中世盛期の農村生活-中世盛期のヨーロッパと食(3)
今回は中世の農業革命によって変化した農村の生活について見て行きます。
農業革命によって農村の生産力が格段に向上すると、その担い手であった農民の社会的な地位も良くなりました。それは領主が農民を自分の領地に集めるための方策でした。領主の立場からすると、働き手がたくさん集まると開墾によって農地を増やすことができるし、得られる税も増えるため、好都合だったからです。
************
中世盛期になって農村での生産性が著しく向上した結果、領主にとって農民は極めて重要な存在となった。そこで、領主は以前よりも農民に対する待遇を改善させた。
もっとも大きかったのが領主のために労働力を提供する賦役労働を廃止したことで、農民は得られた生産物から一定の割合の税を納めるだけで良くなった。また、教会に払う税も廃止された。さらに、それまでは逃亡を防止するために領地の外に出ることが禁じられていたのだが、領地の外に自由に出ることも許されるようになった。その結果、農民の自由が増えて、仕事に対するやりがいも感じられるようになったと推測される。
さらに領主は、農民の集落の近くに教会や水車小屋、パン焼きかまどなどの設備を作って、生活しやすい村づくりを行った。ただし、水車小屋やパン焼きかまどについては使用料を徴収したという。
このように農民への待遇が良くなったことから、以前の「農奴」という呼び方が12世紀頃からは「領民」という呼び方に変化して行った。
次に、農民が生活した家屋について見てみよう。
中世前期までの農民の家屋は、地面に穴を掘って半地下構造にした竪穴式住居だった。こうすると壁を作る必要がないので、家を作る材料を節約することができたのだ。屋根はかやぶきだった。家の中には炉があって、調理と暖房に使われていた。
それが12世紀になると、有力な農民を中心に石造りの壁の家屋が建てられるようになった。また、レンガを積み上げて作った壁や瓦ぶきの屋根も見られるようになった。間取りは寝室と台所の二間の場合が多く、同じ屋根の下に家畜小屋も作られていた。
農民の食事について見てみると、中世前期から引き続いて主食は穀物で作った粥だった。パンが主食なるのは15世紀以降のことである。
タンパク質はソラマメやエンドウマメなどの植物性がほとんどで、動物性はごくわずかだった。一つの家族が1年間に食べた肉は、ブタ一頭とニワトリ数羽程度と言われている。ブタ1頭は多いように思えるかもしれないが、当時のブタは今のブタの1/3から1/4の大きさしかなかった(重さにして30~70㎏)。ブタには体重の半分程度の可食部分があるので、単純計算で一家族は1日100gに満たない豚肉しか食べていなかったことになる。
キャベツ・ニンジン・ビーツ・タマネギ・ニンニクなどの野菜は毎日のように食卓に上ったようだ。特にニンジンの品種は多く、赤紫色のものや黄緑色のものもあった。野菜は生では食べず、シチューなどにして食べた。リンゴやセイヨウナシ、プラム、イチゴなどの果実は好んで食べられたようだ。
魚は海岸や川の近くであれば重要な食べ物だったが、それ以外の地域の庶民はほとんど口にすることはなかった(修道院では池を作って魚を飼育し、断食中の食べ物にしていたという)。
このように農民の食事は豪華とは言えなかったが、1日の食事量は成人男性に必要な3000キロカロリーを満たすぐらいはあったと推定されている。
なお飲料に関しては、水が安全でなかったので、ビールが好んで飲まれた。ワインは庶民には高級で、なかなか口にすることはできなかったようだ。