食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代都市の形成ー四大文明の食の革命

2020-04-23 09:32:12 | 第二章 古代文明の食の革命
古代都市の形成
大河のほとりの新生活では、肥沃な土壌で潅漑を行うことによって生産力を増大させることに成功した。しかし一方で水路や農地の管理・維持のために多くの人力が必要になった。そのために周辺の地域の人々を呼び込み、定住してもらうような働きかけが行われたと考えられる。その結果、人口が急増したと考えられる。この人口増加には、人々の密集化にともなう出生率の増加も関係していると推測される。

それでは、この人口増加はどのような影響を及ぼしたのだろうか。身近な例で考えてみよう。

現代社会で一人暮らしをしていると、食事の準備と後片付け、掃除、洗濯など日常生活の様々な作業を自分一人でこなさなければいけない。ところが、結婚して夫婦二人の共同生活を始めると家事を分担するようになる。この役割分担が家事の効率化に重要だ。例えば、一方が食事の準備を担当した場合、二人分の料理を作る労力は一人の時の二倍ではなく、ずっと少ない。また、一方が食事を作っている間に、もう一方は掃除や洗濯などの別の作業を行うことができる。このように人が増えると、一人で行っていた作業を集約させ数人に分割することで効率化できるのだ。その結果、余暇が増えて生活に余裕が生まれる。大河の流域で増加した人々の中でもこのような「分業」を行うことにより、効率化を進めたと考えられる。

さらに、このような分業化により集団社会の技術は大きく発展する。なぜなら、それぞれの作業の担当者は専門の仕事を日々繰返すことで次第に熟練度が増すだろうし、新しい技術を生み出す努力もする。こうして、特定の仕事を専門とする多数の集団が生まれ定着することで、技術は高度化し社会は複雑化したと考えられるのだ。
このように世の中が高度化し複雑になってくると、いろいろな情報を整理して保存する必要に迫られる。そこで、物事の状態を表す絵文字を用いた記録が始まったと考えられる。やがて一つの文字が一つの語に対応する象形文字が生み出されることによって、より複雑な記録が可能になった。四大文明で発明された文字はこのような象形文字だ。

また、分業化が進んだために人々が生活必要品を売買する必要が出てくる。このために貨幣制度が整った。

さらに、多数の人々が生活する土地では、集団生活の秩序を維持するための役所や警察・裁判所にあたる組織も必要になってくる。当然、灌漑農業を行うための組織は最も大切だ。また、食料の生産が増えると、外部からの略奪者や侵略者に対抗するための軍隊も必要になるだろう。次第に、以上のような組織を統括する政府のようなものが作られるようになり、そのリーダーたちが王や貴族などの支配者層になったのではないだろうか。

また、これらの支配者たちによって計画的な街づくりが進められたと考えられる。つまり、効率的な生活のためには、食料や生活用品の貯蔵を行うための専用の施設やそれらを運搬するための道路が必要になる。また、飲み水などための上水の設備や生活排水のための下水の設備が作られただろう。

このようにして都市化が進んで行ったと考えられる。

畜力の利用ー四大文明の食の革命

2020-04-22 08:11:19 | 第二章 古代文明の食の革命
畜力の利用
古代文明で農作物の生産量を増大させたもう一つの技術が、動物の力を借りた農耕だ。家畜の大きな力を利用することで、人力だけの時よりも農地を深く広く耕せるようになり、作物の生産性が著しく増大した。このため、畜力の利用を潅漑農法とともに食料生産の大革命と呼んでも良い。

農耕や耕作という言葉には「耕」という文字が入っているように、作物を栽培する時に最初に行うのが「耕す」という作業だ。つまり、土を掘り起こして反転させることで土壌を柔らかくし、作物を育てやすくするのだ。耕された土壌では作物の根が自由に伸びる。そうすると、根が水と栄養素を吸収しやすくなって良く生育するようになる。

また、雑草を除去したり、枯れ草をすきこんで腐植を増やしたり、土に酸素を含ませることで有機物の分解を促進させて栄養分を増やす効果も期待できる。

人力で農地を耕すのには大変な労力が必要だ。そこで、現代の日本では耕運機やトラクターが使用されている。ちなみに耕運機とは人が後ろについて動かすもので、トラクターは人が乗るタイプのものだ。これらが一般的に使用されるようになったのは第二次世界大戦以降のことで、それ以前はウシやウマの力を借りていた。このように耕作に家畜の利用を始めたのは古代文明からであり、何と5000年もの長い間、人類は家畜の助けを借りて農耕を行って来た。

ところで、人力で土を耕すにも家畜の力を借りて耕すにも、道具(農具)がいる。この農具の発達こそが、家畜の力を効率的に利用できるようになった理由だ。

農耕が始まった頃は、「掘棒」と「鍬(くわ)」という農具が使われていた。堀棒とは、棒の先端をとがらせたりシャベル状にしたりして、土を掘り起こしやすくしたものだ。鍬は日本でもなじみのある農具で、柄の先に角度をつけた刃がついたもので、振り下ろして使う。

一方、「すき」という土壌を耕す農具がある。すきのうち、人が使うものには「鋤」という漢字を使い、ウシやウマなどの家畜が引いて使うものには「犂」という漢字を使う。なお、西洋の犂を「プラウ」と呼び、東洋の犂と区別することがあるが基本的には同じものだ。

この犂(プラウ)が登場したことによって、家畜の力を効率的に利用することができるようになった。最初期の犂(プラウ)の先は木製の棒で、引きずって表土を引っ掻くように使われた。棒の先が通った土壌の表面が砕かれ、そこに作物を植える事ができた。

家畜を農耕に初めて利用したのは紀元前3500年頃の古代メソポタミア文明(シュメール文明)だ。当時は、プラウを二頭のウシに引かせていた。古代エジプトでは紀元前2500年頃に、同じようなプラウが使用されていた記録が残っている。同型のプラウは、インダス文明においても使用されていたと考えられている。

このような木製のプラウはヨーロッパにも伝えられた。そして古代ギリシアにおいては、プラウの先は青銅や鉄で作られるようになり、耕す能力が格段に向上した。
一方、中国における犂は西アジアとは異なっており、少し複雑な構造をしている。このタイプの犂は紀元前500年頃から使用されたと考えられている。

灌漑農法ー四大文明の食の革命

2020-04-21 08:28:35 | 第二章 古代文明の食の革命
灌漑農法
乾燥した平原で農耕を始めた人々は、水を雨に頼っていた天水農法に比べて、自らの手で毎日水やりをした方が農作物は良く育つことに気がついたはずだ。しかし、水を川から運ぶのは大変だ。特に農地までの距離が長くなると大変な重労働になる。これでは、多くの人口を養うだけの広い農地を作ることはできない。

そこで古代人は画期的な方法を開発した。それが、水路やため池、井戸を農地の近くに作ることで水を利用しやすくした「灌漑(かんがい)農法」だ。

水路は川の近くに作った方が労力は少なくて済む。また、氾濫しやすい川の近くでは、ため池も作りやすい。井戸の水も川の近くの方が出やすい。そこで、農地の近くまで水路が引かれ、ため池が作られ井戸が掘られた。

メソポタミア平原には紀元前5500年頃から堤防と用水路、貯水池が作られ、灌漑農業が始まったと考えられている。チグリス・ユーフラテス川の水位は、水源となる山岳地帯からの雪解け水によって春にピークを迎えるが、この水を貯水池まで導き、大量の水分を必要とする夏まで蓄えたのだ。

エジプトの灌漑は定期的に起こるナイル川の氾濫を利用したものだった。ナイル川下流域では水位が7月からゆっくり増え始め、9月にはゆるやかな氾濫を起こした。この氾濫は11月まで続いた。灌漑には複雑な水路は必要なく、堤防に穴をあけて目的の地域に水を引き入れるだけで良かった。そして、水がひいた後には肥沃な土壌が残された。秋頃ここにムギ類の種をまき、初夏に収穫を行った。このような洪水を利用した灌漑農法が紀元前3500年までに始まった。

一方、インダス川流域では、紀元前9000年頃に農耕と牧畜が開始されたと考えられている。やがて、紀元前3000年頃にインダス川流域の肥沃な平原で水路の開発が進み、灌漑農法をともなったインダス文明が作られて行く。

また、中国の黄河流城では、紀元前6000年頃までにアワなどの雑穀の栽培が始まっていた。この地域での灌漑は、主に井戸を掘ることで行われた。同じ頃、長江流域ではイネの栽培が開始されていた。これらの流域でも遅くとも紀元前4000年頃までに、水路を巡らせた灌漑農法による水稲栽培が始まったと考えられている。

新天地は乾燥地帯ー四大文明の食の革命

2020-04-20 09:39:47 | 第二章 古代文明の食の革命
新天地は乾燥地帯
四大文明が生まれるためには、土壌以外にも重要な要件があった。それは、四大文明が誕生したチグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、そして黄河の流域のいずれもが「乾燥地帯」であったということだ。

当時も今もそれほど気候が変わっていないと考えられている。そこで、現在の年間降水量を見てみよう。すると、チグリス・ユーフラテス川流域のバクダッドは約150㎜、ナイル川流域のカイロは約30㎜、インダス川流域のジャコババード約100㎜、黄河流域の西安は約500㎜となる。ちなみに、東京の年間降水量は約1500㎜で、四大文明の発祥地の降水量がとても少ないことは明らかだ。

この極端に少ない降水量が食料の大量生産にとても重要だったと考えられるのだ。
どういうことだろうか。

雨が降らないということは、つまり晴れる日が多いということだ。植物が行う光合成には太陽光が必要なため、晴れ間が多い方が植物は育ちやすい。また、太陽光で気温が高くなるのも作物を育てるのに好都合だ。日本でも昔から「日照りに不作なし」と言われ、よほどの水不足が起こらない限り不作にはならない。逆に、日照不足で米や野菜などの作物の出来が悪くなることが時々報道されているように、晴れる日が少なくなると不作になる。このように、日照時間は作物の収穫量を決める大きな要因なのだ。

つまり、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、そして黄河流域は乾燥地帯で十分な日照時間があったために、水さえ確保できれば作物の栽培にとても適していたのだ。

ところで、中国の長江流域だけは日本と同じように高温多湿の気候だ。この流域ではイネが良く育つ。イネはとても生産性の高い作物だ。このため、長江流域では高い生産力を獲得できたと考えられている。