食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

戦いの時代と食の革命

2021-01-04 20:31:41 | 第三章 中世の食の革命
戦いの時代と食の革命-中世日本の食(2)
前回は平安時代の終わりから鎌倉時代の終わりまでの社会と食の変化について全体像を概観しましたが、今回も室町時代の始まりから戦国時代の終わりまでの全体像を見て行きたいと思います。

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1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は、関白と摂政を廃止するなど新しい政治を目指した。これを建武の新政と呼ぶ。

一方、討幕に参加した御家人たちは足利尊氏による新しい武家政治を望んでいた。この声にこたえる形で尊氏は1336年に新しい天皇(光明天皇)を擁立し、1338年には征夷大将軍に任命された。

ところが、都を脱出した後醍醐天皇は現在の奈良県の吉野に逃れて南朝を建てる。それから50年以上にわたって、朝廷は京都の北朝と吉野の南朝の2つに分かれて対立した。また、各地の武士たちも北朝側と南朝側に分かれて抗争を繰り返した。

このような動乱の中で各地の武士勢力の再編成が進んだとされている。鎌倉時代に地頭に任じられていた武士たちは農民への支配を強めるとともに、近隣の荘園を侵略したり、他の地頭や武士と連携を深めたりすることで力を伸ばして行った。このような在地の領主は「国人」と呼ばれる。

また、守護に任じられていた者も地方での裁判権や年貢の半分を受け取る権利を室町幕府から与えられたことなどを利用して支配力を高め、国人を家臣に迎えるなどして勢力を大きく伸ばした。こうした守護を「守護大名」と呼ぶ。

南北朝に二分されていた体制も次第に北朝が優位となり、1392年の足利義満の時代になって両朝が合体する。そこで義満は守護大名の力を抑え込む政策を進めるとともに、幕府の財政強化に努めた。しかし、義満の死後は、義満に抑えられていた守護大名の勢力が強まった。

また、この頃には農民や商人などの民衆の団結力が強くなり、「一揆」によって幕府などに要求を行うようになった。しかし、幕府はこれらの一揆を抑えることができなかったため、幕府の権威は低下して行った。

このような中で「応仁の乱(1467~1477年)」が起こる。この乱は幕府の要職(管領)についていた畠山氏と斯波氏の家督争いから始まったが、将軍家や有力守護大名を巻き込んだ大乱となり、京都が焼け野原になるだけでなく、それぞれの領国にも争いが拡大することとなった。

乱が終わった後も守護大名間の争いは各地でくすぶり続け、民衆も頻繁に一揆を起こした。さらに家臣が主君を武力で倒す「下剋上」も全国に広まって行った。こうして世の中は「戦国時代」に突入する。

戦国時代には中央権力から独立して国内を独自に支配する「戦国大名」が多く現れた。なお、守護から戦国大名になったのは武田、今川、大友、島津などだけで、ほとんどは下剋上によって成り上がった者たちだった。戦国大名たちは15世紀末から約100年間にわたって戦い続けることになる。

その間の1543年にはポルトガル人によって火縄銃が伝えられた。また、ポルトガルの宣教師によってキリスト教の布教が始まり、南蛮料理や南蛮菓子などのヨーロッパの文化も日本に伝えられた。

そして1573年に足利義昭が織田信長によって京都から追放されることで室町幕府は滅ぶ。織田信長が1582年に本能寺の変で倒れたのちは羽柴秀吉が後継となり、1591年に天下統一を果たした。


秀吉が行った政策の中で社会体制に最も大きな影響を与えたのが「太閤検地」である。これは全国の田畑について所有者と大きさ、収穫量を調べたものだが、中央の政権が各地方の生産量(石高)を把握する以外に、複雑だった土地の権利関係を単純化するという大きな意味があった。

それまでの農地には公家や寺社などの複数の権利者がいる場合があり、税の動きを正確に把握することが難しかったのだが、農地ごとに所有者を決め納税の義務を負わせることで権利関係を単純化し、徴税をやりやすくしたのである。

また、農地の所有者が決まったことによって農民が土地から離れられなくなり、生産性が上がった。それまでは武士と農民の区別があいまいなところがあり、戦が起こると放置される農地が出ていたのだが、太閤検地で農民を土地に縛り付けることで農業生産力を維持しやすくなったのだ。さらに、同時期に行われた刀狩りによっても、武士と農民の区別がはっきりした。

こうして長らく続いた荘園制は完全に姿を消すことになったのであるが、これをもって日本の中世の終わりとする考え方が主流となっている。

さて、食の世界でもたくさんの革命的な出来事があったのが室町・戦国時代だ。また、現代でもなじみのある食品や食生活が多く生まれたのもこの時代である。

まず、この時代に茶の湯の世界が大きく発展したことがあげられる。抹茶は鎌倉時代末期に中国から伝えられたが、それが広く日本の武家社会に根付き、独自の発展を遂げるのがこの時期である。茶道を完成させたのは千利休であるが、彼は「懐石(料理)」の誕生においても重要な役割を果たしている。

茶とともに中国からもたらされたのが「点心」と呼ばれる料理だが、これが室町・戦国時代そして江戸時代の日本で独自の進化を遂げることで、現代の私たちも食べている「豆腐・そうめん・うどん」や「饅頭・羊羹」などが生み出される。つまり、和菓子の原型もこの時代に作られるのである。

また、室町時代には北海道産のコンブが京都を中心に流通するようになり、昆布出汁の料理が作られるようになった。

酒造りでも革新的な技術が開発・利用されるようになったのも室町時代で、濁りがない「清酒」の製造方法や「段仕込み(だんじこみ)」と呼ばれる日本酒独特の醸造方法が開発された。

次回からは、このような中世の様々な食に関する話題について個別に見て行く。

(なお、ポルトガル人のような南蛮人の渡来にともなって「南蛮菓子」や「南蛮料理」がもたらされるが、これらについては「近世」の章でお話しします。)


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