3・4 中世盛期のヨーロッパと食
進化する中世ヨーロッパ社会-中世盛期のヨーロッパと食(1)
今回から中世盛期のヨーロッパの食について見て行きます。ヨーロッパの中世盛期とは、11世紀から13世紀頃までの期間を指します。この時期には停滞していたヨーロッパ社会が一転して繁栄・拡大へと向かいます。そして、現在のヨーロッパにつながる姿へと変容していくのです。この変化の根底にあったのが農業生産性の向上です。
今回はこのような変化の概要について見て行きましょう。
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中世前期にはゲルマン民族の大移動による社会の混乱や、イスラム勢力の侵攻、ヨーロッパ沿岸部へのヴァイキングの移住、マジャール人のパンノニアへの移動など、たくさんの危機がヨーロッパに訪れた。しかし、西暦1000年頃までに異民族の撃退や同化に成功した結果、ヨーロッパは「中世盛期」の名にふさわしい発展の時期を迎えることになる。そして、農村や都市では現在のヨーロッパの姿につながる社会が形成されて行った。
その基盤となったのが地方の小権力者(小領主)の成長だ。王権争いや外部からの他民族の侵入によって衰退した中央権力に代わって、地方の小領主が地域の防衛と治安維持を担うようになった。この小領主はいわゆる「騎士」と呼ばれる人たちのことだ。
彼らは有力な領主(大貴族)や王族に家臣として仕える小貴族であったが、両者の関係は契約によって取り決められた緩やかな主従関係だった。例えば、契約に無い状況では騎士は主君を助けないし、契約が終わるたびに主君を変える騎士もいた。このような支配形態を中世ヨーロッパの「封建制」と呼ぶ。
騎士は幼いころから武術の鍛錬を行ってきた戦闘のプロだった。下の写真のように甲冑を身に付けて馬に乗り、槍や剣を使って戦うのが騎士の典型的な戦闘スタイルで、現代のヨーロッパでは催し物などでその姿を見ることができる。
中世の棋士の装束(PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像)
騎士たちは10世紀後半くらいから、堀を周囲にめぐらせた土塁の上に木や岩などで作った簡単な城砦を建設するようになった。そして戦時にはこの城砦に立てこもった。最初は城砦の内部には椅子程度の家具しかなかったが、次第に居住性が高くなり住居を兼ねるようになった。
騎士の領地は「荘園」と呼ばれ、中では農民(農奴とも呼ばれる)が農作業をするとともに、様々な労働を行っていた。荘園は半径が5~8キロ程度のもので、領地内でトラブルが起きても馬に乗ればすぐに対応が可能だった。なお、有力な領主は広大な領地の中に複数の城砦を持ち、部下を各城砦の城代としていた。
中世前期の荘園は「古典荘園」と呼ばれ、領主が直接経営する直営地と農奴の保有地、そして共有地からなっていた。農奴は地代として、穀物、ぶどう酒、家畜など生産物を納めると同時に賦役(労働)を行う必要があった。このほかに、教会に対する税も納めなければならなかった。
しかし、この頃の農耕は生産性が低く、まいた種の2倍ほどの収穫量しか得られなかった。このため農奴の生活は苦しく、領主も農奴から食糧を無理に奪い取ることができない状況だった。荘園内で作られた農産物のほぼすべてが荘園内で消費されていた。
それが11世紀頃から農業生産力が急激に上昇した結果、農奴の生活レベルは向上し、領主の経済的な基盤も強固になった。そして、古典荘園は「純粋荘園(地代荘園)」と呼ばれる形態に変化した。これは領主が直営地を放棄して農民に貸し出し、地代だけを納めさせる形態である。その結果、農奴の自由度が増え、穀物だけでなく商品作物の栽培が盛んになった。
荘園の発展によって生じた余剰な農作物は荘園を出て市場に出回るようになり、経済も回り出した。そして、たくさんの商人が誕生する。
商人たちは荘園内にいた手工業者などとともに「中世都市」と呼ばれる街を造った。この都市は周囲が城壁で囲まれていて、人々は城門から出入りした。都市の中心には教会と役所があり、独自の法律によって自治的に統治されていた。このような中世都市は、商工業や宗教、そして政治の中心として発展していく。
当初は、中世都市の交易の範囲は近隣の都市や荘園に限られていたが、十字軍などの影響で遠方への輸送路が開かれると、遠隔地との交易が盛んとなった。そして、交易によって莫大な富を築く都市が出現する。そのうちの一つがイタリアのヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの海港都市であり、また、ロンドン・パリ・ミュンヘン・ハンブルグ・ミラノ・フィレンツェなどの内陸部の都市も交易によって大いに栄えた。
これらの都市は現在でもヨーロッパの主要都市として継続していることから、中世盛期がヨーロッパ社会を形成する上でとても重要な時代であったことがよく分かる。