生活必需品を輸入する必要があった。

このような状況で起きたのがヨーロッパの国々が戦った「七年戦争」(1754~1763年)だ。この戦争では、プロイセンとオーストリアの戦いに、イギリスはプロイセン側で参戦し、フランスとロシアはオーストリア側で参戦した。イギリスとフランスは北米でも戦い、これはフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)と呼ばれる。

北米での戦いはイギリスが勝利し、カナダやルイジアナなどのフランスの植民地のほとんどがイギリスの領土となった。しかし、この戦争での両国の出費は莫大なものとなり、それぞれの国の財政を大きく圧迫することとなる。

するとイギリス政府は戦争の支出をアメリカの植民地に負担させることを決定し、課税を強化した。例えば、1765年に印紙法と呼ばれる消費税のようなものを導入し、あらゆる物品から税を徴収した。また、イギリス本国の産業を保護するため、アメリカ植民地での経済活動を制限した。

当然、アメリカ植民地の人々は反発した。イギリスからくる商品の不買運動を行い、植民地内で生産される物品だけで生活する機運が高まって行ったのである。つまり、イギリスのジェントルマンのまねをやめて、アメリカ独自の文化を作る動きが始まったのである。

このような反発を受けてイギリス政府は印紙法を撤廃するが、1767年には再び茶や紙、ガラスなどに税金をかけるようになる。この時も植民地の人々の激しい反発に会って、ほとんどの税金を廃止したが、茶の税金だけは残ったのだ。

そうして1773年に起きたのがボストン茶会事件だ。この事件に対してイギリス政府は1774年に懲罰的な法律を施行し、イギリス政府と植民地の間の対立はますます深まって行った。そして同じ年にフィラデルフィアのカーペンターホールで、独立運動の嚆矢となる第一回大陸会議がジョージアを除く12植民地の代表によって開催されたのである。