食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)

2021-09-06 18:00:24 | 第四章 近世の食の革命
ドイツビールの歴史-近世ドイツの食の革命(5)
ドイツはビール大国です。ビールの年間消費量は、国民1人当たり約100リットルで、日本人のおよそ2.5倍になります(日本人は38リットル)。ちなみに、ビールの個人消費量第1位はドイツの東隣のチェコで、約190リットルのビールを飲んでいます(いずれも2019年の統計)。

ローマ帝国の後に西ヨーロッパを支配したゲルマン民族は移動前からビールを飲んでいたと言われています。フランク王国となってキリスト教を国教としてからはワインもたくさん飲むようになりましたが、ブドウを栽培できないドイツ北部ではワインの代わりにビールの醸造が盛んに行われていました。

しかし現在では、ドイツ南部の都市ミュンヘンが「ビールの都」と呼ばれています。ミュンヘンでは、毎年「オクトーバーフェスト」と言うビール醸造の開始を祝う祭典が開催され、16日間の祭りの間に500万人以上の人が訪れると言われています。

どうして南部の都市ミュンヘンがドイツビールを代表する都市になったのでしょうか。今回は、その理由を中心に、ドイツビールの歴史をたどって行きます。なお、近世のミュンヘンはバイエルン公国の首都であり、バイエルン公の居城がありました。


(StockSnapによるPixabayからの画像)

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ミュンヘンはドイツビールの歴史を語る上で欠かせない都市だ。その理由の一つは、1516年4月23日に、この地を治めるヴィルヘルム4世(在位:1508~1550年)が「ビール純粋令」を公布したからだ。このビール純粋令はそれ以降改訂を重ねながら、現在のドイツでも遵守され続けている。

1516年に公布された最初のビール純粋令では、「ビールはオオムギ・ホップ・水の3つの原料以外を使用してはならない」とされた。そして1551年の改訂版では、3つの原料に「酵母(Hefe)」が加えられた。

ただし、顕微鏡によって酵母の姿がとらえられるのは1680年頃のことであり、ビール純粋令の改訂版が出された当時に、酵母の実体が明らかになっていたわけではない。実は、ビールを醸造すると次第に樽の底にたまって来る「粘着性のオリ」を「Hefe(酵母)」と名付けたのだ。これを次回の醸造に使用すると上手くビールが出来ることに気が付いて、改訂版で原料の一つとしたのである。この粘着性のオリが酵母の塊だったわけで、当時の人々が経験から導き出した真理と言える。

酵母が底にたまるということから、このビールは「下面発酵」で造られた「ラガー」だった。つまり、ビール純粋令は下面発酵のラガービールについて定められたもので、「上面発酵」で造る「エール」には適用されない。

ここで、ミュンヘンでラガービールが造られるようになった経緯について見て行こう。

中世のバイエルン地方ではワインが主に飲まれていた。上質のビールはバイエルンでは醸造されておらず、美味しいビールを飲もうとすると、北ドイツのハンザ同盟に所属する都市で造られたものを輸入するしかなかったのだ。これらの都市ではビール醸造業者のギルドがあり、高い技術が保持されていたのである。中でも、アインベックと言う街で造られたビールの評価は高く、バイエルン公も頻繁に取り寄せては楽しんでいた。そして、その代金は莫大なものになったそうだ。

節約と言う意図もあったと思われるが、バイエルン公は美味しいビールをたらふく楽しむために、バイエルンでアインベックに負けないようなビールを作ろうと考えたのである。そこで公布されたのがビール純粋令で、これによって劣悪な業者を締め出すことで、ビールの品質を向上させようとしたのだ。

このビール造りの情熱は、ヴィルヘルム4世の後の代にも引き継がれた。彼らもアインベック・ビールが大好きだったのだ。

ヴィルヘルム5世は、1591年にアインベック・ビール専門のビール醸造所ホーフブロイハウスを建設した。そして1612年に、その息子マクシミリアン1世がアインベックから醸造技師を招いたことで、やっと本家に肩を並べることができるビールを造ることができるようになったと言われている。

1618年になるとドイツを主戦場とした30年戦争(1618~1648年)が始まったが、これがミュンヘンのビール産業の一大転機になった。戦争の結果、ドイツ全土は荒廃し、バイエルン地方のブドウ畑も壊滅状態になったのだ。そして戦争が終わると、この地方ではブドウの代わりにオオムギが主に栽培されるようになり、ビールの醸造が盛んになる。ワインを造るよりも、ビールを大量に生産する方が儲かったからである。何と言っても、アインベックから連れてきた醸造技師のおかげで、高品質のビールを作ることができるようになっていたことが大きかった。

こうしてバイエルン地方は高品質ビールの一大生産地となり、その首都ミュンヘンビールの都と呼ばれるようになったのである。ちなみに、現代でもバイエルンの人々は他の地域の人に比べて2倍以上のビールを消費していると言われている。