食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

進化する中世ヨーロッパ社会-中世盛期のヨーロッパと食(1)

2020-11-18 23:12:34 | 第三章 中世の食の革命
3・4 中世盛期のヨーロッパと食
進化する中世ヨーロッパ社会-中世盛期のヨーロッパと食(1)
今回から中世盛期のヨーロッパの食について見て行きます。ヨーロッパの中世盛期とは、11世紀から13世紀頃までの期間を指します。この時期には停滞していたヨーロッパ社会が一転して繁栄・拡大へと向かいます。そして、現在のヨーロッパにつながる姿へと変容していくのです。この変化の根底にあったのが農業生産性の向上です。

今回はこのような変化の概要について見て行きましょう。

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中世前期にはゲルマン民族の大移動による社会の混乱や、イスラム勢力の侵攻、ヨーロッパ沿岸部へのヴァイキングの移住、マジャール人のパンノニアへの移動など、たくさんの危機がヨーロッパに訪れた。しかし、西暦1000年頃までに異民族の撃退や同化に成功した結果、ヨーロッパは「中世盛期」の名にふさわしい発展の時期を迎えることになる。そして、農村や都市では現在のヨーロッパの姿につながる社会が形成されて行った。

その基盤となったのが地方の小権力者(小領主)の成長だ。王権争いや外部からの他民族の侵入によって衰退した中央権力に代わって、地方の小領主が地域の防衛と治安維持を担うようになった。この小領主はいわゆる「騎士」と呼ばれる人たちのことだ。

彼らは有力な領主(大貴族)や王族に家臣として仕える小貴族であったが、両者の関係は契約によって取り決められた緩やかな主従関係だった。例えば、契約に無い状況では騎士は主君を助けないし、契約が終わるたびに主君を変える騎士もいた。このような支配形態を中世ヨーロッパの「封建制」と呼ぶ。

騎士は幼いころから武術の鍛錬を行ってきた戦闘のプロだった。下の写真のように甲冑を身に付けて馬に乗り、槍や剣を使って戦うのが騎士の典型的な戦闘スタイルで、現代のヨーロッパでは催し物などでその姿を見ることができる。


中世の棋士の装束(PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像)

騎士たちは10世紀後半くらいから、堀を周囲にめぐらせた土塁の上に木や岩などで作った簡単な城砦を建設するようになった。そして戦時にはこの城砦に立てこもった。最初は城砦の内部には椅子程度の家具しかなかったが、次第に居住性が高くなり住居を兼ねるようになった。

騎士の領地は「荘園」と呼ばれ、中では農民(農奴とも呼ばれる)が農作業をするとともに、様々な労働を行っていた。荘園は半径が5~8キロ程度のもので、領地内でトラブルが起きても馬に乗ればすぐに対応が可能だった。なお、有力な領主は広大な領地の中に複数の城砦を持ち、部下を各城砦の城代としていた。

中世前期の荘園は「古典荘園」と呼ばれ、領主が直接経営する直営地と農奴の保有地、そして共有地からなっていた。農奴は地代として、穀物、ぶどう酒、家畜など生産物を納めると同時に賦役(労働)を行う必要があった。このほかに、教会に対する税も納めなければならなかった。

しかし、この頃の農耕は生産性が低く、まいた種の2倍ほどの収穫量しか得られなかった。このため農奴の生活は苦しく、領主も農奴から食糧を無理に奪い取ることができない状況だった。荘園内で作られた農産物のほぼすべてが荘園内で消費されていた。

それが11世紀頃から農業生産力が急激に上昇した結果、農奴の生活レベルは向上し、領主の経済的な基盤も強固になった。そして、古典荘園は「純粋荘園(地代荘園)」と呼ばれる形態に変化した。これは領主が直営地を放棄して農民に貸し出し、地代だけを納めさせる形態である。その結果、農奴の自由度が増え、穀物だけでなく商品作物の栽培が盛んになった。

荘園の発展によって生じた余剰な農作物は荘園を出て市場に出回るようになり、経済も回り出した。そして、たくさんの商人が誕生する。

商人たちは荘園内にいた手工業者などとともに「中世都市」と呼ばれる街を造った。この都市は周囲が城壁で囲まれていて、人々は城門から出入りした。都市の中心には教会と役所があり、独自の法律によって自治的に統治されていた。このような中世都市は、商工業や宗教、そして政治の中心として発展していく。

当初は、中世都市の交易の範囲は近隣の都市や荘園に限られていたが、十字軍などの影響で遠方への輸送路が開かれると、遠隔地との交易が盛んとなった。そして、交易によって莫大な富を築く都市が出現する。そのうちの一つがイタリアのヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの海港都市であり、また、ロンドン・パリ・ミュンヘン・ハンブルグ・ミラノ・フィレンツェなどの内陸部の都市も交易によって大いに栄えた。

これらの都市は現在でもヨーロッパの主要都市として継続していることから、中世盛期がヨーロッパ社会を形成する上でとても重要な時代であったことがよく分かる。

ハンガリーとマジャール人-中世ヨーロッパのはじまりと食(10)

2020-11-16 20:32:46 | 第三章 中世の食の革命
ハンガリーとマジャール人-中世ヨーロッパのはじまりと食(10)
中世のハンガリーは高校の世界史では詳しく取り上げられない国の一つです。その理由の一つが、ハンガリー人の起源が他のヨーロッパの国々とは異なっているからではないかと私は思っています。

しかし「貴腐ワイン」の発祥の地であるなど、食の世界では重要な国の一つです。そこで、ヨーロッパ中世前期シリーズの最後となる今回は、ハンガリーを取り上げます。

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ハンガリーの人々は自国のことをハンガリーとは呼ばずに「マジャール人の国(Magyarorszag)」と呼ぶ。中世にハンガリーに移動してきて、それ以降ここを居住地にしているのがマジャール人だからだ。「ハンガリー(Hungary)」は英国を始めとする他の国々の呼び方にすぎない。

マジャール人はウラル山脈南西部を原住地とする遊牧民族で、夏はヒツジやヤギ、ウシ、ウマを放牧し、秋から春にかけて秋播きの穀物などを栽培する生活を送っていたと考えられている。

彼らは定住を行わずに良い土地を求めて小規模な移動を繰り返していたが、9世紀頃になると東ヨーロッパに向けて集団で大規模な移動を始めた。そして、ビザンツ帝国の北部領域に到達すると軍事行動を開始するようになる。

そこではビザンツ帝国と結んでブルガリアを攻撃するなどしたが、ブルガリアの反撃に会い、さらに西に移動した。そして、パンノニアと呼ばれた現在のハンガリーの地に到達する。

パンノニアは水が豊富で土壌も肥えており農産物の生産性が高かった。また広大な森林もあって、木材資源にも恵まれていた。このため、ローマ帝国やフン族、ゲルマン民族などによって相次いで支配されていた。マジャール人はこのパンノニアに進入し、9世紀の終わり頃に新しい支配者となった。そして、ヨーロッパ各地への侵攻を行った。



マジャール人は10世紀になるとさらに西進して東フランク王国と衝突するが、その戦いに敗れたためパンノニアに戻り、それ以降はこの地に定住するようになった。

定住を始めたマジャール人はヨーロッパに同化するためにキリスト教に改宗し、1000年にはローマ教皇から王冠を授けられ「ハンガリー王国(マジャール王国)」を建国した。その後、ハンガリーは豊かな土地を背景に、次第に東ヨーロッパの大国となって行く。

ところで、マジャール人とウラル山脈からパンノニアへの移動をともにした「コモンドール」というイヌがいる。このイヌは歩くモップと呼ばれるほど被毛が発達していて、これがオオカミなどの牙から身を護るヨロイとなっているため、護畜犬として活躍してきた。現在でもハンガリーではヒツジを守るために頑張っているらしい。


コモンドール(Jakob StraußによるPixabayからの画像)

さて、ここでマジャール人の食に関する話をあげておこう。

マジャール人は遊牧民で常に移動していたので、それに適した調理道具を常備していた。それが大きな鍋である。鉄製の鍋に肉とタマネギやそれ以外の野菜、そしてラードなどを入れて焚火にかける。弱火でコトコト煮るとシチューになるし、野菜を増やしたり水を加えたりするとスープになる。これがハンガリー料理で定番の「グヤーシュ」だ。簡単に作れるし、必ず美味しくできる料理だ。なお、食べきれなかったグヤーシュは乾燥させて、ヒツジの胃で作った袋に入れて持ち運び、後で食べたという。


グヤーシュ(Kobako, CC BY-SA 2.5 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5>, via Wikimedia Commons)

パンノニアの主要な作物はオオムギとライムギで、ゲルマン民族が支配していたころはオオムギからビールがよく造られていた。それがマジャール人の国となってキリスト教が定着して行くと次第にブドウの生産が盛んになり、ワインが大量に造られるようになる。そして、ハンガリーは東ヨーロッパの一大ワイン産地へと成長して行くのだ。

このような背景のもとで1650年頃に極甘口の「貴腐ワイン」がこの地で誕生するのだが、その話はするのはもう少し先のことになる。

ヴァイキングとエリザベス女王と北の食べ物-中世ヨーロッパのはじまりと食(9)

2020-11-14 19:31:08 | 第三章 中世の食の革命
ヴァイキングとエリザベス女王と北の食べ物-中世ヨーロッパのはじまりと食(9)
今回はヴァイキングの話です。ヴァイキングとは北方系ゲルマン民族の一つのノルマン人の別称で、ヴィーク(入り江)に住む人を意味すると言われています。

ヴァイキングと聞いて思い浮かぶものとしては「海賊」と「料理」が多いかと思いますが、料理のヴァイキングは日本だけで使われている言葉です。1958年にオープンした東京・帝国ホテル内のレストランが、映画『ヴァイキング』で船の上の食べ放題のシーンからヒントを得てこの名前を使用したということです。


(Gary ChambersによるPixabayからの画像)

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ヨーロッパでは9世紀になると第二のゲルマン民族の移動が始まった。北方にいたノルマン人がヨーロッパ各地への移動を開始したのである。彼らはイギリスやフランスなど西ヨーロッパ各地に進出し、交易とともに時には海賊行為を行った。そして一部はイギリスやフランスなどに定住するようになった。

ノルマン人は最初のゲルマン民族の大移動の時には移動を行わずに、もともと住んでいたノルウェーなどのスカンディナビア半島やデンマークなどにとどまっていた。この地域には氷河による浸食作用によって作られたフィヨルドと呼ばれる複雑な形をした湾や入り江が多く存在する。この海域でうまく生き抜いていくために、ノルマン人は造船技術や操船技術を身に付けて行った。そして、巧みな航海術を用いて他の地域との交易を行うようになる。農耕・牧畜・漁業もノルマン人の重要な生産活動だったが、次第に交易が生活を支えるようになって行った。

ノルマン人の海外進出は9世紀頃から急激に活発化するが、その要因には8世紀頃から始まる温暖化によって食料生産量が増え、ノルマン人の人口が増えたことがあるという説が有力だ。地域内に収まり切れなくなった人たちがあふれ出たということだろう。

ちょうどこの頃は、カール大帝の死後フランク王国が分裂した時期で(843年に西・中部・東に分裂し、870年に現在のフランス・イタリア・ドイツに近い形になる)国力が低下しており、ノルマン人の侵入を退けることはできなかったと言われている。また、ノルマン人は進んだ技術を持ったイスラム勢力とも交易などによって交流しており、西ヨーロッパの人々に対して軍事力でも優れていたと考えられている。

ノルマン人の一部はフランス北部のノルマンディーに定住し、911年にフランス王からノルマンディー公国として認められた。また、イングランドでは1016年にデンマーク王がデーン朝を建て、さらに1066年にはノルマンディー公ウィリアム(1027~1087年)がノルマン朝を成立させた。ウィリアムはイングランド王ウィリアム1世として即位した。その後のイングランドの王はすべてウィリアム1世の子孫となっている(現女王のエリザベス2世はウィリアムの27世の孫であり、ヴァイキングの子孫と言える)。



なお、ウィリアム1世はノルマンディーではフランス王の臣下という立場にあり、イングランドとフランスに広大な領地を有することになるが、これがジャンヌ・ダルクが活躍する英仏間の100年戦争(1337~1453年)の原因となる。

ノルマン人はイングランド・フランス以外に、シチリア島を含む南イタリア各地への侵攻や、ロシア方面、そしてアイスランドや北アメリカへの植民を試みたと言われている(カナダのニューファンドランド島北西端で、1000年前のノルマン人のものと考えられる住居跡が発見されている)。コロンブスがアメリカ大陸を発見する500年も前のことになる。

以上のようなノルマン人の移動は、その後の西ヨーロッパ社会の形成に大きく影響することになるが、それについては今後見て行く予定だ。

ここで、ノルマン人(ヴァイキング)の食べ物について見て行こう。

ヴァイキングが主に食べた穀物はライムギとオオムギだった。これは、ライムギやオオムギはコムギが育たない寒冷な気候や痩せた土壌などで育つためと考えられる。それ以外に、エンバクやキビなども栽培されていた。

このような穀物は粉にされて平たいパンになった。甘味料としてハチミツが塗られて食べられることもあったようだ。また、穀物はお粥にして食べることも多かったようだ。味付けのために野生のベリーやリンゴが入れたりした。

オオムギからはビールが造られ、ハチミツからはミード(蜂蜜酒)が造られた。この頃の水は消毒されておらず生のまま飲むことができなかったため、アルコール度数の低いビールも作られて子供を含めたすべての人が飲んでいたという。大人が酔いたい時にはもちろん、強いビールやミードを飲んだ。なお、ミードには神聖な力があり、不死や知恵を授けると考えられていたそうだ。

ところで、ヴァイキングというとウシの角で酒を飲んでいるイメージがあるが、これは事実だったらしい。11世紀頃まではこうしてビールを飲んでいたという。その後は住みついたヨーロッパ大陸の影響によって木製の容器に変化した。

ヴァイキングが一番よく食べた肉は豚肉だった。彼らは、ウシ、ウマ、ヒツジ、ヤギ、ブタなどの家畜を飼っていたが、中でもブタは肉をとるために大量に飼われていたようだ。それ以外には、ニワトリやガチョウなども飼育していた。また、狩で獲れるアザラシは貴重な脂肪の供給源で、血液、肉、脂肪などあらゆる部分を口にしたという。寒い地域では体に脂肪つける必要があるためだ。なお、ウシの角のように、家畜の骨・角・皮は針やスプーン、容器や、衣服を作るために最大限に活用された。

野菜や果実は野生のものが食べられていた。森でラズベリー、ビルベリー、プラム、リンゴ、ヘーゼルナッツなどを手に入れることができた。特にリンゴは健康に良いと考えられており、北欧神話では女神イズンが護る黄金のリンゴを食べ続けると不老不死になると言われていた。

また、北欧では肉料理などに使用する野生のハーブが豊富だった。現代でも北欧のハーブとして有名なディル、ジュニパー、キャラウェイや、マスタードシード、ニンニク、西洋わさび、コリアンダー、ミント、タイムなどが採集されていた。

なお、ヨーロッパ各地に移住したノルマン人はその地の文化に同化することで新しい食文化を作って行くことになる。

ビザンツ帝国の食べ物-中世ヨーロッパのはじまりと食(8)

2020-11-12 23:13:46 | 第三章 中世の食の革命
ビザンツ帝国の食べ物-中世ヨーロッパのはじまりと食(8)
今回はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の食べ物について見て行きたいと思います。
ローマ帝国を引き継いだことから、ビザンツ帝国の食はローマ帝国の食の延長線上にあります。しかし、キリスト教の影響などによって新しい要素が加わって行きます。

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同時代の多くの場所と同じように、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)でもコムギやライムギ、エンバクなどの穀物は最も重要な食べ物だった。これらの穀物からパンが焼かれたが、金持ちは小麦粉から作られた白パンを食べ、お金がない人はエンバクやエンドウ豆、アザミなどの粉で作ったパンを食べた。中でも酵母を使って発酵させた白パンはふっくらとしていて最高級品だったそうだ。

穀物の粉からはビスケットのようなものも作られていた。これは2度ほど焼いて十分に水分を飛ばした堅いパンで、長期保存ができるためビザンツ軍の携帯食となっていた。ただし、食べる時にはスープなどの液体にひたして柔らかくする必要があったそうだ。

また、ビザンツ帝国ではさまざまなお粥も食べられていた。 現代でもギリシア料理の一つとして食べられているトラチャナスという料理は、ひびの入った挽き割り小麦を酸味のきいたサワーミルクやヨーグルトで煮たものだ。これにハルーミーあるいはフェタというギリシア地方特産のチーズを乗せて食べる。このチーズは塩味がきいているため、トラチャナスは酸味と塩味の絶妙な風味があるそうだ(残念ながら私は食べたことがありません)。

ビザンツ帝国では、ブタ、ヤギ、ヒツジ、ウシなどの家畜や、シカや野ウサギなどのさまざまな肉が食べられていた。特に、乳離れしていない子供の動物の肉に人気があったようだ。

肉は鉄板で焼かれたり、あぶり焼きにされて食べられた。また、揚げ物や蒸されることもあったそうだ。調味料には、塩や酢、コショウのほかにローマ帝国と同じように魚醤のガルムが使用されていた。ちなみに、ローマ人に代わってゲルマン民族が支配した西ヨーロッパではガルムは廃れてしまう。

豚肉はひき肉にされてソーセージに加工されることも多かった。ただし、血液を使ったブラッドソーセージを食べることはギリシア正教会によって禁止されていたという。

このブラッドソーセージのように、ビザンツ帝国ではギリシア正教の教えによって食べてはいけないものが決められていた。また、一月以上にわたる長くて厳しい断食の期間があった。この期間中は、肉、魚、卵、バターなどの乳製品、油(オリーブオイル)やワインを口にしてはいけなかった(ただし、日曜日などの儀式ではオリーブオイルとワインは許される)。断食期間中は夜になると、これら以外の食べ物や飲み物を摂ることが許された。

なお、ローマ・カトリックでも当時は長期間の厳しい断食を行っていたが、時代とともに緩やかになった。一方、ギリシア正教では現在でも昔と同様の断食を行っているという。

さて、断食中に食べてはいけないものに魚があるが、その理由は魚には赤い血液があるからだ。一方、同じ海の生き物である貝やイカ・タコ・エビ・カニなどには赤い血はない。このため断食中でもこれらのシーフードを食べることができた。その結果、ビザンツ帝国ではシーフードの料理が発達したという。現代のギリシアでも、タコやイカ、貝類の消費量が多い。


(Mikele DesignerによるPixabayからの画像)

ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは海に面していたので、断食中で無ければ魚をよく食べていた。当時の記録には、マグロ、タラ、マス、チョウザメ、サーモン、カワカマス、カレイなどの名がある。魚は焼いたり、揚げたり、シチューに入れたりして食べられていた。

ビザンツ帝国では野菜もたくさん食べられた。ギリシア料理の特徴はたくさんの種類の野菜を使うことだが、その理由は野菜が断食の対象でなかったことだ。なお、現代のギリシア料理ではトマトやジャガイモをよく使うが、これらは新大陸(アメリカ大陸)の野菜であるためビザンツ帝国の時代には存在しなかった。トマトやジャガイモがヨーロッパで食べられるようになるのは18世紀以降のことだ。

ビザンツ帝国の歴史②-中世ヨーロッパのはじまりと食(8)

2020-11-10 22:14:37 | 第三章 中世の食の革命
ビザンツ帝国の歴史②-中世ヨーロッパのはじまりと食(8)
今回はイスラムと戦った後のビザンツ帝国について、農業と交易を見て行きます。ポイントは農民の力と絹織物です。

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717年にイスラム勢力の侵攻を何とか食い止めたビザンツ帝国は、11世紀の初め頃まで発展期を迎える。その要因は、皇帝の専制君主制を優秀な官僚たちがうまく支えたこととされている。その頃のビザンツ帝国では教育制度がしっかり構築されており、優秀な人材を育てて官僚として登用する道筋が整っていたのである。

ビザンツ帝国がとった政策の一つが、生産性の高い自営農家を生み出すことであった。農村では以前は地主が力を持っていて、小作人は地主と国に多額の税を納める必要があった。ところが、イスラムとの戦いによって国家体制が危機的状況になり、都市部に住んでいた地主たちも大きな打撃を受けて没落した。そこで、農民に土地を与える代わりに税を納めさせ、また戦争が起こると自前で武器を用意させて兵士として戦わせたのだ。いわゆる「屯田兵(とんでんへい)」である。このように農民の自主性を重視した方策は成功し、農民はビザンツ帝国を支える大きな力になった。

農民は農村ではそれぞれの土地を家族単位で耕作したが、時には村人同士が共同して村内の整備などを行うこともあった。また、病気などで作業ができない人が出た場合は他の村人が助けたという。これは、その頃のビザンツ帝国の徴税が村単位であったためだ。もし耕作できない人が出た場合には、他の村人がその人が払うはずだった税を負担しなければならなかったのだ。このため、少しでも収穫があった方が良かったのである。この連帯責任を負わせた徴税法は国の財政を回復させた。きっと優秀な官僚が考えたものだったのだろう。

次に、ビザンツ帝国の交易について見て行こう。

かつてのローマ帝国は地中海を舞台にした東西貿易で繁栄した。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)や西ヨーロッパでも当初は交易がそれまで通りに行われていた。この交易ではギリシア商人などが東方から香辛料や絹、陶器、貴金属などを運んできた。そしてビザンツ帝国や西ヨーロッパの人々はその代金を金で支払った。ヨーロッパにはまだまだ金があったのである。

また、交易には関税がつきものだが、商人から徴収する税がビザンツ帝国やゲルマン民族の国家の重要な財源となっていた。

ところが、7世紀になってイスラムが地中海に進出してくると、ビザンツ帝国の支配域は地中海北岸の東側だけになってしまう。地中海のほとんどをイスラムが支配するようになったのだ。その結果、地中海北岸頭部への物資の輸入が滞るようになり、ビザンツ帝国の交易も下火になってしまった。

ただし、絹織物だけは別だった。ビザンツ帝国には優れた工芸品を生み出す高い技術があり、中でも絹織物は各国の王侯貴族や教会がこぞって欲しがる品だった(下図参照)。イスラムが地中海を支配するようになっても、この絹織物の貿易は継続したのだ。


アルビュインの祭服(山中良子『ビザンティン中期の錦』地中海学会月報331より)

養蚕が始まったのは中国で、殷の時代(紀元前1500年頃から紀元前1046年)の遺跡から絹布の切れ端や蚕・桑・糸・帛などの文字の跡が見つかっていることから、養蚕は既にこの時代には盛んに行われていたと考えられている。しなやかで美しい光沢のある絹織物は多くの人を魅了し、古くから他民族を従わせる戦略品として使用されていた。「シルクロード(絹の道)」という言葉が生まれたことからも、絹がとても重要だったことが分かる。

中国王朝はカイコの国外持ち出しを禁止していたが(持ち出すと死刑になったと言われる)、550年頃に中国でキリスト教を布教していた2人の伝道僧が、ビザンツ帝国皇帝のユスティニアヌス(在位:527~565年)の命によって密かにカイコとエサとなる桑を持ち出し、2年の年月をかけてビザンツ帝国まで運んできたのだ。

こうして自前で絹糸を生産することができるようになって、ビザンツ帝国の絹織物の技術は飛躍的に向上した。そしてビザンツ帝国はヨーロッパの絹織物を独占するようになる。ビザンツ帝国も中国王朝と同じように絹織物を戦略物資として扱った。つまり、外交交渉の武器として絹織物を利用したのである。

なお、8世紀頃から、ヴェネツィアなどの海洋都市国家がヨーロッパと中東を結ぶ地中海貿易を次第に独占するようになる。彼らは香辛料などを東方からヨーロッパに運び、莫大な富を築いていくのである(海洋都市国家の話については別の機会に紹介します)。